第25話 片腕の錬成と、奇跡の朝
野田ダンジョンの深層から生還した結羽とドレイクは、夜明け前の静かなマンションの一室へと帰り着いていた。
玄関の扉を閉めた瞬間、結羽は限界を迎えてその場にへなへなと座り込んだ。
「はぁっ……はぁっ……」
機人ミノタウロスとの死闘、そして孵化室での絶望的な状況。
極限の緊張状態から解放された途端、仙気で無理やり抑え込んでいた激痛が、全身から一気に押し寄せてきたのだ。
特に、機械獣の突進を防いで粉砕された左腕は赤黒く腫れ上がり、心臓の鼓動に合わせてギリギリと骨が軋むような痛みを放っている。
「無理すんな。ほれ、腕を貸せ」
ドレイクは結羽を抱え上げてリビングのソファに寝かせると、手早く救急箱と添え木を持ってきた。
丸太のような太い指先から、青白い『浄化と治癒の仙気』が静かに放たれる。
「……っ」
「痛むか。だが、変な方向に骨がくっついちまう前に、きっちり固定しとかねえとな」
ドレイクは仙気で患部の痛みを極限まで散らしながら、折れた骨の位置を素早く、そして正確に合わせて添え木を当て、包帯をきつく巻き上げていく。
ものの数分で、結羽の左腕は白いギプスのようにしっかりと固定された。
「よし、応急処置はこれで十分だ。肉体の修復はお前さん自身の仙気と同位同食のバネが勝手にやってくれる。……今日はもう寝ろ」
ドレイクが立ち上がろうとすると、結羽はその大きなジャージの袖を右手でギュッと掴んだ。
「ダメ、です……。まだ、やることがあります」
結羽は脂汗を額に浮かべながら、ふらつく足取りで立ち上がった。
その視線の先にあるのは、キッチン。
そして、リュックの中から取り出したばかりの、生々しい血の匂いを放つミノタウロスの『生身の左角』だ。
「この角の鮮度が落ちる前に、ふゆの薬を作らないと……! これが、最後の一杯になるんですから」
「……たく、強情な奴だ。だが、その腕じゃあ角を削ることもままならねえぞ」
「やります。やらせてください。……これは、わたしが自分で持ち帰った、わたしの卒業試験の証ですから」
その言葉に、ドレイクは小さく息を吐き、袖を掴む結羽の手を優しくポンと叩いた。
「わかった。台所は好きに使え。俺は手を出さねえ」
結羽はキッチンに立ち、震える右手一本で手入れのよく行き届いた解体用ナイフを握りしめた。
シンクでミノタウロスの角を洗い、表層の汚れを慎重に削り落としていく。
片手での作業は想像以上に困難だった。
角を押さえる左手が使えないため、身体全体を使って角をシンクに押し付けながら刃を滑らせる。
動くたびに左腕の折れた箇所に激痛が走り、視界がチカチカと明滅する。
(痛い……。でも、ふゆはずっと、一人で冷たいベッドで頑張ってきたんだ……!)
結羽は奥歯を噛み締め、決してナイフを止めなかった。
美しく下処理された角を土鍋に入れ、たっぷりの水を注いで火にかける。
特級の生薬を絶妙な配合で加え、最後に、結羽は土鍋の縁に無事な右手をかざした。
(……このスープに、わたしの浄化の仙気を乗せる)
丹田の奥底から湧き上がる熱を、手のひらを通してゆっくりと流し込む。
結羽が幾度となく死線を越え、最適化を繰り返して練り上げた純粋な生命力。
激痛に耐えながら放たれたその仙気は、これまでのどの気よりも澄み切り、そして強靭だった。
角から溶け出した暴力的で異質な魔力が、琥珀色の霊薬へと変換されていく。
『……完璧です、結羽殿。これ以上ない、至高の霊薬です』
カウンターの隅で明滅する黄龍の称賛の念話と共に、ついに最後の『牛頭人の角髄薬膳スープ』が完成した。
◆◆◆
朝の澄んだ光が差し込む、野田市内の総合病院。
最上階に位置するVIP特別個室で、結羽は丸椅子を引き寄せて座っていた。
ベッドの上には、三年前から時を止めたままの妹、ふゆが眠っている。
結羽は、折れた左腕を白い三角巾でしっかりと吊ったまま、無事な右手でサイドテーブルに置いた保温容器の蓋を開けた。
立ち上る湯気と共に、清浄な薬効の香りが部屋に広がる。
結羽はスプーンで琥珀色のスープをすくい、ふゆの血の気のない小さな唇にそっと押し当てた。
「ふゆ……。お姉ちゃんが、倒してきたよ。ふゆを怖がらせた、悪い化け物を」
数滴のスープが、ゆっくりとふゆの口内へと流れ込んでいく。
結羽の背後では、隠形を展開したドレイクが壁に寄りかかって腕を組み、その横で黄龍の宝珠が淡い金色の光を放ちながら、ふゆの体内を精密にスキャンしていた。
『……結羽さんの込めた純粋な仙気と、克服の証である角髄の力が、閉ざされた扉を内側から物理的に叩き割っています。……霊穴の閉塞、完全に粉砕されました。バイタルサイン、急上昇しています』
その言葉を裏付けるように、ふゆの頬にみるみるうちに赤みが差していった。
浅く弱々しかった呼吸が、深く、力強いものへと変わっていく。
生命の鼓動が、部屋の空気を震わせるように力強く脈打ち始めた。
ピクリ、と。
シーツの上に投げ出されていたふゆの指先が動いた。
そして、三年もの間、重く閉ざされていたその瞼が、ゆっくりと持ち上がった。
「…………」
焦点を結ばない瞳が、何度か瞬きを繰り返す。
やがて、その瞳に光が宿り、目の前に座る結羽の顔をはっきりと捉えた。
「……お姉、ちゃん……?」
ひどく掠れた、小さな声。
だが、それは紛れもなく、結羽がずっと待ち望んでいた妹の声だった。
「ふゆ……! ふゆッ!!」
結羽は折れた左腕の痛みも忘れて、妹の小さな身体を力強く抱きしめた。
温かい。
柔らかい。
生きている。
三年間、たった一人で冷たい部屋に帰り、暗闇の中で泣き続けた日々が、今、完全に報われたのだ。
「お姉ちゃん、泣かないで……。ごめんなさい、わたし、ずっと、寝てて……。あ、お姉ちゃんの腕、どうしたの……?」
ふゆは、三角巾で吊られた痛々しい左腕を見て不安そうに顔を歪めた。
「ううん、いいの! これは自分の足で立つための、名誉の負傷だから! もう、どこにも行かないから!」
結羽は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で笑い、妹の首筋に顔を埋め、子供のように声を上げて泣いた。
ふゆは、結羽の髪に顔を寄せ、くんくんと匂いを嗅いだ。
「……お姉ちゃん、お出汁の……すっごく温かくて、優しい匂いがするね」
ふゆがふわりと笑う。
それは、結羽がドレイクと共に過ごし、泥臭く生きてきた命の匂いそのものだった。
その光景を部屋の隅で見ていたドレイクは、満足げに鼻を鳴らすと、そっと背を向けて病室の扉へ向かった。




