16 死を願う祈り
まだ事実としてマリアは受け止めきれなかった。
イーサンの顔には苦悶が残り、体は焼けただれ、
それでも、その腕は何かを守った形が残されていた。
「火の中、最後まで息子さんを守ったんですよ」
医師の言葉にマリアは胸が詰まった。
ライアンは自分とイーサンの宝だった。
三人で幸せになる未来があったのに、彼はそれを望まなかった。
涙は出なかった。
憎んでいた。
でも。
息子を守った。
マリアの視線は、無意識に息子を捕える。
小さな胸が、かすかに上下している。
まだ、未来は断ち切られていない。
イーサンが命をかけて守った、大切な宝。
「ライアン……」
声はかすれ、涙が止める間もなく零れ落ちる。
カリスはそっとマリアの肩を抱く。
支えるように。
そして告げる。
「火事はライアンの部屋から起こったそうです。イーサンは息子を助けようと2階から飛び降りて、二人は救助された。しかし……」
「……彼は死んだ。でもライアンは生きている」
そっと息子の体に触れる。
「ええ、彼は頭部に裂傷を負っていました。これは誰かに襲われたと思われます」
「襲われた?」
その瞬間。
廊下の向こうから、高い声が響いた。
甘い。
艶めかしい声。
死者を悼む声ではない。
ソレーヌはマリアの姿を認めると、ハッ! と息を止めた。
一瞬の動揺。
だがすぐに、完璧な未亡人の顔を作る。
「イーサンが死んでしまって、私、これからどうすれば……」
声は震えている。
だが、泣きはしない。
産後だというのに、彼女は美しかった。
あの日、庭園で見かけたときと同じ可憐さのまま。
「ライアンは私が面倒を見ます」
マリアは迷いなく言った。
語気を強めて。
だが。
「それはお断りするわ。今は、私の大切な息子ですもの」
その“今は”という言葉が、マリアを黙らせる。
マリアは、ソレーヌの隣に立つ男へ視線を向けた。
「俺はソレーヌの兄、ジャックと言います。この度はご愁傷さまで。俺、ライアンとは仲が良いのですよ。彼の世話は、俺に任せていいですよ」
軽い。
あまりにも軽い口調。
マリアは信じなかった。
ライアンが、この粗野で、濁った目をした男に心を許すはずがない。
「ソレーヌ様、貴方は出産されたばかり。お体に負担がかかるといけませんわ。赤子の世話も大変でしょうに。どうか私にお手伝いさせてください」
あえて、下手に出る。
息子を救うために。
するとジャックは遠慮なく言った。
「いいんじゃないか? なんたって生みの親だし。ライアンの意識だって『戻るかどうか、分からない』って医師も言ったしな」
その言葉には、悪意が滲んでいた。
「そうね、お願いしようかしら。夫の葬儀の準備もありますから」
ソレーヌはあっさりと引いた。
もう興味がないかのように。
そのやり取りを、カリスは黙って見ていた。
(私の妻を誰だと思っているんだ)
胸の奥で、抑えがたい怒りが燃える。
そして彼は、眠るライアンを見た。
マリアの大切な宝。
(彼の意識はきっと戻る)
確信があった。
マリア・ポートマン子爵夫人。
その正体は――ミオヴェルの錬金術師なのだから。
*****
その日から、マリアは治療者としてライアンの傍に立った。
医師と何度も相談し、数値を確認し、可能性をひとつずつ拾い上げる。
ライアンにとって、最善である治療を選び続けた。
火傷は全身の一割を超えていた。
ほんの少しでも処置が遅れていれば、彼はもうこの世にいなかった。
煙に焼かれた器官は塞がれる寸前で、
血管の中の水分は組織へと漏れ出し、血圧は急降下していた。
心臓は、止まる一歩手前で踏みとどまっていたのだ。
生きていること自体が、奇跡だった。
医師の努力に、マリアは深く頭を下げ感謝した。
彼女は眠る間も惜しんで薬を調合する。
その手は止まらない。
止めてしまえば、終わってしまう。
ライアンの意識がないことは、残酷でありながら、同時に救いでもあった。
治療は、常に痛みを伴う。
もし彼が目を覚ましていたなら、その痛みは彼の小さな身体にはあまりにも過酷だった。
*
ライアンの意識が戻らないまま、
日付だけが静かに変わっていく。
その間に、イーサンの葬儀は終わっていた。
マリアはその日も、黙々と薬を作り続けていた。
そして、この日。
ソレーヌは姿を見せた。
ライアンの生死を確かめるために、
目尻を押さえ、完璧な哀れみをまとって。
「あの日はレイモンドを救うのに必死で、ライアンはイーサンに任せたの」
堂々と嘘を語る。
「可哀そうなライアン、ママは毎日祈っていますからね」
胸の前で手を組んでソレーヌは祈る。
それは、ライアンの”死を願う”祈りだった。
マリアは、気づくことなく、遠い目でソレーヌを見つめるだけだった。
これは、ライアンに与えられた罰に違いなかった。
なぜなら、ソレーヌはライアンが慕い、選んだ”ママ”なのだから。
読んでいただいて、ありがとうございました。




