10 あちら側の未来
それは、まるで舞台の幕が、王太子殿下の一声で静かに降ろされたかのような裁判だった。
勝敗は、始まる前から決まっていた。
――すべては、カリスがあらかじめ殿下と話を通していたからだ。
イーサンを黙らせるため。
そして「商会名」を変えさせるため。
計算し尽くされた、完璧な布石。
スウィントン男爵家は、跡継ぎもなく、老人一人が名ばかりの爵位を抱えて細々と生きる家門。
その看板を掲げた瞬間、イーサンは夢を見た。
自分は選ばれた側の人間だ、と。
けれど、その歓喜はあまりにも短かった。
――「商会名の変更」
その判決が読み上げられた瞬間、彼の顔から血の気が引いた。
自分が誰かの掌の上で踊らされていたことを、ようやく悟ったのだ。
*
裁判所を出た直後だった。
マリアの足元に、何かが飛んできた。
――靴。
振り返った瞬間、ボスッ、と鈍い音。
彼女を庇ったカリスの背に、それは当たった。
裸足のライアンが立っている。
小さな胸を激しく上下させながら。
「うそつき! なんでパパに意地悪するの? エミリアにも会えなくなった。全部ママが悪いんだ!」
その瞳に浮かぶ涙は、本物だった。
だからこそ、残酷だった。
マリアは言葉を失う。
何をどう言えば、この子に届くのか分からない。
その時、カリスが一歩、前に出た。
「では、君のパパは悪くないのかな?」
「え……」
「責任を全部ママに押し付けるなんて、君のパパだって間違っていると、思わないか?」
ライアンの小さな拳が震える。
「パパは僕のためにママと離婚したんだ。僕、エミリアが大好きだったんだ! 妹になって欲しかったのに」
幼い子どもは、いつも真実の一部しか知らない。
そしてその一部だけで、世界を憎む。
カリスはゆっくりと話す。諭すように。
「パパが離婚したのは、自分のためだ。だからエミリアは君の妹にはならなかった。でも――新しいママができたから、すぐに妹か弟ができると思うよ?」
その瞬間、イーサンが駆け込んできた。
「ライアン、何してるんだ!」
「ママに謝ってほしかったんだよ。パパに意地悪ばっかりするから!」
「もうあの人はママじゃない。忘れるんだ、行くぞ!」
その一言は、マリアの心に残っていたひびを広げた。
ぱきり、と音がした気がした。
「ライアン! 待ちなさい!」
「命令しないでよ。もうママじゃないんだから!」
それでも彼女は、声を張った。
「いいえ。君はカリスに靴を投げつけた。謝りなさい!」
「僕はママに投げたんだ! その人は関係ないよ!」
――どうして。
どうして、こんなところまで来てしまったのだろう。
後悔と哀しみが、胸の奥で絡み合う。
「イーサン、お願い。……親権を、私に渡して。今度こそ、私は良い母親になるから」
それは、誇りを捨てた、最後の願いだった。
「馬鹿を言うな。お前は嫌われているんだよ。夢を見るな!」
吐き捨てる声。
抱き上げられる息子。
その先に立っていたのは、少し膨らんだ腹を撫でるソレーヌ。
息子の未来は、もうあちら側にある。
崩れそうなマリアの体を、カリスが支える。
「カリス……背中は痛みませんか?」
「大丈夫ですよ」
「ライアンが申し訳ありません……」
涙で滲むマリアの瞳に、カリスは一瞬目を伏せた。
「悪く言いたくはありませんが……ライアンの性格は、父親によく似ていますね」
「私が母親らしいことをしてこなかったから……」
「……もう自分を責めないでください。あれはライアン君自身の性格でもあると思います」
「慰めて……くださっているのね」
――彼は優しすぎる。
それでもマリアは祈るしかなかった。
息子の未来が、どうか父の影に呑み込まれませんようにと。
*
帰宅すると、ディアンナとサーラが笑顔で迎えた。
「お疲れさまでした。勝利祝いのご馳走を用意したのよ」
「随分と用意がいいんだな……」
「兄さんが負けるはずないもの。今朝から用意していたの」
迷いのない信頼。
疑う余地のない絆。
それは、血が結ぶ安心のかたち。
マリアはその光景を見つめながら、胸の奥がひりつくのを感じた。
自分は、あんなふうに息子と笑えただろうか。
これは契約結婚。
いつか終わる。
(そのときはまた一人)
「マリアお姉様?」
「あ、ごめんなさい、なんだか疲れてしまって」
「少し休まれますか?」
「ううん、ご馳走をいただくわ。せっかく用意してくれたんだもの」
テーブルに並ぶ卵と鶏肉料理、オニオンスープ。
温かな匂いが、マリアを和ませる。
それでも、心の奥底は空洞だった。
*****
二か月後。
険しい顔のカリスが帰宅する。
「今日、事務所にイーサンが来ました」
「なぜ?」
「言いたくないですが。イーサンの言葉をそのまま伝えます」
覚悟して、マリアは頷いた。
「『稼いで、養育費を早く送れ』と」
マリアの息が止まった。
イーサンが金を欲している。
莫大なソレーヌの慰謝料を彼が払った。
新築の屋敷。
改名した店。
“ミオヴェル”の名を失った影響は、想像以上だった。
だが、名を変えても、店は安定した収益が望める。
──過剰な贅沢さえしなければ。
最後にカリスは告げた。
「『ライアンをこれ以上苦しめるな』とも、言いました」
「何が苦しいのかしら?」
息子を盾に、贅沢を望む大人の都合。
ライアンはソレーヌが母になり、
彼女の赤子の兄になる。
――あちら側の世界で。
「カリス、迷惑かけてごめんなさい」
「いえ『ライアンを幸せにすると、約束したのではないですか?』と言ったら、帰りました」
マリアの表情に寂しさが滲む。
「稼ぐ気は無いわ。今の貯金で、私は一生暮らせます」
その声は、決定的だった。
「私はもう、あの人たちとは他人だもの」
読んでいただいて、ありがとうございました。




