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第7章  姫君の戦い


 コルバイン村に着いたフィーリアを待っていたのは、サンジュアン卿の部隊と悲しい知らせだった。

 ラーベンがバリー候の軍に攻め滅ぼされ、両親は死んだと聞かされたフィーリアは、気だけは失うまいと思った。それでもラックに駐屯するサンジュアン卿のもとへ送り届けるという部隊長の言葉に従い、馬の背に揺られる間、魂が抜け出てしまったような気分になった。ぼんやりと前だけをみつめ、「大丈夫ですか、姫様」と尋ねるファンの声すら耳に入らない。


 ラックは活気に満ちた商人の街だったが、多くの店も着飾った人々も彼女の目には入らなかった。サンジュアン卿が滞在する瀟洒な煉瓦造りの館に入り、フィーリアは悄然と卿の前に立った。サンジュアン卿は、むっつりとした年配の騎士だった。


「フィーリア・ド・バンクリーズだな」

 卿の問いかけに、フィーリアは小さく「はい」と答える。


「君の措置については、これから考える。私が聞きたいのは、セルヴァ伯爵のことだ」

 卿はファンに目を向け、城の様子をあれこれと尋ね始めた。卿とファンのやりとりを聞きながら、セルヴァ伯爵がヴァンパイアだと疑われていることをフィーリアは知った。


(伯爵がヴァンパイアだなんて、馬鹿々々しいわ。いい人なのに)


 ラスが眠りについた時、伯爵が慰めてくれたことは決して忘れない。それに邪悪な魔物なら、あのカミールが大人しく従うはずがない。フィーリアはカミールにどうしても伯爵に仕えたい、許してほしいと言われた時の悲しい気持ちを思い出した。

 どうして自分から離れようとしているのかわからなかったけれど、カミールがそうしたいのなら止められない。泣く泣く許可したけれど、伯爵がヴァンパイアならカミールは彼と戦うだろう。


「伯爵がヴァンパイアだなどと、本気でお考えなのですか」

 気がつくと、そう声に出して言っていた。

「あの方は、親切ないい方でした。決して魔物ではありません」

 サンジュアン卿が、フィーリアを横目で見る。

「証拠があるのだ」

「どのような?」

 卿は笑い、もう下がってよろしいと手で合図した。年端もいかぬ娘に説明するいわれはないと言いたげで、フィーリアは憤慨し、卿を睨んだ。


 その姿を、卿に仕える従士のグレイが賛嘆の目で見ていた。幼い美少女が、宮廷で権力を持つサンジュアン卿に堂々と意見している。腰まである淡い金髪。明るい青の瞳。色白でか細い体に威厳を滲ませた姿は、まるで王女のようだ。


 フィーリアは、ファンを伴って渋々引き下がった。処分が決まるまで部屋から出るなと、館の一室をあてがわれた。

「おそらく我々は、ドートリーユ伯のもとへ送られるだろう」

 ファンはうろうろと部屋を歩き回りながら言った。

「しかし聞くところによるとドートリーユは裏切り、ラーベンを見殺しにしたそうだ。そんな連中の所へなど……」

 と言いかけて口を閉じる。

「まあ、なるようにしかならないというか、流れにまかせるというか、そんなところだな」


 フィーリアの頭は、ヴァンパイア騒動で一杯だった。そうしていればラーベンや両親のことは忘れられる。せめて恩あるセルヴァ伯爵だけは助けたいと思った。伯爵は大好きなラスの友達だし、大好きなカミールの新しい主君だ。


 情報を集めて来るとファンが部屋を出て行ったすぐ後で、フィーリアも部屋を出た。伯爵がヴァンパイアだという証拠とは何だろう。

 そこかしこにいる兵士をつかまえて尋ねてみたが、10歳の少女の質問にまともにとり合う兵士はいない。「そういう事は我々におまかせ下さい」と言うばかりで、フィーリアは段々苛立って来た。


 どこかに口の軽い兵士はいないかと辺りを見回す。――いた! 中庭を、さっきサンジュアン卿の後ろに控えていた従士が歩いている。彼女は小走りで駆け出し、グレイを呼び止めた。


「フィーリア・ド・バンクリーズと申します。あなたは……?」

「グレイ・ド・ラ・ガイヤルドです」

「ガイヤルド?」


 聞き覚えがあった。親戚がいたんじゃなかったかしらとフィーリアは記憶をたどった。グレイは少女の顔を見て、にっこりしている。

「僕の祖母の姉は、聖カタリナ修道院長ですよ」

「まあ。では私たち、親戚ですね」


(そうだった。おばあ様の妹はガイヤルド卿に嫁いだんだった。なんて幸運なの)


「親戚のよしみで、教えてくださいませんか。セルヴァ伯爵がヴァンパイアだという証拠って何なのです?」

「それは……」

 グレイは逡巡しながら答えた。

「宮廷の貴婦人が数人、証言したのです。血を吸われたらしいと」

「らしい? はっきりしていないんですか?」

「ええ、まあ……貴婦人方は伯爵の恋人だったようで、後になって血を吸われたらしいと気がつかれたようです」

「後になって? 血を吸われたんでしょう? どうしてその時に気がつかなかったのかしら」

「その時は夢中で……首筋に血を吸われた後が残っていたんです。そういう女性が複数いて、大司教様がご覧になり、これはヴァンパイアの仕業だと」


「その時って? 何に夢中だったの? 首に噛みつかれたら、普通は気がつくでしょう? どうして気がつかなかったの?」

 グレイの顔に優しい笑みが浮かび、フィーリアは不思議な気持ちで彼を見上げた。緑の瞳が面白そうに彼女を見つめ、瞬いている。訳が分からないまま突然恥ずかしい気分になり、フィーリアはそわそわとドレスをいじった。


 何となく話題を変えた方がいいのではと考えているうちに、館から出て来るファンが目に入った。ファンはゆっくりと中庭を横切り、二人に近づいて来る。

「部屋から出てはいけないと、あれほど言っておいたのに」

 グレイをじろりと一瞥して、ファンはフィーリアに向き直った。

「ギュンター卿が見えています。お会いせねばならん」


 フィーリアの顔がこわばった。ドートリーユ伯の長男ギュンターとは婚約しているが、一度も会ったことがない。

「卿は広間にいらっしゃるのですか?」

 グレイが尋ねた。

「いや。青の間だと言われた」

「ご案内しますよ。この屋敷は入り組んでいますから。こちらにどうぞ」

 先に立つグレイを渋い顔で見やりながら、ファンは肩をすくめて後に続いた。


 フィーリア達が部屋に入るなり、ギュンターの怒声が飛んだ。

「遅いではないか!」

 淑女をいきなり怒鳴りつけるとは、何たる無礼。フィーリアはかちんときて、顎を突き出した。

「連絡を受け、急ぎ駆けつけましたわ」


 女性に反抗されることに慣れていないギュンターは、残忍な目を細めた。

「負け犬の娘のくせに、口答えだけは一人前だな。お前には躾が必要だ」

 言うなりフィーリアに歩み寄り、平手打ちを食らわせる。ファンは息を呑み、フィーリアに駆け寄った。


「今後は目上の者には従順に従え。わかったか」

 吹き飛ぶように倒れたフィーリアを見ながら、グレイが言葉を挟む。

「ギュンター様が、フィーリア姫と結婚されるとは思えないのですが。バリー候のご息女と婚約されるのではないのですか?」

 グレイはかまをかけたつもりだったが、ギュンターの顔色がさっと変わる。

「小僧、誰にそんな話を吹き込まれたのだ」


「ギュンター様ほど賢い方なら、滅びてしまったラーベンの姫よりも、バリー候のような実力者のご息女を選ばれるだろうと誰だって思いますよ」

 とにっこりする。

「もしそうなれば、我が主君サンジュアン卿がどれほど喜ぶことか。当然あなたとあなたの父君はバリー候を通してオルレアン公の配下につかれ、サンジュアン卿の同胞になるのでしょうから」

「小僧、小賢しいと長生きできんぞ」

 ギュンターは言い捨てた。


「はい。しかしギュンター様、ラーベンを今後どうするかを決めるのは国王陛下です。ラーベンの姫は国王陛下の被後見人ということになるでしょう」

「そんなことにはならん」

 ギュンターは言い放ち、フィーリアを睨みつける。

「さっさと出発の用意をしろ。すぐに私の城へ向かうぞ」


 妙だなとグレイは思った。バリーの娘と婚約しようとしているか、あるいは既に内々に婚約したかもしれない男が、何故ラーベンの姫を保護するのだろう。

「では早速用意をして参ります。姫様、部屋に戻り荷造りを致しましょう」

 グレイがフィーリアに微笑みかけ、フィーリアは目をぱちくりさせた。荷造りするほどの荷物もないのに。だがギュンターから離れられるなら、嘘でも何でも大歓迎だ。彼女は、ギュンターが大嫌いになっていた。


「荷物はお前が取って来い」

 ギュンターがファンを顎で指し示す。

「フィーリアはここに残れ」

「女性の荷物を男性に触らせるのですか。下着もあるのですよ。絶対に嫌です」

 フィーリアは頑強に抵抗し、ギュンターは憎々しげにフィーリアを睨んで悪態をついた。

「急いで取って来い。待たせたら承知しないぞ」

「はい」

 素直に返事をし、フィーリアは飛ぶように部屋を出た。グレイが彼女の腕を取り、誘導する。ファンは呆気にとられながら、二人に従った。


「こっちだ」

「何処へ行くの?」

「サンジュアン卿に話してみる。その間、隠し小部屋で待っていてください」

 フィーリアとファンをサンジュアン卿の寝室の隣にある小さな部屋に案内し、グレイは卿の執務室に走った。

「ドートリーユの様子がおかしいんです」

 彼は、手短かに説明した。

「ドートリーユ伯は長年ブルゴーニュ派でした。ラーベンをバリーに与えることで、ブルゴーニュ派はバリーを自派に取り込んだのかもしれません」

 サンジュアン卿は目を丸め、顎鬚を撫でた。


 先月彼の主君オルレアン公ルイが暗殺され、戦況は一変した。オルレアン派はルイの幼い息子を擁し、かろうじて瓦解を免れている状況だ。長年オルレアン公とブルゴーニュ公の権力は拮抗していたが、俄然ブルゴーニュ公が有利になってしまった。

 こんな時にむやみに争うなとバリー候を説得しにやって来たが、すでに敵方に寝返っているとなると対処法を変えなければならない。


 今バリー候に寝返られるのは困る。オルレアン派は次々と切り崩され、あの野心の塊のようなブルゴーニュ公の一人勝ちになりかねない。彼は王位を狙っているという噂もあるが、肝心の国王は狂人でブルゴーニュ公の力を抑えることもできない。


「ラーベンの姫君を、卿の保護下に置かれてはいかがでしょう。小耳に挟んだのですが、ドートリーユの部隊が聖カタリナ修道院の近くで野営をしていたそうです。それほどまでに姫君が必要なら、逆手に取って、バリーとドートリーユの仲を裂く駒にできるのではないでしょうか」

「まったく小賢しい小僧だな、お前は。父親にそっくりだ」

 卿は苦笑した。グレイの父親と卿は同じ釜の飯を食った仲で、その関係で7歳の時からグレイを預かっていた。


 フィーリアを駒呼ばわりしてグレイの胸は痛んだが、そんなことは言っていられないと心を鬼にした。ギュンターの手の届かないサンジュアン卿の保護下なら、彼女は平穏に暮らせるのではないかと彼は考えていた。


「わかった。ギュンターと話してみよう。バリーの娘との婚約を考えているのなら、諦めてもらうしかないな。イングランドと内通するような売国奴の手下と、バリーを結びつけるわけにはいかん」


 ブルゴーニュ公は昨年イングランドと、支配下にあるフランドルとの通商条約を締結した。フランドルは神聖ローマ帝国に属しているとはいうものの、公自身はフランス国王の臣下だ。フランスとイングランドの百年戦争は続いているというのに、国王の了解を得ず勝手に敵国と条約を結ぶなど、裏切り行為以外の何ものでもないというのがサンジュアン卿の考えだった。


 表向きは通商条約だが、裏でどんな密約が交わされているか分かったものではない。ブルゴーニュ公は裕福だ。イングランドの援助を金で買い、国王シャルル六世を攻め滅ぼし、自分が王位に就くことも充分あり得るのだ。


 サンジュアン卿はギュンターに、フィーリアを自分の保護下に置くと宣言した。ギュンターは面食らいあの手この手を使って卿を翻意させようとしたが、最後には悪態の限りを並べ壁を足で思いっきり蹴りつけて帰って行った。


 ギュンターが部隊を引き連れラックから出たのを確かめて、サンジュアン卿は側近の一人に命じ、バリー候と会見する手はずを整えさせた。相続人を保護下に置くということは、その領地を手に入れるということだ。バリー侯がラーベンを欲しがっているなら、バリー候を味方陣営に買い戻すため、ラーベンと10歳の姫を差し出すのもやむを得ないと卿は考えた。





(精霊たちが消えた……)

 モミの木を見上げながら、セルヴァ伯爵は形のいい眉をひそめた。ラスの姿すらない。木の根もとをみつめ、振り返って巨木の向こうに目をやった。

 木々の間を縫うようにしばらく歩き、伯爵は池のほとりに立った。泡立つ池の表面を眺め、彼はますます蒼い目を曇らせた。――また広がっている。

 5年前に彼がここへ来た時、池は地下水が沁み出る湿地だった。精霊の木が塞いでいるはずの地下世界の入り口に何らかの理由で亀裂が入り、木を迂回するように池のあるこの場所から魔物たちが湧き出ていた。


 湿地は、伯爵にとって利点があった。湿地に立つと彼の魔力が増したのである。魔物の目や耳が鋭さを増し、人間の血を飲むことを最小限に抑えることが出来た。だが伯爵が利用している間に湿地はどんどん広がって池となり、湧き上がる魔物の数が増えた。


 呼んでいる者たちがいるからだ、と伯爵は考えている。飢饉。災害。戦争。疫病――それらに苦しむ人間たちの恨みや悲しみが、魔物を呼ぶ。

 最初の亀裂も、人間の心に原因があるのだろう。地上に上がった魔物たちはさらなる不幸を引き起こし、ますます大量の魔物を呼び寄せることになる。終わりがない。


 伯爵の視線の先で、池が波立ち始めた。黒い霧がむくむくと現れ、池の表面を覆う。彼の目には、霧の中に巣食う物がはっきりと見えた。大量の魔物たちが、北に向かっている。伯爵は小さく舌打ちした。また人間たちが、どこかで戦争をしているのだ。

 霧は横に広がり、城を通り抜けて流れていく。彼は急いで城に向かった。





 夜更けにベッドに入り、ほんのわずか眠った後、カミールは不気味な冷たい気配に目が覚めた。

 天井を黒い影のようなものが漂っている。首を巡らせ横を見て、思わず身を竦ませた。異形のものたちが黒い霧に包まれて、彼女の横を流れていく。

 静かに起き上がると、一匹の樽のような化け物が彼女に目を留めた。目が合うと冷たい魔物の目が赤く光り、彼女に近づく。ベッドの上をあとずさる彼女と魔物の間に、黒い影が飛び込んだ。


「目を合わせるな。とり憑かれるぞ」

 伯爵は彼女の顔を自分の胸に押しつけ、魔物を凝視した。伯爵の目が赤く変わり、魔物と睨み合う。やがて魔物は諦めて立ち去った。

「これは、何なのですか」

 伯爵の腕の間から顔をのぞかせ、カミールは黒い霧を見回した。


「見るな」

 彼は壁にもたれ左手で彼女の頭を、右手で背中を抱きしめた。

「地下から魔物が上がって来たのだ。大勢の人間の死が、魔物を呼び寄せている。奴らは気に入った人間にとり憑こうとするから、気づかれないようにしろ。静かにしていれば、通り過ぎていく」


 大勢の人間の死――。戦争だろうか。餓死か。フランスはもう何十年も魔物を呼び続けてきたのだろうかと、カミールは暗い気持ちになった。

多くの魔物が通り過ぎていく中、人間の気配に気づきカミールに目を向けるものがいた。伯爵はそのたびに赤い目と目を合わせ、無言の戦いを続けた。


翼ある獣の姿をした魔物が、伯爵を無視して飛びかかろうとする。伯爵は傍らに置いた剣に手を伸ばし、素早く切りつけた。魔物はぎゃっと叫び、驚いて振り返ったカミールの前で二つに切り裂かれ、消えた。


「今のは……? あなたには、アレが切れるのですか」

 彼は苦笑しながら、彼女の頭を押さえた。

「見るなと言っただろう。……そう、切れる」

「どうやって……。あなたが魔物だからですか」

 彼は、ため息をついた。

「そうなんだろうな。人間同士は戦い、魔物同士も戦う。人間と魔物が戦うことは、まずない。追い払うか、とり憑くか。そういう方法しかないし、大抵の場合人間には魔物が見えない。ヴァンパイアは人間と魔物の狭間にいるから、両方と戦えるんだろう。何故そうなのかは、私にもわからないが」


 人間と魔物の狭間――――つまり、どちらでもないという事だ。魔物でもなく人間でもない。だから彼は孤独なのかもしれない。同族の間ではどうなんだろう。マーカムは伯爵を変わり者と呼んでいたけれど。

 もしもわたしがヴァンパイアになったら、ずっと伯爵の傍にいられるのだろうか。彼の孤独を癒せるだろうか……。

 何より今のままでは、魔物が現れるたびに彼に守ってもらうことになる。わたしが主君である彼を守るべきなのに。


 伯爵の耳には、カミールの心臓の鼓動が聞こえていた。彼女の体温が高まるにつれ血の芳しい香りが立ちのぼり、彼を苦しめた。

 抑えても、牙が伸びてくる。彼女の首筋に目がいく。白く柔らかい肉の向こうに血管が透けて見え、彼はごくりと唾を呑み、力ずくで衝動を抑えつけた。


 伯爵の冷たい体に熱気のようなものを感じ、カミールは顔を上げ、伯爵と目が合った。彼の唇から牙が飛び出している。


 血が欲しいんだと、彼女は悟った。彼はわたしの血を飲みたがっている。耐えているのは、私をヴァンパイアにしないためだろう。カーロのことがあったし、それ以前から彼は自分の手でヴァンパイアを造らない主義だった。姿は魔物でも、彼の心は人間だ。心のどこかで、魔物の自分を嫌悪している。


 すべてのヴァンパイアが悪というわけじゃない。カミールは、獣性を帯びていても端整な伯爵の顔を見つめた。

 もしもヴァンパイアになっても人間を襲わず、世界の片隅で伯爵と一緒にひっそりと暮らせばいい。伯爵はわたしの血を心ゆくまで飲めるし、わたしは彼を守れる。魔物とも戦える。こんな風に誰かに守られるより、誰かを守って戦いたい。

 カミールはそっと決心し、伯爵の耳元で囁いた。


「魔物たちがいなくなったら……わたしをヴァンパイアにしてください」

 伯爵の体がこわばった。

「自分の身は自分で守りたいんです。人間ではそれができません。強くなって、あなたを守りたい。わたしはあなたにお仕えしている身です」

「二度とそんなことは口にするな」

「どうしてです。あなたと同じ時を刻みたいと望むのは、そんなにいけない事ですか?」

「お前は何もわかっていない。ヴァンパイアにしたら、お前はわたしを憎むようになるだろう」

「自分で決めたことです。憎むなら、自分を憎みます」

「なお悪い」

 伯爵は小声で悪態をつき、彼女の顔を肩に押しつけた。


「何も言うな。動くなよ」

 動くと血の香りが強くなるからと、伯爵は心の中で付け加えていた。彼の忍耐は、限界に近づいていた。


 カミールは両手を伯爵の背中に回し、彼を抱きしめた。ヴァンパイアが牙をうめるのはこの辺りだろうかと、唇で優しく首筋をたどる。彼の全身の筋肉がこわばった。


「誘惑するな」

 彼は、かすれた声で言った。震える体を彼女から離し、彼女をのぞき込む。その目にある怒りに、カミールははっとした。

「今度こんなことをしたら、追い出すぞ」

 冷たい声だった。彼女は目を見開き、彼を凝視した。

「お前は私を笑わせてくれるから、ここに置いているのだ。こんなことをされては、笑うどころではない」

 伯爵は彼女を突き離し、部屋を出て行った。黒い霧は、いつの間にか消えていた。


 カミールは愕然とした。伯爵の言葉が突き刺さる。誘惑するな? そんなこと、したこともない。だが彼の目には、誘惑と映ったのだろう。それも、彼が嫌がるような……。


 ベッドから下り、鏡台の上にある小さな手鏡を手にとった。日に焼けた小さな顔は、記憶にある美男の父によく似ている。

 これまで『端整』とか『整った顔』という言葉でよく形容されたが、その後には必ず『でも』が付いた。『色気がない』『女っぽさに欠ける』と。


 自分の容貌は人並みだと思っていたけれど、考えてみればそれはラーベンの領地内でのことだ。世慣れた伯爵の目には――おそらく世界中を旅し多くの美女を見て来た彼の目には、どう映るだろう。


 以前、旅の途中の公爵令嬢がラーベンの館に泊まったことがあった。肌が抜けるほど白い、はっとするような美女だった。しとやかな物腰、優雅な振舞い。あの姫君に比べれば、わたしは……。


 突然、現実を突きつけられた気がした。わたしは日焼けした野蛮人の田舎娘だ。伯爵の目には、醜く映るに違いない。カミールの手が震えた。

 わたしは醜い――――伯爵が嫌がるほどに。彼の冷たい拒絶を思い出し、きっとそうなのだろうと思った。醜い上、小作農出身でフィーリア姫のお蔭で騎士になれただけの兵士だ。身の程もわきまえず、伯爵に迫ってしまった。

 足から力が抜け、絶望に包まれて、カミールはその場に座り込んだ。

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