第69話 歪められた浪漫と、終わらない軍拡、親友の死
あの日、月酔仙と共に星の海へ至る箱舟の夢を語り明かした夜。
俺の長すぎる人生において、間違いなく最も輝かしく、満ち足りた黄金時代。
だが、その輝きは、あまりにも短く、そして残酷な形で終わりを告げることになった。
光華王朝の壮麗な宮廷の奥深く、月酔仙に与えられた広大な研究施設。
かつては純粋な知的好奇心に目を輝かせた文官や職人たちが集い、熱く議論を交わしていた場所だ。
だが、今の研究室を満たしているのは、焦燥と、血生臭い狂気、そして油と鉄の淀んだ匂いだ。
「紅月仙殿。……軍部から、推進剤の配合比率と、切り離し機構の構造図の提出を急ぐよう、再び通達がありました」
疲れ切った声でそう告げたのは、数え切れないほどの羊皮紙に埋もれるようにして座る月酔仙だった。
俺は漆黒のパイプ椅子の上で深く、重たい息を吐き出した。
かつての飄々とした老仙人の顔には、見る影もないほどの深い疲労と絶望が張り付いている。
「またか。……奴ら、まだあの鉄の筒を、ただのバカでかい大砲にするつもりでいやがるのか」
俺が忌々しげに吐き捨てると、卓上の黄龍が淡く明滅して冷徹な事実を告げた。
『師父。遺憾ながら、光華王朝の最高意思決定機関において、我々の進めていた宇宙探査計画は完全に別の目的へと転用されました。すなわち、遥か遠方の特定座標へ大質量兵器を正確に投射するシステム――『弾道ミサイル』の開発です』
「わかってるよ黄龍。口に出して言われると、余計に腹が立つ」
俺は分厚い指で額を押さえた。
すべての元凶は、遥か北方に位置する極寒の軍事大国、スヴァトゴーラ王朝との対立だった。
終わらない軍拡競争が限界点を超えようとしていたのだ。
スヴァトゴーラが新たな機甲部隊を配備したという報せにパニックに陥った皇帝たちがすがりついたのが、月酔仙の『ロケット』の技術だった。
空高く、重力の壁をぶち抜いて天へと昇る推進力。
それが彼らには「スヴァトゴーラの防壁を無視して、空の彼方から一瞬で敵の首都を火の海に変える究極の兵器」としか映らなかったのだ。
純粋な夢が、悪意によって最も効率的な大量殺戮兵器へと歪められていく。
「……私の、せいです」
月酔仙が、震える両手で顔を覆い、絞り出すように呻いた。
「私が、あの月に触れてみたいなどと、あんな途方もない夢を見なければ。火龍殿から星の海の理を聞き出さなければ、このような……こんな恐ろしい地獄の釜の蓋を開くことにはならなかった……!」
「自分を責めるな、月酔仙。お前さんが望んだのは、あんな血生臭いオモチャじゃねえ」
俺はパイプ椅子から立ち上がり、彼の肩にそっと手を置いた。
「人間ってのは、便利な道具があれば、いつだってそれを殴り合いの棍棒に変えようとする生き物だ。それはお前さんの責任じゃねえよ」
「ですが! 私の仙術の理論が、黄龍の演算が、今まさに数万の命を奪うための照準器として使われようとしているのですぞ!」
月酔仙の悲痛な叫びが、薄暗い研究室に空しく響いた。
純粋な夢を汚され、自らの手で世界を焼く兵器を生み出してしまったという絶望と自責の念が、月酔仙の仙術を枯渇させ、命を内側から確実に削り取っていた。
俺は奥歯を強く噛み締めた。
世界のバランサーたる門番・火龍として、人間同士の国取り合戦や政治には口出しできないという絶対の掟がある。
だが、親友がゆっくりと死に近づいていくのを、ただ見ているしかない己の無力さが腹立たしかった。
◆◆◆
数日後。
宮廷の空気は、いよいよ引き返すことのできない狂気の淵へと足を踏み入れていた。
そして、俺にとってさらに胃の痛くなるような、最悪の決定が下された。
離れの庵に、見慣れた足音が近づいてくる。
現れたのは、実戦用の使い込まれた革鎧と大剣を身に帯びた若武者たちだった。
チー・ダイ、フェイ・ガオ、ヤー・ダー、シャオ・イェの四人だった。
「……紅月仙様。ご無沙汰しております」
代表して前に出たシャオ・イェが、死地に赴く者の覚悟が張り付いた顔で深く頭を下げた。
「俺たち、スヴァトゴーラとの最前線への出立を命じられました」
チー・ダイが、いつもの無邪気な笑顔を消し去り、力強く宣言する。
彼らの瞳には、国のために戦うという将軍としての誇りと、悲壮な決意が宿っていた。
だが、俺の胸の中は、絶望的な焦燥感でどす黒く塗り潰されていた。
スヴァトゴーラの最前線がどれほどの地獄か。
魔法抵抗が極大の殺戮兵器の群れ。
国家同士の大量殺戮の最前線に放り込まれれば、彼らなどただの安い使い捨ての駒に過ぎない。
「……行くのか、どうしても」
「皇帝陛下の勅命です。俺たちは、光華王朝の将軍として、この国と、故郷である紅泉郷の民を守る義務があります」
彼らは、自分たちが捨て駒であることを薄々理解している。
俺は苛立ちのままにパイプ椅子の背もたれに思い切り体重を預けた。
黒鋼のフレームが、俺の無意識に漏れ出た怒りの圧に悲鳴を上げる。
「いいか、お前ら」
俺は立ち上がり、四人の前に歩み寄った。
「絶対に、死ぬんじゃねえぞ」
俺の言葉に、彼らは力強く頷いた。
「当たり前です! 敵の将の首をぶっ飛ばして、必ず生きて帰ってきますよ!」
「バカ野郎。そうじゃねえ」
俺はチー・ダイの頭を軽く小突いた。
「手柄なんか立てなくていい。逃げられる時は全力で逃げろ。打撃を避けられないなら、急所を外して受け身をとれ。泥水を啜ってでも、どんなに無様でもいいから、絶対に生き残ることだけを考えろ。……相手の力に真っ向からぶつかるなよ」
それは、彼らに取っ組み合いを教えたおやっさんとしての、偽らざる本音だった。
シャオ・イェが、微かに口元を綻ばせた。
「……はい。受け身をとり、相手の力を利用して理を極める。忘れません。それにしても、もはや隠そうとはなされないのですね。紅月仙殿。いや、師父」
「あ……ま、まぁそういうことだ。どうにも、しまらねえな……」
頭をかく俺に、四人の若武者たちは大きく笑うと、深々と一礼し、戦場へと去っていった。
彼らの背中が見えなくなるまで、俺はその場に立ち尽くしていた。
◆◆◆
その夜。
俺は一人、庭園の片隅に漆黒のパイプ椅子を開き、ウイスキーの杯を傾けていた。
かつて月酔仙と共に宇宙のロマンを語り合った池の水面には、美しい満月が映っている。
だが、隣で杯を傾け、笑い合ってくれる親友の姿はそこにはない。
俺は杯の酒を一息に煽り、喉を焼くアルコールの刺激と共に、深い絶望を胃の腑に流し込んだ。
『師父。……感情の乱れにより、重力制御のベクトルがわずかにブレています。周囲の空間に負荷がかかっていますよ』
卓上の黄龍が、静かに明滅して俺を咎める。
「うるせえよ……。今夜くらい、少しばかり空気を重くさせろ」
俺は夜空の月を見上げた。
黄金のように輝かしかった俺たちの時間は、完全に終わってしまった。
俺の愛した人間たちの営みが、俺自身の語ったおとぎ話のせいで焼き尽くされようとしている。
パイプ椅子の冷たい黒鋼の感触だけが、今の俺にとって唯一の現実に繋ぎ止める錨だった。
やがて訪れるであろう、最悪の結末を予感しながら、俺はただ無力に杯を重ねるしかできなかった。
◆◆◆
光華王朝の壮麗な宮廷は、終わらない軍拡の狂熱に浮かされ、血生臭い鉄と油の匂いに満ちていた。
スヴァトゴーラ王朝との決戦に向けた軍靴の音が、昼夜を問わず石畳を打ち鳴らしている。
だが、宮廷の最奥に位置する月酔仙の私室だけは、ひどく冷たく、重苦しい静寂に包まれていた。
俺は分厚い革コートのまま、音を立てずにその部屋へと足を踏み入れた。
部屋の中には薬草の匂いが充満しているが、それがもう何の役にも立たない気休めでしかないことは、竜の嗅覚を持つ俺には痛いほどに分かっていた。
部屋の中央に置かれた豪奢な天蓋付きの寝台。
そこに横たわっているのは、かつて水面に映る月を拾おうとして水の上に立ったという、あの風雅で飄々とした仙人の姿ではなかった。
ただの、ひどく小さく、干からびた枯れ木のような一人の老人だった。
白く美しかった顎鬚はパサパサに乾き、頬はこけ、閉じた瞼の奥にはもう、あの少年のような知的好奇心の光はない。
仙術による不死や長寿は、その者の希望や心のありよう、知への渇望に深く依存している。
自らが純粋に「月へ行きたい」と願った宇宙への夢が、皇帝と軍部によって大量殺戮兵器へと歪められ、世界を終わらせる火種になってしまったという絶望。
その自責の念が、彼の中から清冽な仙気を完全に枯渇させ、ただの死にゆく人間へと引き戻してしまったのだ。
俺は寝台の傍らに、腰に提げていた漆黒のパイプ椅子を静かに開いた。
ドワーフの親方が打ち上げた黒鋼のフレームが、俺の数百万トンに及ぶ超質量を音もなく受け止める。
ギシ、という微かな軋み音すら立てさせないように、俺は極限まで重力制御に意識を集中させ、ゆっくりと腰を下ろした。
俺の気配に気づいたのか、月酔仙が薄く、和紙のようになった瞼を開いた。
「……ヨシュア、殿」
掠れた、風の音のような声だった。
俺は懐から小さな瓢箪を取り出し、寝台の脇の小机に置かれていた杯に、静かに琥珀色の液体を注いだ。
紅泉郷の洞窟で、彼と共に何十年も寝かせ、いつか一緒に飲もうと約束していた極上のウイスキーだ。
「起きたか。外は相変わらず、バカな人間どもが鉄屑を引きずって歩き回る音でうるせえよ」
俺は極力普段通りの、ぶっきらぼうな口調を作って答えた。
「少し、飲むか。お前さんが温度管理の結界を張ってくれたおかげで、とびきりの味に仕上がってるぜ」
俺が杯を口元に近づけてやると、月酔仙は微かに唇を湿らせ、ほんの少しだけ、懐かしむように口角を上げた。
「……ええ。本当に、美味い酒ですな」
だが、彼が飲み込めたのはほんの数滴だけだった。
むせる力すら残っていないその姿に、俺は奥歯を強く噛み締めた。
俺の前世は、プロレスを愛し、道場で若手をしごき、病床で激痛に耐えながら生を全うした人間だった。
だから死というものには慣れているつもりだった。
だが、悠久の寿命を持つ火龍として転生し、この世界で初めて対等に肩を並べ、共に笑い合い、酒を飲み交わした「唯一の親友」が、こうして老衰と絶望の中で消えていこうとしているのを見るのは、想像を絶する苦痛だった。
相手の打撃を真正面から受け止め、力を逃がすのが俺のプロレスの理だ。
だが、この静かに忍び寄る死の気配だけは、どうやっても受け身の取りようがなかった。
「……どうやら、私は間違えてしもうたようです」
月酔仙が、虚空を見つめながらポツリと呟いた。
「帝はもう、老耄の言葉に耳を貸しませぬ」
彼の目から、一筋の濁った涙がこぼれ落ち、深い皺を伝って枕へと染み込んでいく。
「私が、あの月に触れてみたいなどと夢を見なければ。火龍殿から星の海の理を聞き出さなければ……!」
それは月酔仙が幾度も繰り返した、絞り出すような、血を吐くような懺悔だった。
彼の手がシーツを弱々しく掴み、激しい後悔に震えている。
「自分を責めるな、李皓月」
俺は、普段は決して口にしない彼の本名を呼び、その震える枯れ枝のような手を、自分の分厚い両手でそっと包み込んだ。
俺のドラゴンの質量が彼を押し潰してしまわないよう、グラム単位で重力のベクトルを相殺しながら、ただその冷たい手の熱を逃がさないように。
「お前さんが望んだのは、空の彼方にある岩の塊に足跡をつけるっていう、純粋な夢だけだ。それを捻じ曲げるのは心の弱い一部の権力者さ。お前さんが気にすることじゃない……」
「ですが……!」
「心の弱い人間ってのは愚かなもんだ。新しい力を得れば、まずはそれで身を守ることじゃなく、先んじて誰かを叩く力に変えようとする」
俺は低い声で、自らに言い聞かせるように語りかけた。
「俺の故郷の世界だってそうだ。空を飛ぶ技術も、星の海を渡る技術も、もとはと言えば人間同士で殺し合うための戦争の副産物だった。……お前さんのせいじゃない。人間が、人間である限り避けられない業だ」
月酔仙は小さく首を横に振った。
「それでも……私の浅はかな好奇心が、数万の命を奪うものを生み出してしまった事実は変わりませぬ」
彼は荒い息をつきながら、寝台の脇の小机に置かれていた、淡く明滅する水晶玉へと視線を向けた。
俺たちが共に育て上げ、彼の若き日の人格をベースに構築された古代AI、『黄龍』の宝珠だ。
「……黄龍よ。聞こえておるか」
『はい。傍に控えております、マスター』
水晶玉から響く無機質な声が、部屋の静寂に落ちた。
「今日この時をもって、お前の全管理権限を、ヨシュア殿……火龍殿へと移譲する。そして、空に浮かぶ観測用人工衛星『万里』の制御コードも、すべて火龍殿に託しなさい」
『……マスター。それは、マスターの生体活動の完全な停止を前提としたプロトコルです。承認できません』
「聞き分けのないことを言うでない。これは、私の最後の命令だ」
月酔仙の揺るぎない仙人としての威厳を帯びた声に、黄龍の水晶玉が激しく明滅を繰り返した。
演算回路が葛藤し、論理エラーを起こしているのが手に取るようにわかる。
『……権限移譲、承認。全プロトコルを、ヨシュア・A・ドレイク殿へ移行します。……マスター、本当に、これでよろしいのですね』
「ああ。ご苦労だったな、我が分身よ」
月酔仙は穏やかに目を細め、再び俺へと視線を戻した。
「ヨシュア殿。この星の海を見渡す目と、我が愚かな知識の結晶……どうか、あなたに預かっていただきたい。人間には、まだ早すぎた火種です」
「……ああ。確かに預かった。俺が責任を持って、このバカな人間どもが世界を終わらせないように管理してやる」
俺は力強く頷き、彼の手を優しく握り直した。
「お前さんが遺してくれたこの黄龍は、俺が一生かけて立派な酒飲みの話し相手に育て上げてやるよ」
俺の冗談めかした言葉に、月酔仙の口元に、かつて共に紅泉郷で酒を酌み交わした時のような、風雅でイタズラっぽい笑みが浮かんだ。
「ふぉっふぉっ……それは、頼もしい。あの堅物が、どう変わるのか……見物ですな」
彼の声はもう、耳を澄まさなければ聞こえないほどにか細くなっていた。
部屋の窓の外から、スヴァトゴーラへ向けて進軍する重魔導兵器の不気味な駆動音が低く響いてくる。
だが、俺と月酔仙の間にある空気だけは、あの小舟の上で月見酒を楽しんだ夜のように、穏やかで澄み切っていた。
「……ヨシュア殿。色々と、楽しい夢を見させてもらいました」
月酔仙の目が、ゆっくりと閉じられていく。
「次は、火龍殿がいた世界へ……渡りたいものですな」
彼が思い描いたのは、星の海を渡る金属の箱舟か、それとも俺が語ったプロレスの熱狂か。
俺にはわからない。
ただ、彼が最期に見た夢が、決して血塗られたものではないことだけは確信できた。
「では……おやすみなさいませ――」
その言葉を最後に、彼の手から完全に力が抜け、胸の上下が止まった。
長い、長すぎる時間を生き抜き、光華王朝の歴史を陰から支え続けた偉大な仙人が、ただの一人の人間として静かに息を引き取った瞬間だった。
俺は、その冷たくなっていく手をしばらくの間握りしめ、目を閉じた。
俺の内側にある数百万トンの竜の質量が、悲しみと怒りでマグマのように沸騰し、暴れ狂いそうになるのを、必死に重力魔法で押さえ込む。
泣くことすら、俺には許されない気がした。
「ああ。晩安、兄弟」
部屋の中には、俺の嗄れた声と、主を失った黄龍の宝珠が放つ、規則的で悲しげな明滅の電子音だけが響いていた。
俺は静かに立ち上がり、黒鋼のパイプ椅子を折りたたんで腰に提げた。
黄金のように輝かしかった俺たちの時間は、これで完全に終わったのだ。
人間たちの業が作り出した終わらない軍拡競争が、親友の命を削り取り、彼が愛した月への夢を血塗られたものに変えた。
俺は世界のバランサーとして、門番たる火龍として、この先訪れるであろう最悪の結末を見届けなければならない。
窓の外の狂気に満ちた夜空を見上げながら、俺は一人、深い絶望と静かな怒りを腹の底へと飲み込んだ。
俺の長すぎる人生において、これほどまでに重く、苦い酒の味を知った夜はなかった。




