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第89話 質量保存則と、ドワーフ工房の親方(後編)

 親方の太い眉が、限界まで跳ね上がった。


「なんじゃ、こりゃあ……」


 親方の視線の先にあるのは、光を一切反射しない、深い闇のような漆黒のインゴットだった。


「ミスリルの合い鋼なんかじゃ心許なくてな。最高の素材を持参したってわけだ」


 俺が胸を張って答えると、親方は煤けた顔をインゴットに近づけ、太い指でそっと表面を撫でた。


 彼の顔色が一瞬にして変わる。


「……見間違いじゃなけりゃ、黒鋼(クロムアダマン)だが?」


「ああ。魔導炉で極限まで精錬してある。馬鹿みたいに魔力を持っていかれたが、頑丈さは世界一だろ」


 俺の言葉に、親方は咥えていた煙管をポロリと落とした。


「……黒鋼じゃが?」


「そうだ」


「黒鋼で、椅子を作れと?」


「そうだ」


 俺が真顔で頷くと、親方は天を仰いで数秒間固まり、やがて腹の底から地響きのような笑い声を上げ始めた。


「ぶははははははっ! 黒鋼! 神々の武器や、要塞の城門の芯材に使われる伝説の金属で、折りたたみの椅子を作れと抜かしおったわ!」


 親方の笑い声に、工房の奥で作業していたドワーフの職人たちが何事かと集まってくる。


「親方、そりゃマジですか」


「ヒューマンの兄ちゃん、頭が湧いてるんじゃねえのか」


 職人たちがざわめく中、親方は笑い涙を拭いながら俺の肩をバンバンと叩いた。


「面白え! 最高に面白えヒューマンだ! だがな、この純度の黒鋼を溶かして管状に打ち直すとなると、うちの工房の最大火力でも何日かかるかわからんぞ」


「火力が足りないってんなら、俺が手伝ってやるよ」


 俺はニヤリと笑い、手のひらに魔力を集中させた。


 チロチョロと、青白い炎の舌先が指先から漏れ出す。


 ただの火魔法ではない。


 大地の底を流れる龍脈のエネルギー、マグマの熱量そのものを抽出した、火龍としての純粋な熱だ。


「俺の魔力を魔導炉に注ぎ込んでやる。それで加工できるだろ?」


 その青白い炎の熱量を感じ取ったのか、親方と職人たちの目の色が、完全に狂気を帯びた職人のそれへと変わった。



◆◆◆



 その日から、北のハニマル国にあるドワーフの工房は、不眠不休の地獄の鍛冶場と化した。


 俺が火龍の魔力を極限まで絞り込んで魔導炉に注ぎ込み、ドワーフたちが交代で巨大なハンマーを振るう。


 カンッ、カンッ、という甲高い金属音が、昼夜を問わず山間に響き渡った。


 黒鋼を溶かし、引き延ばし、俺が描いた図面の通りに金属の管へと成形していく。


 可動域となる蝶番のピン一つに至るまで、全てが純度100パーセントの黒鋼だ。


 座面と背もたれには、ドワーフたちが秘蔵していた極上の地竜の革を何重にも張り合わせ、黒鋼のビスでガッチリと固定した。


 俺も職人たちと一緒に汗と煤にまみれながら、ミリ単位の可動域の調整に口を出した。


 関節の理を知り尽くしているからこそ、力がどの方向に逃げるのか、どこに最も負荷がかかるのかが手に取るようにわかるのだ。


 そして数日後。


 蒸気と熱気に包まれた工房の中央に、一つの作品が完成した。


 見た目は、何の変哲もない折りたたみ式のパイプ椅子だ。


 しかし、その存在感は異様だった。


 光を吸い込むような漆黒の金属フレームに、重厚な革の座面。


「……できたぞ、ヨシュアと言ったか」


 親方が、血走った目で満足げに息を吐く。


「我らドワーフ一族の歴史においても、これほど無駄で、これほど頑丈で、これほど美しい傑作を打ったのは初めてだわい」


「恩に着るぜ、親方。最高の仕事だ」


 俺はゆっくりと歩み寄り、その『漆黒のパイプ椅子』の前に立った。


 重力魔法による体重制御を、完全に解除する。


 数百万トンの質量が、俺の百八十五センチの身体に重くのしかかった。


 息を一つ吸い込み、ゆっくりと、腰を下ろす。


 ――ギシッ。


 微かな革の擦れる音がしただけで、パイプ椅子はびくともしなかった。


 俺の途方もない超質量を、黒鋼のフレームが完璧な力学構造で受け止め、床へと荷重を逃がしているのだ。


「……おおっ」


 俺は思わず、腹の底から感嘆の声を漏らした。


 人化の術を習得して以来、座るという行為は常に神経をすり減らす苦行だった。


 だが今、俺は自らの体重を完全に預け、背もたれに深く寄りかかっている。


 全く壊れる気配がない。


 ただ普通に座れるということが、これほどまでに心安らぐことだとは思いもしなかった。


 この安心感なら、座った状態でも落ち着いて重力魔法を調節することもできる。


 いつかはこのパイプ椅子も不要になる日が来るかもしれない。


 そんなことを瞬時に夢想するほどに素晴らしい仕事だった。


「完璧だ。完璧すぎるぜ、親方!」


 俺が満面の笑みで立ち上がり、パイプ椅子をパタンと折りたたんで片手で持ち上げると、ドワーフたちから割れんばかりの歓声が上がった。


 片手で軽々と持ち上げているように見えるが、この椅子だけでとんでもない重量がある。


 並の人間なら、持ち上げるどころか引きずることすら不可能だろう。


 だが、火龍の膂力を持つ俺にとっては、ちょうどいい手荷物だ。


「約束の代金だ。受け取ってくれ」


 俺はマジックバッグから大量の金塊と、紅泉郷で造らせた極上の酒樽を取り出し、工房の床に並べた。


「おおっ、こいつは良い酒の匂いだ! ヨシュアよ、お前さんならいつでも大歓迎だぞ!」


 酒の匂いに目を輝かせる親方たちに背を向け、俺は漆黒のパイプ椅子を肩に担いで工房を後にした。



 ◆◆◆



 俺の人間社会における冒険者としての人生――ヒト型の第二の人生は、この北の地から本格的に幕を開けた。


 どこへ行くにも、常にこの漆黒のパイプ椅子を持ち歩く。


 酒場で休む時も、野営で火を囲む時も、俺は備え付けの椅子には座らず、自前のパイプ椅子を開いて、どっかと腰を下ろした。


 俺は冒険者ギルドに登録し、生活費と美味い酒を稼ぐために、魔物討伐や護衛の依頼をこなすようになった。


 俺の戦闘スタイルは、剣や魔法を使う一般的な冒険者とは全く異なる。


 己の肉体と、関節の理を駆使して戦う武僧(モンク)のスタイルだ。


 それに加えて、手には常にあの漆黒のパイプ椅子がある。


 ある日の依頼で、凶暴なオーガの群れと遭遇した時のことだ。


 身の丈三メートルを超えるオーガが、丸太のような棍棒を振り下ろしてくる。


 俺は避けることもせず、折りたたんだ状態のパイプ椅子を盾のように掲げた。


 ガァンッ!!


 凄まじい衝撃音が響き、オーガの持つ太い棍棒が真っ二つにへし折れた。


 黒鋼でできた世界一頑丈な椅子は、傷一つついていない。


「なっ……!?」


 驚愕して動きを止めたオーガの懐に、俺は一瞬で滑り込んだ。


 パイプ椅子を地面に突き立て、オーガの太い腕を両手で絡め取る。


 前世で培った、師匠直伝のランカシャースタイル、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンだ。


 相手の関節が曲がらない方向を見極め、てこの原理を利用して完璧な脇固めの体勢へと移行する。


「魔法だの筋力だの、小手先の力ばっかり頼るから打たれ弱えんだよ。関節ってのはな、どの種族も曲がらねえ方向には曲がらねえんだ」


 俺は低い声で告げながら、超質量をほんのわずかだけ乗せて腕を絞り上げた。


 メキィッ、という鈍い音が響き、オーガが苦痛に満ちた絶叫を上げる。


 たまらず体勢を崩したオーガの巨体を、地面へと強引に引きずり倒す。


「沈めッ!」


 俺は片足を高く上げ、自身の数百万トンの質量を頭部の一点に極限まで圧縮した。


 そのまま、全体重を乗せた必殺の一本足頭突きを、オーガの脳天へと振り下ろす。


 ゴシャァッ!!


 大地を揺るがすような衝撃と共に、オーガの意識は完全に刈り取られ、白目を剥いて地面に沈み込んだ。


 俺は何事もなかったかのように立ち上がり、首のタオルで汗を拭う。


 そして、地面に突き立ててあったパイプ椅子を開き、その上にどかと腰を下ろして息を吐く。


「ふぅ。やっぱり、仕事の後に気兼ねなく座れる椅子があるってのは最高だな」


 そんな破天荒な戦いぶりは、行く先々で伝説となっていった。


 巨大な魔獣の突進を椅子で受け止め、関節技でへし折り、最後は強烈な打撃で沈める強面のおっさん。


 いつしか人々は、俺のことを畏敬と恐怖を込めて『椅子持ちのヨシュア』、あるいは『椅子持ちのドレイク』と呼ぶようになった。


 長命種である俺にとって、この冒険者稼業は退屈しのぎとしては最高の娯楽だった。


 紅泉郷で造らせた極上の酒を水筒に入れ、パイプ椅子に座って満天の星空を見上げる夜は、何物にも代えがたい至福の時間だ。


 俺は各地を放浪しながら、人間の営みをすぐそばで観察し、時には彼らの厄介事に首を突っ込んだ。


 そうやって自由に世界を歩き回るうちに、俺の噂は次第に大陸全土へと広まっていった。


 やがて、そんな俺の生き様に憧憬を持つ若者達が現れる。


 後に光華王朝で栄達し、俺を宮廷へと引きずり出すことになる英傑たち。


 彼らとの旅路が、俺のこの長すぎる第二の人生において、最も輝かしく、そして最も悲惨な時代への幕開けとなるとは、この時の俺はまだ知る由もなかった。


 今はただ、この頑丈な椅子に座って美味い酒が飲めるという、ささやかな幸せを噛み締めていたのである。

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