6 離婚成立
「これが、イーサン側の提示してきた条件です」
ポートマン卿が書類を差し出す。
マリアはそれを受け取り、流れるように目を走らせ――そして、喉がひくりと鳴った。
やはり、ライアンの親権は渡さない。
その下には、息子自身もそれを望んでいるという一文。
胸の奥が、じわりと痛む。
「ライアンの養育費が、私の収入の30%?」
「ええ。あなたの発明が、巨額の富を生むと見込んでいるのでしょう」
「……あの男、どこまで強欲なのかしら」
マリアの呟きに、ポートマン卿は淡く微笑む。
「収入がなければ、払う必要はありませんよ」
「ライアンは絶対渡さないわ」
「そうなるよう、努力します」
彼は即答した。
その確信めいた言い方に、マリアの気持ちは少しだけ緩む。
「離婚したら、しばらくはのんびり暮らそうかしら」
「それが一番かもしれません」
一拍置いて、彼は慎重に言葉を継ぐ。
「ただ……今後も彼は貴方を頼り、付きまとう可能性はある」
「付きまとう? あの人が?」
「ソレーヌの一家は、恐ろしく強欲です。イーサンを骨の髄まで吸い尽くすでしょう。いずれ資金が尽きれば、そうなる可能性があります」
――やはり。
マリアは視線を落とす。
離婚後、ビジネスパートナーとして縋りつくイーサンの姿が、容易に想像できた。
利用されるだけの未来。
――それだけは、嫌。
補聴器の存在を知られたら。
聞こえることを知られたら。
イーサンは決して離れない。
「彼との縁は完全に切るわ。……何かいい方法はないかしら?」
ポートマン卿は少し首を傾げ――そして言った。
「再婚……という手があります。新しい家庭を持てば、イーサンは簡単に手出しできません」
理屈は正しい。
けれど、マリアには家族がいない。
頼れる友人もいない。
だから――
マリアは、目の前の男を見た。
冷静で、理性的で、優しい人。
そして何より。
彼は、マリアを軽んじたことが一度もない。
「そうね……ポートマン卿。私と結婚してくれないかしら?」
「……ご冗談を」
「本気よ。頼れる人が、もうあなたしかいないの」
「お断りします」
予想通りの答え。
それでも、マリアは引かなかった。
「じゃあ契約婚はどうかしら? 報酬ははずむわ」
明るく言ったつもりだった。
でも、声は小さく震えていた。
「離婚するときは、慰謝料も奮発するわ」
彼なら、信頼できる。
彼なら、裏切らない。
「お断りします。お金には困っていません」
「貴方の尊厳を傷つけるつもりはないの。これは取引よ。そう思って欲しい」
「……それで、あなたは幸せになれるのですか?」
「幸せよ! イーサンとの腐れ縁を切れるなら、なんだって!」
ポートマン卿は、小さく息を吐いた。
「もし、私が断ったら?」
「そのときは、あなたが信頼できる誰かを紹介して」
長い沈黙。
マリアが、声を上げた。
「いいえ! やはり貴方に助けて欲しい。貴方の“知恵”を頼りたいの」
その瞬間。
彼の瞳が、わずかに揺れた。
そして、ゆっくりうなずいた。
「……分かりました。契約書を作成しましょう」
諦めと、優しさが滲んだ声だった。
――しかし。
契約書を作成した直後。
彼の表情が変わる。
『マリアが開発した補聴器を、ポートマン子爵の妹に贈与し、音を取り戻してあげる』
「まさか……もう聞こえているのですか?」
「ええ、黙っていてごめんなさい。まだ誰にも知られたくないの」
ポートマン卿は、額に手を当てた。
「ああ、やはり、あなたは凄い方だ。もちろん、秘密は死守します」
「貴方を信頼しています」
こうして、二人の契約婚という取引は成立した。
――かけがえのない味方。
それは、マリアにとって初めて得た“安全な居場所”だった。
* * *
数日後。
イーサンは、マリアの条件で離婚を受け入れた。
本来なら、親権はマリアのものになるはずだった。
けれど――
マリアの純利益から、8%の養育費を支払う形となった。
理由は、ライアンが泣いて、マリアを拒絶したから。
「ママなんか嫌いだ! パパがいい! ソレーヌママがいい!」
「ライアン、パパとはいつだって会えるのよ?」
「いやだ! ママなんか死んじゃえ!」
「ライアン……」
イーサンは、勝ち誇ったように笑った。
「少しはライアンの気持ちを考えてやれ。最後くらい母親の情を示してやれ」
「約束できる? 必ずライアンを幸せにするって」
「当り前だ!」
マリアは、膝をついて息子を見つめた。
「本当にママとお別れしてもいいの?」
「いいよ。ママはもういらない」
迷いのない声。
――もう無理。
マリアの心は、音もなく扉を閉じた。
ライアンは悪くない。
自分が、母親として上手に愛せなかっただけ。
彼が愛されるなら、それでいい。
「いいわ、ライアン。私ももう、息子なんていらない」
それが、最後の言葉だった。
ライアンは少しだけ顔をしかめ――
すぐにイーサンに抱きつく。
「パパ、僕、上手だったでしょう?」
「こら、余計なこと言うな」
囁き合う声。
血は争えない。
マリアの胸は、完全に冷え切った。
全部、必要ない。
イーサンには約束した補償を残し、
家も土地も、過去はすべて売却しようと決めた。
研究資料だけを抱えて、マリアはカリス・ポートマン子爵の屋敷に移り住んだ。
***
秋が終わりを告げる頃。
身内だけの簡素な式で証明書を受け取り、
マリアは正式に――
カリス・ポートマン子爵夫人となった。
それは、絶望の終わりであり、
彼女の人生の、新しい始まりだった。
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