7 カリスの決意
マリア・ミオヴェルが離婚相談に訪れた瞬間、カリス・ポートマンは言葉を失った。
まさか――
あの《ミオヴェルの錬金術師》が。
しかもカリスは、その時すでに別の依頼を抱えていた。
皮肉なことに、依頼主はソレーヌの夫――バーモット伯爵。
伯爵は、彼に訴えた。
『妻に薬を盛られたんだ。目が覚めたら、娼婦みたいな女とベッドで並んで眠っていてね。録画キューブで証拠まで残されていた』
それを盾に、ソレーヌは離婚を突きつけ、
莫大な慰謝料を要求した。
さらに双子の片割れ、エミリアを引き取り、
養育費まで取ろうとしている。
『双子は手放したくない。だが、あの女を訴えたい。浮気をしているのは彼女の方なんだ! 相手はミオヴェル商会の会長、イーサンだ!』
叫び、肩を震わせ、伯爵は崩れるように頭を垂れた。
『私は愚かだった。あんな女を妻にしたばかりに……』
その姿を見て、カリスは迷わず依頼を引き受けた。
――だが。
調査を進めていた矢先、
マリア・ミオヴェル本人が現れた。
名は、あまりにも有名だった。
「ミオヴェルの錬金術師」
師に認められた者だけが名乗れる、特別な称号。
若くして天才と呼ばれる彼女が、
離婚を望んでいる。
艶やかな黒髪。
翡翠のような瞳。
知的で、気高く、
それでいて、壊れそうなほど儚い。
傷ついた瞳を向けられた瞬間、
カリスの胸は強く締めつけられた。
――顧客に心を動かされるなど、許されない。
誠実であること。
それが彼の信条だった。
イーサンという名を聞くだけで、嫌悪が湧いた。
妻の功績に寄りかかり、
裏で別の女と関係を持つ男。
カリスは徹底的に調べ上げた。
証拠が揃うと、
マリアとイーサンの離婚は、想像以上に早く成立した。
だが。
マリアは、息子ライアンの親権を失った。
正確には――
取れなかったのではない。
彼女が、手放したのだ。
あの茶番劇。
思い出すだけで、怒りが込み上げる。
養育費は利益の8%。
完全勝利とは言えなかった。
その事実が、カリスを苛んだ。
――自分は、まだ未熟だ。
だが。
イーサンとソレーヌの不貞が明るみに出ると、
バーモット伯爵の裁判は、一気に有利となった。
でっち上げの浮気。
すべてソレーヌの仕業。
慰謝料も、親権も、伯爵のものになった。
完全勝利。
──エミリアは、ライアンの妹にはならなかった。
胸の奥が、わずかに冷える。
子どもであっても、
母親を深く傷つけた事実は消えない。
罰は必要だと、
カリスは非情にもそう思った。
本来なら、
ここで彼の仕事は終わるはずだった。
けれど――。
マリアとの「契約婚」という未来が、
彼を待っていた。
*
──契約婚。
彼女の口からその言葉が出た瞬間、
心臓が不規則に跳ねた。
彼女を支える自信はなかった。
自分が断れば、
他の誰かを紹介してほしいと言われた。
――彼女にふさわしい男の顔が、
いくつも浮かんだ。
だが。
胸に溢れたのは、
ずっと押し殺してきた感情。
『知恵を頼りたい』
そう言われた時、彼女が求めているのは、信頼できる相談相手だと理解した。
(それなら、力になれる)
そして後になって知った。
マリアが、世界初の“補聴器”を完成させていたことを。
――二人が交わした契約は、簡潔だった。
・契約婚の期間は、マリアが離婚を申し出るまで。
・同居し、生活費は折半する。
・契約婚であることは他言しない。
・互いを尊重し、干渉しない。
・マリアが開発した補聴器を、ポートマン子爵の妹に贈与し、音を取り戻す。
最後の項目だけは、まだ途中だった。
『少し、高い音が、まだ聞き取りにくいの。……それと、恥ずかしいのだけど、私は家事をやったことが無いの。ごめんなさい』
俯くマリア。
不意に胸を打たれた。
恥じらうマリアが、とても愛らしく見えたのだ。
『構いませんよ。うちにも使用人がいますし、妹たちも家事はできます。貴方は研究を続けて下さい』
『ありがとうございます。ケーキ作りだけは得意なんですけど』
『なら、妹たちの誕生日に、焼いてやって下さい』
『はい』
微笑むマリアが、
眩しくて、直視できなかった。
カリスは、これから始まる日々を思う。
敬愛する女性が、妻になる。
そして。
(音を取り戻せれば、妹はどれほど喜ぶだろう)
「ありがとう」では足りない。
彼は心に誓う。
たとえ契約婚でも、
この時間のすべてを誠実に捧げよう。
別れの時、
マリアが――
「出会えて良かった」
そう思ってくれるように。
その想いを胸に、
カリス・ポートマンは、彼女の夫となった。
*****
結婚後、マリアは夫のカリスと、彼の未婚の妹――
15歳のディアンナ、12歳のサーラと同じ屋根の下で暮らすことになった。
当初、マリアは不安でいっぱいだった。
歓迎される資格など、自分にはない気がしていたから。
けれど、彼の妹たちは驚くほどあたたかかった。
「カリス兄さんがいつまでも結婚しないから、心配してたの」
ディアンナの言葉が、胸の奥に小さく刺さる。
――この結婚が“契約婚”だなんて、言えない。
笑顔を返しながら、マリアはその秘密を呑み込んだ。
それでも、朝の食卓に並ぶパンの香りや、時折聞こえる姉妹の明るい笑い声、カリスの細やかな気遣いが、少しずつ彼女の孤独を溶かしていく。
偽物のはずの結婚生活が、ゆっくりと本物の温度を帯び始めていた。
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