9 裁判の行方 2
イーサンが求める証拠は――なかった。
だが、それはマリアにとって予想外ではない。
むしろ、彼がそう出ることは分かっていた。
彼女は一度、大きく息を吸うと、一気に話し出した。
「証拠はありません。でも……打ち切られたことが、離婚の原因にもなりました。私は音を取り戻したかったのです。家族の声を、もう一度聞きたかった。それを元夫は、“金がかかる”という理由で打ち切ったのです」
澄んだ声が法廷の空気を震わせる。
静まり返ったで場内で、その言葉だけが真実の重みを持って響いた。
イーサンの口元が引きつる。
「元妻の気持ちは、夫として深く理解していた。だから私は研究を支えてきたんだ!」
ダン!
机を叩く音が鈍く響く。
「私は『研究は成功しそうか』と尋ねた。彼女は『いいえ』と答えた。だが、離婚後すぐに研究は完成した。こんな理不尽、認められるものか!」
理不尽――。
その言葉に、マリアは目を伏せた。
理不尽だったのは、どちらだったのか。
そのとき、カリス・ポートマン子爵が静かに手を上げる。
彼は怒鳴らない。
感情に溺れない。
だが、その声には確かな芯があった。
「実際、補聴器の発明と完成は、マリア・ミオヴェルが成し遂げたものです。名誉は当然、彼女自身に与えられるべきでしょう。しかし、彼女はその名誉すら求めていません。名を伏せたまま、補聴器の事業を国に譲渡したのですから」
その言葉に、マリアの胸が静かに熱を帯びる。
彼は、彼女の選択を誰よりも理解している。
イーサンは待っていたかのように身を乗り出した。
「今後、国の事業として補聴器は他国にも販売されるだろう。その際、補聴器の商品名を、我が商会の『ミオヴェル』としていただきたい」
野心が、露わになる。
カリスはわずかに眉を寄せた。
「それが……貴方の求める“名誉”なのですね?」
「そうだ!」
短く、強欲な肯定。
「それなら、マリアを訴えるのではなく、国に訴えるべきだ。――貴方は、間違っている」
カリスは淡々と正論を掲げる。
イーサンの顔がみるみる赤くなる。
「まず、マリアに認めてもらわなければならない。開発は商会の功績なのだと!」
カリスは一瞬だけマリアを見る。
“任せてほしい”と告げる、静かな視線。
そして裁判長へ向き直った。
「では、認めましょう。商会の功績を! ただし、補聴器に『ミオヴェル』という名をつけることは許可できません。なぜなら――『ミオヴェル』は、マリアが受け継いだ錬金術師の称号だからです」
「ミオヴェルは商会の名だ! 私はずっとその名で商売してきたんだ!」
「それはマリアが商会の会長夫人だったからだ。離婚された今、商会名は改めるべきかと。……“ミオベーラ”とか、“ミオレーヌ”など、似た名前にされてはいかがです?」
挑発でも皮肉でもない。
事実を、冷静に突きつけただけ。
「貴様……ふざけるなよ!」
「ふざけてなどいません。――商会の名義変更を申請します!」
木槌の音が響く。
「ここで一旦、休廷とする」
張り詰めていた糸が、ようやく緩む。
マリアはそっと息を吐いた。
隣を見ると、カリスが小さく頷く。
その目には、揺るぎない信頼があった。
“あなたは間違っていない”と、無言で伝えている。
やがて再開の鐘が鳴る。
そのとき――王太子殿下が姿を現した。
ざわめきが広がる。
「静粛に!」
空気が一段、重くなる。
「イーサン。商会の功績を認めれば良いのだな?」
凛とした声。
「お、おそれながら……王太子殿下、はい! その通りでございます!」
イーサンの声は、先ほどまでの威勢を失っていた。
「裁判長。ここは王家が決着をつけようと思うが、異論はあるか?」
「両者が納得されるのならば……問題ございません」
「私も異論ございません」
カリスが深く頭を下げる。
その背を、マリアは静かに見つめていた。
「イーサンの言う通り、商会は開発に多額の資金を投じた。その功績は称えねばなるまい。
よって――其方には男爵位を授ける」
「な、なんと……!」
歓喜が顔に広がる。
「これからはスウィントン男爵と名乗るが良い。叙爵式は後ほど王宮にて行う」
「は! 承知いたしました!」
だが、殿下は続けた。
「ゆえに、これから商会は『スウィントン商会』と名乗ること。
――ミオヴェルは唯一、ポートマン子爵夫人の称号である」
その瞬間。
イーサンの表情が崩れた。
「そ、そんな……!」
「それから補聴器の名は、すでに決定している。『ミ・オレイユ』――これは変わらぬ」
「う、うそだろう……」
膝から崩れ落ちる。
マリアはその姿を見つめていた。
(孤児院で手を差し伸べたときから、イーサンは私を利用していた。でも……もう終わり)
もう怒りはなかった。
ただ、長い物語が閉じる音だけが胸に響く。
彼女はゆっくりとカリスへ視線を移した。
(不安を取り除き、ミオヴェルの名を取り戻してくれた――貴方がいてくれたから)
「カリス……ありがとう。貴方が夫でいてくれて、本当に良かった」
その言葉は、素直すぎるほど素直だった。
彼は柔らかく微笑む。
「お役に立てたのなら何よりです。どうか――この先、貴女が幸福でありますように」
祝福のはずの言葉。
けれど。
まるで、距離を置くための優しさのように聞こえた。
マリアの胸の奥で、小さな何かが軋む。
勝ったはずなのに。
取り戻したはずなのに。
どうしてこんなにも、心が痛むのだろう。
読んでいただいて、ありがとうございました。




