プロローグ
中世ゴシック風ダークホラー・ラブファンタジーです。ヴァンパイア伯爵と少女騎士のシリアス・ラブをお楽しみください。
一部、残酷な描写があります。苦手な方は避けてください。
――――1392年 パリ
地上を徘徊する魔物には、低級のものが多い。
彼らは、餓えや病に苦しむ人間たちを喜んで眺める。
パリでエリザベート・ヴィッテル夫人と名乗る彼女は、齢700年を超えた頃から魔物を食べるようになった。
飢饉に襲われた村や戦場を巡っては、低級の魔物を狩り小さな香水瓶に詰める。
瓶から出ようともがく彼らはしばらく経つと疲れ果て、小さくなったまま眠る。
あとは頃合を見計らって、口に入れるだけだ。
エリザベートは深夜、自宅の居間で香水瓶の中のものを小皿にあけた。
獣に似た小さな魔物が転がり出て、煙のようにもくもくと元の大きさに戻ろうとする。
白く細い指でつまんで転がし、指先で封じながらさらに丸めると、魔物は黒い丸薬と化す。
彼女は皮袋に収められた人間の血を杯に注いだ。
血の芳香が鼻腔をくすぐり、唇の間から二本の牙が現れる。
いつの頃からか彼女は血を主食ではなく、飲み物とみなすようになっていた。
主食は魔物だ。丸薬と化した魔物を口に入れ、血と一緒に飲み下す。
体中に力がみなぎり、妖艶な美貌が輝きを増した。
黒い瞳が黄金色に光る。
彼女の魔物の目に、こちらに向かう国王シャルル六世の妃イザボー・ド・バヴィエールの姿が映り、口もとに笑みが浮かんだ。
――――野心と欲望にまみれた人間は、大好きだ。
「エリザベート、いつ旅から戻って来たの?」
22歳の若い王妃は馬上から、玄関で出迎えるエリザベートに声をかけた。
「また若返ったんじゃない?」
「恐縮でございます、王妃様」
エリザベートは艶然と微笑み、王妃を迎え入れた。
「相談に乗って欲しいことがあるの。あなたが戻って来るのを待ってたのよ。もう、ブルゴーニュ公には我慢がならないわ」
快活な王妃は目に怒りをほとばしらせ、居間の椅子にどさりと座った。
「人を見下したようなあの態度。王妃の私に向かって、女は黙って刺繍してろって言うのよ。国王のシャルルに対しても同じ。もう摂政じゃないのにあれこれ指図して。シャルルもシャルルだわ。意気地がないものだから、面と向かってフィリップに文句が言えないのよ」
ブルゴーニュ公フィリップは現国王シャルル六世の父、シャルル五世の弟にあたる。
シャルル五世が急死した後、弱冠12歳のシャルル六世の摂政となった。
4年前、20歳になったシャルル六世は摂政を廃し親政を始めたが、元来繊細で気弱な性格のため、ブルゴーニュ公に逆らえない。
「バイエルンで幼い少女だった頃、あなたは王妃になりたいと望みましたね」
エリザベートは微笑みながら言った。
「望みがかなったでしょう?」
「王妃は妻であり母であり飾り物である。それだけよ。とても満足できないわ」
イザボーの瞳が輝く。
「私、女王になりたいわ。この国に君臨したいの」
「どうやって? 国王を亡き者にすることをお望みですか?」
「いいえ、それはだめ」
王妃は背もたれに背を預け、考え深げに指先で額をたたいた。
「国王が亡くなるのは駄目。権力が息子と彼の妻に移ってしまうわ。国王には生きていてもらわないと。でも実権は私のものにしたいの。たとえば……そうね、彼が廃人になるっていうのはどう?」
彼女はそう言って、にっこり笑った。
「政治を、私とオルレアン公にまかせてくれればいいのよ」
なるほど。エリザベートは頷いた。
オルレアン公ルイは国王の弟で、20歳の美青年だ。王妃が夢中になるのも無理はない。
「ルイは私にぞっこんだから、言いなりになってくれるわ。さしあたり、財務大臣をやりたいそうよ」
「お二人の間で、そこまでお話が進んでいるのですか」
エリザベートは、ぞっとするような笑みを浮かべた。
「わかりました。少々お待ちください」
そう言って奥の間に行き、棚の扉の鍵を開けた。
ずらりと並んだ香水瓶の中から一つを選び、居間に戻って王妃に差し出す。
「これを国王陛下に飲ませてください。そうすれば、あなたの望みはかなうでしょう」
王妃は香水瓶を手にとり、眺めた。中には小さな黒い丸薬が一つ。
「これは何?」
彼女の問いに、エリザベートは首を振った。
「聞かない方が身のためですよ。教会がうるさいでしょう?」
「異端審問会のこと? まさか王妃を魔女呼ばわりしないわよ。でも……そうね、知らない方がいいかもしれないわね。ありがとう、エリザベート。頼りになるのは貴女だけ。10年前からずっとそうだったわ」
共犯者めいた笑みをエリザベートに向け、王妃は帰って行った。
1ヶ月後、国王シャルル六世は発狂した。