5 イーサンとソレーヌ
蒸し暑い日だった。
窓は開いているのに、風は入ってこない。
午後の空気は粘つき、イーサンの肌にまとわりつく。
息苦しさの正体は、暑さだけではない。
「弁護士のポートマン卿が面会を希望されています」
執事の声に、イーサンは眉を寄せた。
「弁護士だと?」
「奥様も同席されるそうです」
胸の奥で、鈍い音が鳴った。
……マリアも、だと?
嫌な予感だけが背筋を駆け上がる。
「どうされますか?」
一瞬、逃げたいと思った。
だが。
「会わないわけには、いかないだろう」
そう答えながら、彼は背筋を無理やり伸ばした。
*
「初めまして、カリス・ポートマンと申します」
彼は真っ直ぐに歩み寄り、手を差し出した。
イーサンも立ち上がり、形式的にその手を握る。
短い挨拶の後、ポートマン卿は迷いのない動作で書類を机に置いた。
その所作ひとつで、彼が場数を踏んだ男であると分かる。
「奥様が離婚を望まれています。私が代理人です」
「そうか。以前に《離婚協議書》を渡したはずだが」
イーサンは反射的にマリアを見る。
その瞳には、かつて見たことのない決意の光が宿っている。
胸がざわつく。
「こちらも協議書を用意しました。ご覧ください」
紙をめくる。
商会は自分名義。
預金は折半。
――まだ、許容範囲だ。
だが。
親権はマリア。
土地と屋敷もマリア。
「この家は俺が建てた。俺のものだ!」
「土地は奥様の所有です」
「……こっちも代理人を立てる!」
「その方が話し合いが早いでしょう。歓迎しますよ」
薄く浮かぶ笑み。
余裕のある者だけが浮かべられる笑み。
「書類に署名していただければ、すぐに離婚が成立します」
「こんな条件は受け入れない!」
「形勢は不利ですよ? 貴方の不貞の証拠も揃っています」
イーサンは、体中から血の気が引いた。
「俺は潔白だ」
ポートマン卿は表情を変えない。
ただ、小さな《キューブ》を机の上に置いた。
「こちらは貴方の商会で販売中の録画キューブ。二十四時間の映像が保存されています」
マリアが作ったものだ。
自分の人生を縛る鎖になるとは、考えもしなかった。
「チッ!」
舌打ちが漏れる。
「先日の外食時の映像が記録されています。ご確認されますか?」
ソレーヌとの別れ際。
人目を気にしながら交わした、あのキス。
胃の奥がねじれる。
「いや、必要ない」
「ソレーヌ夫人にも慰謝料を請求します」
「は?」
「当然でしょう? それと、愛人に使われた共有財産。その分の返還も求めます」
一語一語が、胸に突き刺さる。
「帰ってくれ」
「今後、奥様との交渉は、すべて私を通してお願いします」
立ち上がるポートマン卿。
マリアも続く。
扉へ向かう途中、ポートマン卿が彼女の腕をそっと支えた。
それだけで、分かってしまう。
――彼女は、もう守られている。
イーサンの手の届かない場所で。
裁判をしても、勝てる気はしなかった。
共同貯金は使い込んだ。
録画キューブの特許収入で、贅沢をした。
ソレーヌが現れたのは、一年前。
『夫が浮気しているの。離婚したいのだけど、親権を渡さないって言うのよ』
泣く女は、美しい。
そして、危険だ。
『協力しよう。でも君が離婚したら、俺の愛人になってくれるか?』
『愛人なんて嫌。奥様と離婚してくれれば、貴方を愛するわ』
その瞬間、理性は壊れた。
後戻りなど、できないほどに。
ソレーヌを手に入れるため、
金で彼女の愛を繋ぎ止めた。
貪欲なソレーヌ。
婚家の伯爵家が傾いたのも無理はない。
そして、もう贅沢させてくれない夫に、ソレーヌは見切りをつけた。
分かっていてもイーサンは、艶やかで美しいソレーヌが欲しかった。
マリアの財産は、いずれ息子ライアンが受け継ぐ。
そしてその金も、最終的には自分の手に戻る――そう思い込んでいたのだ。
ポートマン卿より優れた弁護士を探していた矢先、イーサンに裁判所から通達が届いた。
――夫婦の資産、凍結。
つまり、預金には一銭も触れられない。
通達が届いたとき、頭が真っ白になった。
別宅へ向かう。
マリアなら、まだ許してくれると信じて。
だが門前には護衛。
「どけ!」
「申し訳ありません。奥様のご命令です。ご用の際はポートマン卿を通してください」
マリアはもう、彼のために情など残してはいなかった。
「マリア! 話をしよう! 聞いてくれ!」
返事はない。
護衛に押し戻される。
足がふらついた。
(――俺は間違ったのか?)
*
その夜。
いつもの店で、ソレーヌは甘い声で笑った。
「さっさと離婚すればいいじゃない」
その笑顔に、救われた気になる自分がいた。
「私があの屋敷の女主人よ」
「あの家は、出ることになるだろう」
「じゃあ、もっと立派な家を建てれば? 便利で、富裕層が住む場所に」
軽い。
あまりにも軽い口調が、妙に彼の神経を逆なでした。
「マリアは稼いでくれる。本当は……手放したくないんだ」
「ライアンの養育費をたっぷり貰えばいいのよ」
「そうか、親権を取ればいいんだな……」
「そうよ、母親なんだもの。養育費は出すべきだわ」
その言葉を、正しいと信じた。
(俺は間違っていない)
(第一、ライアンは俺の愛する息子だ、絶対に渡さない)
それに。
――親権を取れば、マリアは今後も自分を支えるだろう。
そう思い込むことでしか、自分を保てなかった。
幸福は、すぐそこにある。
イーサンは、本気でそう信じていた。
――それが、すべて幻想だとも知らずに。
読んでいただいて、ありがとうございました。




