11 カリスの告白
「兄さん、どうしてお義姉さんと、いつまでも部屋が別々なの?」
そう問いかけたのは、ディアンナだった。
好奇心ではなく、心配した声で。
「……いろいろ事情があるんだよ。それより、マリアの具合はどうだ?」
逃げるような問い返し。
ディアンナはそれに気づいている。でも追及しない。
「昨日は落ち込んでたけど、今朝は少し元気が出たみたい」
カリスはすぐに理由を思い当たる。
──今日は王太子殿下との謁見がある。
きっと緊張で気を張っているのだ。
強くあろうとする時の、あの静かな横顔を、彼は知っている。
マリアは研究を、一時中止していた。
家事を手伝い、妹たちと編み物をし、ティータイムにお菓子を焼く。
穏やかな時間。
けれどそれは、彼女の本質ではない。
時折ふと、遠くを見る目をする。
何かを諦めかけている人の目だ。
そのたびにカリスは思う。
自分は、彼女を支えているのか。
それとも、ただそばに立っているだけなのか。
午後。
マリアは王宮へ向かうためにドレスをまとっていた。
淡い水色。春の空のような色。
ゆるくまとめた髪が、うなじをやわらかく見せている。
「兄さん、見て! お義姉さん、とっても綺麗!」
サーラの声が弾む。
カリスは、息を忘れた。
気品という言葉では足りない。
まるで、触れれば散ってしまいそうな花のよう。
「ちゃんとエスコートしてあげてね」
ディアンナが背を押す。
「パーティーじゃないんだ。殿下との謁見だよ」
そう言いながらも、彼は手を差し出した。
「行きましょうか」
マリアが微笑む。
二人は、どこか遠慮がちだ。
姉妹は顔を見合わせる。
想い合っているのに、触れられない。
まるで薄いガラス一枚が二人を隔てているみたいに。
「どんな事情があるのか知らないけど、もどかしいわね」
同時にこぼれた姉妹のため息は、よく似ていた。
*
二時間後。
王宮の謁見の間。
高い天井の下、二人は王太子殿下の前に立っていた。
「実は、ポートマン子爵夫人にゲルニカ帝国から相談があった」
挨拶もそこそこに、殿下は本題に入る。
「ゲルニカ皇帝には十人の孫がいる。そのうちの一人が、生まれつき目が見えないそうだ」
マリアの胸が、ひゅっと鳴る。
「夫人の錬金術で、その子の目を見えるようにできないか――そういう相談だ」
(聴覚を補う装置が作れたなら、もしかして視覚も……?)
消えかけていたはずの灯が、再び胸の奥にともる。
研究者としての自分が、目を覚ます。
「成功するかどうかは、お約束できませんが……」
「構わない。研究に取り組んでくれれば、それでいい」
殿下は満足げにうなずく。
補聴器は、すでに各国で希望と呼ばれていた。
流行病で聴力を失った人々に、音を取り戻した発明。
マリアは特許を取らなかった。
製造法を公開した。
その代わりに王国は、他国から様々な恩恵を受けた。
それでも彼女は誇らない。
カリスはその横顔を見つめる。
――やはり彼女は、自分にはもったいない人。
「もしよければ、帝国に研究所を設置し夫人を招いて、研究を進めてもらってもよい。人材や資金、材料も十分に用意するとのことだ」
「帝国に、私が……」
「もちろん、わが国で研究する場合も同じ条件を出す。帝国が全面的に協力してくれるからな」
最後に殿下は言った。
「二人でよく話し合って、結論が出れば報告を。急いでくれ」
*
長い廊下。
足音だけが響く。
「マリア、どうしますか?」
「帝国で研究する方が、成果を出せると思います。行けば数年は戻ってこられませんけど」
決意と、迷い、両方が混じった声。
「契約婚を、終わらせるつもりですか?」
二人は足を止める。
分岐点は、すぐそこにあった。
「そうですね。これ以上、あなたに迷惑をかけるのは申し訳ないですから」
「迷惑なんて、かけられた覚えはありませんよ」
「そうやって、あなたはいつも優しかった。支えてくれて、本当に感謝しています」
感謝。
それは終わりの言葉に似ている。
「もう、私の支えは必要ないのですか?」
「あなたには、きちんとした家庭を築いてほしいと思います。きっと良い夫、良い父親になれる人ですから」
言いながら、マリアは思う。
もし最初からこの人と出会っていたなら。
あの嵐のような結婚生活も、息子との別れもなかったのかもしれない。
「マリア、私は貴方と本当の家庭を持ちたいと思っています」
互いの息が止まる。
「貴方は私にはもったいない人だと分かっています。でも……それでも、私は貴方が好きです。妻になってほしいと思った人は、マリアが初めてです」
マリアの胸は震えた。
恐れるように。
「私は……また研究に没頭してしまうでしょう。あなたの理想の妻にはなれません」
「私はそう思いません」
「いいえ、イーサンとの離婚が、それを証明しています。私は良い母親にもなれなかった」
「マリア。貴方は家族に何不自由ない暮らしを与え、ライアン君の声を聞きたくて研究を続けてきた。それのどこが悪いのですか。私は、貴方を心から尊敬しています」
それは、彼女がずっと、誰かに言って欲しかった言葉だった。
「何度でも言います――マリア、貴方に妻になってほしいと」
静かな廊下に、その言葉だけが残る。
マリアの胸の奥に、カリスの熱意がゆっくりと溶けていく。
凍りついていた大地に、温かな春が訪れたように。
「私は……」
マリアの声は揺れた。
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