8 裁判の行方 1
一月後。
マリアの研究はついに完成する。
理想通りの、ピアス型“補聴器”。
手に載せると、まるで宝石のように繊細で、それでいて確かな重みがあった。
これは、彼女の過去と痛みと願いの結晶だ。
だが、それを世に出すには慎重さが必要だった。
イーサンに知られれば、きっと「共有財産だ」と訴える。
「お金儲けをするつもりはないの。多くの難聴の人たちに届けたいわ」
打ち明けたとき、カリスは真剣に頷いた。
「イーサンが知れば黙っていません。開発には商会の資金が入っていますから」
「彼には儲けさせたくないの」
その声は静かだった。
けれど、静かな怒りほど、長く燃えるものはない。
少し考え、カリスは穏やかに提案する。
「では――寄付という形にしてはどうでしょう。国の事業にすれば、彼も文句は言えません」
「なるほど、やはり貴方は頼りになるわ!」
「王宮に出向き、相談してみましょう。私に任せてくれますか?」
力強い声だった。
「ええ、お願いするわ」
――この人を夫に選んでよかった。
契約だとしても。きっかけが偽りでも。
この瞬間、心の底からそう思えた。
完成した補聴器を、マリアはサーラに手渡す。
小さな宝石を耳に装着した瞬間――
サーラの瞳が、大きく見開かれた。
「どう?」
「ああ……聞こえる! 本当に……聞こえる! 夢みたい!」
その声は震え、涙が頬を伝う。
彼女はマリアの手を強く握りしめた。
「マリアお姉様、ありがとうございます。どう感謝すればいいか分からないわ!」
「家族だもの。お礼なんていらないわ」
マリアはそっとサーラを抱きしめる。
義妹の身体の震えが、彼女の胸を満たしていく。
(この補聴器を、もっと多くの人々へ届けよう)
「ありがとうマリア。今後、私はあなたに尽くしましょう。出来ることはなんでも叶えましょう」
カリスは誓う。
やがて補聴器は王家へ献上され、国の事業として正式に採用される。
独占販売はされず、誰もが手に取れる仕組み。
開発者の名は伏せられ、マリアは陰から支え続けた。
彼女は名誉を欲しなかった。
ただ、誰かの「聞こえる」という瞬間を増やしたかっただけ。
だが、穏やかな日々は長くは続かない。
――イーサンが、マリアを訴えた。
「補聴器はミオヴェル商会の開発品であり、マリアが勝手に持ち出した」
その主張は、彼女の努力も、痛みも、すべてを奪おうとする言葉だった。
「呆れた男だ。王家を訴えたに等しいのが分からないのか……」
カリスは出向き、説得を試みる。だが。
「マリアのヤツ。とっくに聞こえていたんだ……ふざけやがって! それで離婚訴訟など起こしたんだな」
「先に、離婚を言い出したのは貴方でしたよね?」
「うるさい! 補聴器の開発に、どれだけ資金をつぎ込んだと思ってるんだ!」
イーサンは唾を飛ばしながら続ける。
「分かってるぞ! マリアは貴様と浮気してた。俺を裏切ってたんだ!」
「馬鹿なことを……」
「ポートマン卿、あんな研究しか脳のない女を妻にするなんて、あんたも計算高い男だな!」
乾いた音が響く。
カリスの拳が、イーサンの頬を打った。
「こ、この暴力弁護士! お前も訴えてやる!」
「受けて立とう。妻を侮辱した罪で訴えてやる!」
カリスの胸は、激しく波打っていた。
弁護士として、理性的に対処するはずだった。
だけど。
“あんな研究しか脳のない女”。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
マリアが、どんな気持ちで研究を続けたか。
この男は何も分かっていない。
これは契約結婚だ。
そう言い聞かせてきたはずなのに。
それでも――彼女を侮辱されることだけは、耐えられなかった。
気づけば、拳が先に動いていた。
それは義務でも、打算でもない。
ただ、守りたいという衝動だった。
こうして――“マリアと補聴器”を巡る裁判が幕を開ける。
イーサンの主張はただ一つ。
「補聴器の開発はミオヴェル商会の功績であると認めろ」
金ではない。
彼が欲しいのは、名だ。
だがその奥底には、ポートマン卿への嫉妬と屈辱が渦巻いていた。
彼は診断書を提出する。
“打撲により全治一週間”――慰謝料請求を添えて。
一方、カリスは即座に反訴する。
訪問時、密かに録画キューブを忍ばせ、暴言を録音していたのだ。
音声が提出され、和解が勧められる。
暴力沙汰は、あっけなく片付いた。
――そして本題。
“補聴器の開発権”。
意見陳述の場で、イーサンは堂々と言い放つ。
「ポートマン子爵夫人は、離婚時すでに補聴器を完成させていた。それを隠していたんだ。開発資金は我が商会が負担している。にもかかわらず、彼女は研究を持ち出し、国に事業を譲渡して名誉を得た。それは、本来、商会が得るべき栄誉だ!」
ざわめく法廷。
その中で、マリアはゆっくりと立ち上がる。
(受けて立つわ)
「開発途中で、商会会長より研究の打ち切りを告げられました。その後の開発費用は、離婚後に私個人の資産で賄い補聴器を完成させました。また、個人で名誉を受け取ってもいません」
イーサンが笑う。
「開発の打ち切り? そんな話、初耳だ。――証拠でもあるのか?」
法廷の空気が、ぴんと張り詰める。
マリアは俯かない。
胸の奥に、確かな鼓動。
もう隠さない。
もう奪わせない。
その瞬間、彼女の隣にカリスが静かに立った。
読んでいただいて、ありがとうございました。




