File.6「伝奇憑き:美園ルリ」♥
私は男の人が嫌いだ。自分のカラダが嫌いだ。
生涯、好きになるコトはないだろう。
美園ルリは小学五年生の時、そう思った。
以来、その思いが改まる可能性は無いはずだった。
「……どうして、こんなに暑いの……」
汗をかき、寝苦しさのあまりに、シルクの掛け布団をカラダから引き剥がす。
ミントブルーのベッドシーツの上。
白い枕と首の間で、髪が濡れている。
上質なリネンのパジャマも、乾いていれば着心地がいいはずなのに。
この頃はずっと、妙な寝苦しさのせいで湿っていた。
時刻は深夜の三時。
「もう……」
ルリは我慢できず、ベッドから身を起こして。
湿ったパジャマを脱いで、シーツも剥がした。
そうして、クローゼットから新しいシーツとパジャマを取り出して、シーツだけ先にベッドに被せる。
汗で張り付く下着の感触を気持ち悪く思いながら、シャワーを浴びたらすぐに眠れるように準備をした。
「……私、どうしちゃったの……」
玲瓏館二階の私室、翠泉の間。
深夜のため、部屋には一階の温室から響く微かな水のせせらぎと。
庭園に繋がる階段付きバルコニーの窓から入り込む風。
わずかに潮の香りを漂わせる、夜風がカーテンを揺らす音。
ルリの私室は、屋敷の南東側にある。
窓からは遠い灯台から光が届き、北側の壁に飾った銀の鏡にその光が淡く反射する。
反射した光は、白とミントブルーの部屋を照らして。
基調とした色彩はルリのお気に入り。
家具の表面には、いつもと同じで埃などひとつもない。
床は白大理石に近いタイル張りだ。
素足だと冷たくて、靴下でもひんやりする。
翠泉の間は特別だった。
枕元にはガラス製の、ミストディフューザーを置いていて。
東側には少し大きめの、円筒形アクアリウム。
観賞用の熱帯魚を、澄んだ水質環境で泳がせていて。
毎朝必ず、水温とpHを測定するのがルリの日課だった。
勉強机には整然と並べてある勉強道具と消毒液、時計、温度計。
その上にはいつも一枚の付箋を貼ってあり、「26℃——理想の温度」と忘れないように書いている。
小さな換気窓には透明な鈴も吊るしていて。
風が吹く度に、澄んだ音を立てるのがルリの小さな癒しでもある。
「…………」
けれど、そんな何もかもがいつも通りの翠泉の間で。
部屋の主だけが、この頃ずっと異変を来たしていた。
まだ朝ではなかったけれど。
ルリは部屋の一角にある、小さな洗面台まで移動する。
ミントの香りのするハンドソープで手と腕を洗い、それから除菌済みのガラスコップで口をすすいで。
もう一度、今度はミントウォーターで口の中をすすぐ。
そうして少しサッパリした後は。
下着を脱いでランドリーバスケットに入れ、部屋に備え付けのシャワールームに入った。
浴びるのは冷水だ。
「普段は汗なんて、そんなにかかないのに……」
頭から水を被りつつ、ルリは体内の熱を少しでも逃がすように息を吐き出す。
風邪をひいているワケじゃない。
夜、異様なまでに暑くなって寝苦しくなる以外に、体調は何もおかしくなかった。
妹のコハクと違って、赤やら金やら派手な寝具にくるまって寝ているワケでもないのに。
夏でも長袖で平気なルリが。
何故。
何故?
そう自問するまでもなく、ほんとうのところ、理由は分かっている。
「……夢」
夢。
毎晩、ルリは同じ夢を見ていた。
その夢は幻想的な内容で、誰かに打ち明けるのは気恥ずかしい内容のもの。
夢のなかで、ルリは自分がアクアリウムの熱帯魚のような人魚になっている。
綺麗な尾鰭と、鮮やかな鱗。
……学校の噂だと、ルリに似た人魚はシラウオみたいだったらしいが。
夢のなかのルリは、それはもう色鮮やかで。
けれど、ある日突然、人魚ではなく人間に変わってしまう。
水のなかで、溺れる。
そこを、彼が助け出してくれるのだ。
冴木ハクア。
白髪の、男子大学生。
妹の家庭教師で、都市伝説なんかに詳しいらしくて。
どこか胡散臭い雰囲気をしている男の人。
ミステリアスで色っぽい、なんて学校では噂が立っていたけれど。
彼は溺れたルリを抱き上げて、陸に引き上げると。
人工呼吸をして、心臓マッサージをして、意識を失っていたルリを救ってくれる。
毎晩毎晩。
まんま、あの夜を思い出させるように。
夢の中とはいえ、ルリの唇に彼の唇が重なり合って。
命を救うためとはいえ、胸の上を──何度も。
何度も何度も、強く、激しく触られて。
「──……」
ルリは、想い起こすだけで、頬が熱くなる。
頬だけじゃなく、首筋や耳や、肩や背中。
全身が、朱に染まって火照っていくのが、分かる。
冷たい水のシャワーを浴びていても。
カラダの奥から奥から、恥ずかしさと妙な高揚が止まらなくて。
「冴木、さん……」
思わず、彼を呼びながら。
肩を抱きしめて。
内腿を擦るように重ねて。
シャワールームの鏡に、呆然とする。
そこに映った自分の顔に、笑みのような兆しさえ見て取れるから。
──ああ、ほんとうに。
「私、どうしちゃったの……?」
自分が分からなくなって、ルリは困惑する。
男の人が嫌いだ。自分のカラダが嫌いだ。
生涯、好きになるコトはないだろう。
ルリは小学五年生の時、そう思った。
自分が周りと比べて、成長が早いコトには小さい時から気がついていた。
女子は男子よりも、身長が伸びるのが早い。
だが、ルリは低学年の頃、同年代の女子たちと見比べても抜きん出て身長が高かった。
それが自慢でもあり、嬉しくも思っていた。
背の順で最後に並ぶコトが、一種のステータスのように感じていた。
しかしながら、高学年になって胸や尻、全体的に丸みを帯びて行くカラダの変化を知った時、それまでの感情はクルリと反転した。
ルリの発育は、あまりにも早熟だったからだ。
クラスの女子たちに比べ、誰より大きく膨らみ始めたふたつのおっぱい。
その成長は著しく、六年生になる頃にはFカップのブラジャーが必要だった。
クラスの男子たちは、まるでマンガ雑誌の表紙を飾る、水着のグラビアアイドルみたいだとルリをからかい。
女子もまた、男子の注目を集めるルリに嫉妬と羨望からか、まるで牛みたいねとあからさまな陰口を叩いた。
「お姉さんと同じ、牛の姉妹なんだわ!」
でも、それらはまだいい。
問題だったのは、周囲の大人──とりわけ、男性から注がれる視線だった。
同い年の子どもから何を言われようと、所詮は子ども同士のいさかいの域を出ない。
ルリ自身も子どもだったから、同い年くらいの子たちがどういう頭でものを考えているかは、ある程度想像できた。
想像ができれば、対処もしやすかった。
事前に母や姉からも、「こういうコトがあるかもしれない」と教えられていたのもある。
しかし、大人は話が違った。
腕力も体力も、体格だって相手のほうがルリより上だ。
通りすがりの高校生から、スーツを着たおじさんまで。
彼らはそれまで、ルリに対して児童を眺める視線を送っていたはずが。
ある日を境に、不気味なモノを視線に込め始めた。
好奇と欲望、奇異と興奮。
もはや彼らにとって、ルリは『子ども』ではなく、『女』であるのだと否応なく分からされた。
全身に突き刺さる下劣な視線、視線、視線の数々。
それらは露骨にルリの胸や素肌へぶつけられ、幼いルリにとって恐怖以外の何ものでも無かった。
彼らの思考や欲望に想像が及び切らないのもあったし、子どもであるルリにどうやって対処のしようがあろう?
防犯ブザーを持つだけでは、安心できない日々だった。
……自意識過剰と、自分が考えすぎているだけなのかもしれないと、必死に現実を否定しようともした。
だが、事件は立て続けに起こった。
リコーダー、体操着、その他ルリの私物が、明らかに意図的に盗まれるようになったのだ。
犯人は結局分からず仕舞いだったが、学校の誰かがルリによこしまな想いを向けているのは確実で。
──男なんて、信じられない。
幼いながらにルリは、男性不審を募らせていった。
過去に父親を、凄惨な事件で失っていたトラウマもあり。
玲瓏館の外にいる男は、誰もがルリや家族を狙っている卑劣漢に思えた。
中学生になり、とうとう明確に第二次性徴の時期に入り、ルリの胸はさらに大きくなった。
FカップのブラジャーはLカップのサイズに変わり。
スイミングスクールの女性の先生からも、既成の水着ではこぼれ落ちそうです、と母に電話が行くほどで。
ルリは恥ずかしかった。
そんな時期に、痴漢に遭った。
中学までは、ルリは姉と同じ女学園の中等部に通っていた。
普段、玲瓏館から女学園までは、送迎の車を出してもらっていた。
しかし、その日は運悪く車の調子が悪いとかで、朝練があったルリはひとり先にバスで登校しなければいけなかった。
身長はゆるやかに、成長の速度を落とし始めていた。
なのに、反比例するようにして、胸やお尻ばかりだけどんどん肉付きが増していた。
心はまだ未成熟な子どもだった。
一方で、肉体は異性へのセックスアピールを猛烈に主張していた。
たまたま同じバスに乗っていた他校の男子。
その視線と赤らむ反応が、以前よりも顕著に感じられた。
それほどに、ルリのカラダは同年代離れしてしまった。
だからだろう。
早朝のバス車内。
次第に混み合っていくバスの座席で、ルリは痴漢に遭った。
相手は見知らぬオジサンだ。
ルリが座っていた二人席の隣に、そのオジサンはまだ空席があったにもかかわらず、何故か迷うことなく腰を下ろした。
嫌な予感がした。
だけど、偶然かもしれない。
バスの二人席で、見知らぬ他人同士が隣り合って座るなんて、珍しい話じゃない。
まさかルリに、二人席を独り占めする権利があるはずもなかったし。
──嫌だから退いてください、なんて。
そんな言葉、常識的に吐けるはずもなかった。
男はルリの足に触れてきた。
自分のカバンを使って、器用に周囲から視線を遮りつつ。
カバンの裏側から手を伸ばして、ルリのスカートの上に手を添えた。
驚きのあまり、声が出せなかった。
そうしていると、痴漢はそのまま太ももを撫で。
恐怖に硬直しながらもギュッと足を閉じたルリの内腿へ、悔しげに指を伸ばし続けた。
しかも、
「キミ、カワイイね」
「──!?」
「怯えさせちゃったかな。ごめんね」
──でも、また会おうね?
ねっとりと、小声で。
男は囁いた。
心底、気持ちが悪かった。
なのに何も言い返せず、ルリは目を見て相手の顔も確認できず。
バスが停車して、痴漢が降りようとしていても震えるだけ。
小学校の時と違って、犯人は明確に分かっていたのに。
結局、その痴漢を捕まえたのは、
「おい、オッサン。アンタいま痴漢やってただろ」
「はっ? な、なんだねキミは!?」
他校の男子だった。
少年は、恐らくずっとルリを見ていたのだろう。
普段は見かけないお嬢様学校の女子を見かけて、彼は一目惚れをしたらしい。
痴漢騒ぎがおさまった後で、ルリは少年に告白された。
「痴漢を捕まえてやったんだしさ」
「お礼も兼ねてっつーか」
「ちょっと俺と付き合ってくれない?」
「ってかマジ可愛いよね?」
「おっぱいもマジ半端ないし!」
「キミみたいに可愛い子、ここらじゃアブない連中に狙われちゃうよ?」
「俺って結構不良だからさ」
「どう? 後悔させないぜ?」
「だから、いいよね?」
いいワケが無かった。
最初は感謝をしようと思っていたルリだったが。
少年の話を聞いて、「……ああ、そうか。最初から、それが目的だったんだ」と感謝の気持ちもすぐに吹き飛んでしまった。
カラダ。
カラダ、カラダ、カラダ、カラダ、カラダ。
欲しいのはそれだけ。
告白を断ったルリに、少年は案の定、嫌がらせをした。
しつこくしつこく、何日も付け回して。
男なんて、大嫌いだと思った。
自分のカラダが、疎ましくて仕方なかった。
水の中だけが。
そんな苦悩から解放されて。
気持ちよく、すべてを洗い流してくれる癒しだった。
生まれ変わったなら、魚になりたい。
ルリは余計に、水泳にこだわるようになった。
不利な体型もカバーできるくらいに、なまじ才能があったのも大きかった……
──今はもう、そんな才能も通用しない。
バスト119センチのQカップ寄りのPカップ。
胸の輪郭を、自分でも驚くほど円形に滴り落ちていく水滴を見下ろして。
ルリは首を振る。
こんなカラダじゃ、水の抵抗はどうやっても誤魔化せない。
家族の中で自分だけは、昔から運動を続けていたし「そこまで大きくならないはず……」と予想していたけれど。
遺伝は強かった。
水泳選手になる未来は、閉ざされた。
仕方がない。
仕方がない話だ。
「……不思議ね」
少し前まで、そう自分を諦めさせるのは、とんでもなく難しかったのに。
あの夜を境に、ルリはストンと納得している。
もともと肌を晒すのは好きじゃなかった。
だからなのかもしれない。
でも、だとしたら疑問があって。
そんな自分が、どうして彼の夢を毎日見続けているのか。
ほんとうなら、いくら人命救助のためとはいえ──接触を。
男性との接触を、ルリは不快に思って発狂していてもおかしくないのに。
あれから何日も経つ。
それでも未だ、ルリは彼を──
冴木ハクアを──
「…………嫌じゃ、ない」
むしろ、好ましいとすら感じている。
「いや、違うわ。ちゃんと不快よ」
朝になり、ルリはベッドで呟いた。
冷水シャワーのおかげでカラダの熱はあらかた冷めたが、しばらくすると再び悶々とした寝苦しさがやって来て、結局この日は眠れなかった。
健康的によくない。
とはいえ、太陽が昇っているのに起きないワケにもいかず。
夜通し考え続けたおかげで、自身の変調の原因にも妥当な分析結果を導き出せていた。
「冴木さんにまだ、恩返しができてない」
あの夜のプールでのことは、ハクアとルリのふたりだけが知っている。
彼はルリを気遣い、家族には知られたくないだろうと黙ってくれているのだ。
溺れかけたなんて知られれば、たしかに心配をかけてしまう。
しかし、雇われ者の立場からしたら、母に報告して謝礼のひとつでももらったほうが得なはずだ。
ハクアは貧乏であるにもかかわらず、そのあたりが下手くそに思える。
お人好しというか何というか……人生が下手くそだ。
〝女の子が危ない目に遭っていたら、助けて守ってあげたくなるのが男の本能なんだよ〟
「っ、違うわ」
ルリは首を振る。
あの夜、彼はあんなコトを言っていたけれど。
男性からの無償の善意なんて、ルリは信じない。
そういうものは、父を失った時に人生から無くなったのだ。
借りを作ったままではいられない。
「うん、そうよ……だから、こうするのがいいわよね?」
ルリは日課をこなしながら、ブツブツ熱帯魚に呟く。
あれから一回も、ふたりはあの夜の話をしていない。
きっとルリが話をしなければ、ハクアはずっと黙っているつもりだろう。
何が目的なのか。
分からないが、あの夜を知っているのは玲瓏館ではふたりだけ。
なら、彼にきちんとした先制攻撃をできるのも、ルリしかいない。
「ここ最近の睡眠不足は、全部それが胸の中でつっかえてたからに違いないわ……」
まさか。
男嫌いである自分が、彼に好意を抱きかけているなんて。
そんなバカな話、あるはずがないのだから。
「たしかこのへんに……」
ルリは私物入れにしている戸棚から、お気に入りのバスグッズ(ミント系)を見繕った。
シャンプーやボディスクラブ。
貧乏人である彼には、どれも高級品だろう。
菓子折りや食事で礼をしてもいいが、さすがに急にそんなコトをしたら家族に怪しまれる。
双子メイドの妹のほうに、「ルリちゃんにもついに、春が来たのかにゃ〜ん?」とウザ絡みされるかもしれない。
「これなら、すぐ手渡して使ってもらうだけだし……」
お風呂上がりの彼の様子をうかがえば、それがちゃんと謝礼に相応しかったかもすぐに分かるというもの。
ルリは身支度を整えると、早速、ハクアのもとへ向かった。
「え、今からお風呂に入って来いって……?」
「そうです。これ、あの夜のお礼なので、冴木さんも少しは良い匂いになると思います」
「僕、臭いのか……」
ハクアはガーン! とショックを受けた顔になりながら、「わかったよ」と贈り物を受け取ってくれた。
後半、小さな声で「女子高生に臭がられたら、生きていけない……」と言っていた気もするけど、とにかく手渡し成功だった。
(受け取ってもらえた!)
心が弾んだ。
いや違う。
そんなはずない。
ルリはキリッと顎を引いて、気を引き締めた。
「え? 脱衣所で待ってる……?」
「はい。すぐに感想を聞きたいんです」
「えーっと……僕けっこう長風呂かもしれないけど……」
「冴木さんにしては、良い心掛けですね。待ちます」
「そ、そう……」
玲瓏館一階の新浴場。
ルリにとっては当たり前の光景だけど、ハクアにとっては「ホテルの大浴場」みたいに感じられる場所らしい。
彼は首を捻りながら、服を脱ぐためにルリから離れ、ランドリーバスケットが積まれた棚に隠れた。
そして、あらかた服を脱ぎ終わると、
「じゃあ、使わせてもらうね……?」
「はい」
怪訝そうにしながらも、腰にタオルを巻いて浴場に入って行った。
途中から、ルリも「何も脱衣所で待たなくても、良かったんじゃないかしら……」と気づいていたが、待つと言った手前、一歩も身動きができなかった。
目はもちろん閉じていた。
ハクアが入浴している。
脱衣所は静かで、ルリもようやく金縛りから解放されたが、少々手持ち無沙汰感は否めなかった。
浴場からは、お湯のこぼれる音やシャワーの音が、くぐもりながら聞こえていた。
鼻歌らしき声も、聞こえた気がする。
ルリは安心して、「これなら気に入ってもらえそうね」と浴場のドアから目を離して。
気がわずかに、緩んでしまったからだろうか。
不意に、ハクアの衣服がランドリーバスケットから、ハミ出ているのが気になってしまった。
ハミ出ていたのは彼の上着で、薄手の羽織もの。
デザインには見覚えがあった。
「……」
あの夜、ルリはそれを被せてもらった。
同じものだ。
気がつくと、手に取っていた。
「ちゃ、ちゃんとしまわないと、後で落ちちゃうかもしれないものね……」
彼が脱いだばかりの服を。
勝手に触って、持ち上げて。
言い訳めいた独り言まで呟いて。
他人の、男の、不潔かもしれないモノを自分の手で。
「……どう、して……?」
しかも、羽織る。
女物とは違う。
遥かにサイズの大きいそれを。
助けられた夜のことを思い出して、自分でも分からない衝動に駆られて。
男の人の匂い。
いや、ハクアの残り香らしきものに、意識まで集中させて。
「なんで……こんなに……」
安心、してしまうのだろうか?
あたたかな気持ちが。
じんわりと胸の中で広がって。
ドクン、ドクンと。
心臓を、大きく高鳴らせてしまうのだろうか?
──というか。
「私……そもそも、どうして──」
冴木ハクアを、自分と同じ匂いに変えようなどと。
無意識のうちに、行動しているのか。
「ふぅぅっ、いやぁ、気持ちよかった! ありがとう、ルリちゃん! このスクラブ、爽やかでとっても良い香りだ……ね……?」
その時、ガラリとドアを開けて浴場から出てきた彼が、不思議そうな顔でポカンと口を開けた。
「! ご、ごめんなさい! これ! 落ちそうになってたから……!」
「あ、そうなんだ。ありがとう」
「そ、それより! 感想は……!?」
「う、うん。気に入ったよ。ルリちゃんはセンスがいいね」
「そう、ですか……!」
なんとか、誤魔化せただろうか。
慌ててランドリーバスケットに服を戻しつつ、ルリは香ってくるミントと湯の匂いに。
──やはり。
(私……!?)
嬉しくなっている自分を、自覚した。
それどころか、濡れたカラダの彼を見て。
滴る水。
髪先や顎先、鎖骨から流れていく雫の動きに連動して。
あの夜、プールから抱き上げられた時の感覚や。
その濡れた唇。
血管が浮き立ちながらも、強い安心感をもたらしてくれた腕に。
無性な暑さを。
カラダの火照りを。
もう一度、ハッキリ自覚せずにはいられなかった。
深夜になって、ルリは玲瓏館の地下にいた。
ベッドの上で目蓋を閉じても、眠れなかった。
同じ屋根の下で、ハクアと自分が同じ香りを漂わせているコトを。
もしも誰かに、気が付かれたでもしたら?
夜になって皆が寝静まるまで、気が気じゃない時間を過ごした。
べつに、やましい事情は何も無いはずなのに。
ルリは自分が、ひどく背徳的な行為に手を染めているような、そんな感覚がした。
恩返しは済んだ。
胸のつかえは取れたはずだった。
だが暑苦しさは変わらず。
ハクアを意識する度に、ぽぉ、っと呆けてしまいそうになる自分に愕然として。
まるで茹だり切ったタコ。
そんな自分が理解できなくて。
苦しいほどに胸の奥が疼くから。
どうしても、我慢できなかった。
ダメだと思いつつも、ルリは泳ぐコトで頭のなかをスッキリさせようと思った。
屋敷の外、庭園のプールを使うのは彼に止められている。
それに、明らかに本調子ではない今の自分が、もう一度プールに入れば。
またおかしな幻を見て、足を攣って溺れかけてしまうかもしれない。
──だったら、プールではなくお風呂だ。
玲瓏館地下、旧浴場『月影の湯』
一階の新しい浴場と違って、そこは少し古臭い。
内装は明治期に改装されたもので、きっと当時の当主のセンスなのだろう。
乳白色の壁と床は石のタイル張りで。
浴槽は異国情緒を思わせる古代ローマ風。
天井には月が満ち欠けする絵が描かれている。
ちょっとした曰くもあって、一年のうちどこか、ある決まった日時になると、お湯を張ろうとしても泡しか出ないだとか噂もあった。
祖父母よりも前の代から伝わっているらしい不思議な話だ。
不気味と言えば、不気味かもしれない。
そのせいで、今はほとんど使われていなかった。
しかし、九条家のメイドたちは丁寧に管理を続けていて。
新浴場で水のトラブルなどがあった際には、ルリたちはしぶしぶこちらの旧浴場を使うのも珍しい話ではなかった。
浴槽の広さは十メートルほど。
ルリひとりだけ使うのであれば、充分に泳げる。
競泳水着を着たルリは、深夜にこっそり地下へと降りて。
お湯を張る音でメイドたちが起きないかビクビクしながら、慎重に目的を果たした。
「ああ……」
しばらく泳いだ後。
微音めではあったが、水の中はやっぱり気持ちがいい、と脱力しそうになりながらプカプカし。
ルリは、多少スッキリした頭で考え込んだ。
月の満ち欠けを右に左に、ゆっくり追いかけつつ。
そもそも潔癖症である自分が、どうしてハクアに不快を憶えなくなっているのか?
「男嫌いじゃ、なくなった……?」
違う。
すぐに否定できた。
玲瓏館の外にいる男は、今でも嫌いである。
特に、男子水泳部に対する嫌悪と気持ち悪さは、しばらく憎々しくて忘れられない。
──では、どうしてハクアだけが特別なのか?
ルリは自己を分析した。
変化に怯える弱虫な自分に叱咤を入れて。
どんなに目を逸らし続けても、事実からは逃げられないのだからと。
「……私は、冴木さんに助けられた」
人工呼吸と心臓マッサージ。
人工呼吸と心臓マッサージ。
人工呼吸と心臓マッサージ。
人工呼吸と心臓マッサージ。
人工呼吸と心臓マッサージ。
ルリの肺には、ハクアの息が吹き込まれた。
唇を唇で開けられて、喉を反らされ気道を確保されて、粘膜と粘膜が触れ合いながら。
人間にとって必要不可欠な、命の源を送り込まれた。
そう。空気という、極めて大切なものを……
小学生でも知っている常識だ。
酸素は、血によって体内を行き渡る。
血は心臓によって、循環していく。
「……ああ、そっか」
ルリは気づいた。
自分のカラダは、もうとっくのとうに。
あの夜を機に、変わってしまっていた。
ハクアによって生かされ、ハクアによって命を守られたルリは。
彼の存在を。
彼の脈動を。
彼の生命活動から生じる全てを。
もう不快になんて、思えるはずがなくなっていたのだ。
「私にとって、冴木さんは〝命〟……」
人間は魚ではない。
どんなに優れた水泳選手でも、無呼吸のまま永遠には泳げない。
訓練によって、長く水中に潜ったままではいられるようになるけれど。
必ず、限界が訪れ。
水面から顔を出して、口を大きく開く。
時には喘ぐように、酸素を必死に求めて。
ルリにとって、ハクアは酸素だった。
生きていくのに不可欠な存在。
それ無しでは生きられない、とても大切なモノ。
「だから、安心するのね……だから、水に包まれているのと同じように、冴木さんに抱きしめられたいんだわ……え?」
言って、ルリは自分の口から漏れ出た欲求に、慌てて口元を抑えた。
心臓の鼓動がうるさい。
激しい運動をしたワケでもないのに、水の中では余計に自分の心音が激しく聞こえる。
うるさい、うるさい、うるさい。
でも、気づいてしまった。
逃げられない。逃げられない。逃げられない。
「──……!」
足を着いて、大きい音が立つのも気にせず湯船からカラダを出す。
ルリは震えていた。
喘ぐように、息を吸って吐いて、競泳水着の上から両手で胸を抑える。
抑えるけれども。
豊満に育ったルリのそれは、とても抑え切れる大きさではなくて。
深く息を吸えば吸うだけ、さらに膨らんで、ジンジンと彼の命が染み込んでいくようで。
どれだけ水で洗い清めようとしても、体内はどうしようもない。
洗浄なんて、出来はしない。
私は、どうあっても。
冴木ハクアの影響から逃れられない。
そして、そんな現状に。
「……私、どうしよう……」
ルリはついに、初めての恋を自覚してしまった。
……なんてことはない。
茹だり切った肌の火照りの正体とは。
結局、ルリの備え持つ本能だったのだ。
──女なら、守ってもらいたい。
深層心理の底の底。
幼少期に失ってしまったと諦め、それ以来、二度と顔を覗かせるコトはないと思っていた。
奥深く、とても重たい蓋の裏に仕舞い込まれていた夢。
本来であれば、父親から与えられるはずの安堵を。
渇いていた事実にさえ、気がついていなかったのに。
すべては裏返し。
過剰なまでの厚着も。
徹底した男性嫌悪も。
水質に敏感で、汚れた環境では生きていけない繊細な観賞魚のような潔癖症も。
冴木ハクア。
運命の王子様。
神様はちゃんと、ルリを見ていてくれた。
これが魔女の罠でも構わない。
ただし、決して童話のようには終わらせない。
「私……泡になって消えたりしないわ」
彼が永遠に、ルリから離れられないように。
目を離したら危なっかしくて、ついつい「僕が助けてあげなくちゃ」と思ってもらえるような。
「……ううん、それじゃあ足りないわよね?」
思わず、気がついたら守っていた。
そんな、彼の素敵な男の本能に、絶えず訴えかけ続ける女になろう。
浴槽の淵に両手を着いて、揺れる湯面に映る自分。
ルリはふと、それが一瞬、夢のなかの人魚に見えた。
恋という熱帯にて艶やかに尾鰭を揺らし、濡れた肢体で男を誘う女。
錯覚は一瞬。いや、ほんとうに錯覚なのか?
「……」
お湯から上がったルリは、それから毎夜のように。
深夜の旧浴場で、どうやったらハクアの本能を刺激できるのか。
秘めやかな秘め事に耽溺するように、模索を開始した。
と言っても、何をすれば正解なのかなんて、すぐには分からない。
「どうしたら、いいのかしら……」
競泳水着で泳いだ後。
そのまま熱いシャワーを浴びて、ひとまず考える。
ルリはこれまで、異性とは大きく距離を取り続けてきた。
だからハクアの本能を刺激すると言っても、その方法はどうしても既存の知識に偏った内容ばかり頭に浮かんでしまう。
性愛。
やはり、ハクアも男である以上、そういうコトに興味があるはず。
実際、玲瓏館で日々過ごしている彼を見ると、大胆に下心を告白している場面もチラホラあった。
妹のコハクなどは、やや過剰にスキンシップを図っているフシもある。
その度に、ハクアも相合を崩しがちだ。
男子大学生なら、年相応に旺盛であっても不思議はない。
「貧乏だから、遊び慣れてもいなそうだものね……」
不潔な思考だった。
だが、ことハクアに関してだけは、ルリはまるで不快感や嫌悪感を抱かない。
それどころか、次第に未知の不満を感じつつあった。
ハクアに対してじゃない。
ルリ自身の内側から湧き上がる、肉体的な刺激不足に関して。
彼の姓愛や欲望に想像を働かせると、もどかしいまでの煩悶が身を襲う。
そのため、まだ水着を脱いでもいないのに。
ルリは行動をバグらせ、髪を洗うためにシャンプーを始めてしまうほどだった。
一度ルーティーンに入ると、そこからは普段の入浴時と同様、カラダを清潔にするための行動に進んでしまう。
しかしながら。
「あっ……あれ……?」
頭部と顔を洗い終え、首から下をスポンジとボディソープで洗おうとした段階になって。
普段とは異なる感触から、ルリは自分がまだ水着を着たままだった事実を思い出す。
思い出したのと同時に、改めてカラダを見下ろし。
特注の黒い競泳水着。
特注にもかかわらず、Pカップのおっぱいを覆い切れずに谷間を覗かせていて。
その深い稜線の隙間に、ぬるぬると白い泡が滑り込む。
滑り込んで、見えないところまで入り込む。
まるで、あの夜。
ハクアに侵入を許してしまった自分のカラダのようで。
恋心を自覚したとはいえ、長年の反射から咄嗟にそれを洗い流そうとシャワーヘッドを握ったルリは、競泳水着の隙間へ熱い水流を注ぎ込んでしまった。
「んっ、ぁ♥ ッ〜〜!?」
初めての、快感が迸った。
シャワーから放出される細かい水流の束。
充分に汚れを落とせるよう、少し高めの温度にして湯気を立たせるそれが。
ルリの豊満な胸肉を叩き、雨粒のように波立たせ。
窮屈な水着のなかから、すかさず逃れようとして川の氾濫のように暴れ出る。
それは、ルリが今まで水中で感じたコトのない、初めての水との戯れで。
直前の連想もあり、ハクアがルリに与えたかのような錯覚をもたらした。
「はぁ……冴木、さん……」
ルリはもう一度、それが気のせいでないかを確かめるため、わざと泡を谷間へ垂らす。
トロリ、ドロリ。
今度は少し多めに、まだ泡立ち切っていないボディソープも入れて。
競泳水着の内側がしっかりヌルヌルになり、白濁が黒い競泳水着とのあいだで粘つくほどに。
シャワーを、注ぐ。
「うぅぅぅぅんっ♥」
快感は、先ほどよりも強かった。
ルリのカラダには異変が起こる。
いいや。
これもまた、ハクアによって命を救われたことで変わってしまった、新たなルリなのか。
衝撃にカラダを震わせ、シャワーヘッドを胸の真ん中で掻き抱き。
ダラダラと熱い液体が滴り落ちる。
軽く首を仰け反らせてしまっていたルリは、その時、パチパチと目の前がスパークするようだった。
「ハァ……ハァ……なに? これ……♥」
知識の上では理解しているつもりだった。
しかし実際のそれは、あまりにも不意に性愛の門を開け放ち、ルリを未知の階へ誘っていた。
「なに、よ……なんなの? これぇ♥ ヘンだわ♥ おかしいもの♥」
火照る。火照る。火照る。
茹だる。茹だる。茹だる。
ルリはワケも分からないまま、ただ急速に脳内に横溢した快感の続きを求めて、競泳水着の肩紐を自分でずり下ろす。
単にずり下ろしただけでは、規格外の巨峰のように実った胸に引っ掛かって、完全には脱げない。
「んんっ♥」
だからそれを、少し力を入れて、強引にお腹まで引き下げた。
ば る ん ッ !
露出した乳房が、水飛沫と泡の名残りを撒き散らす。
乱れた呼吸に合わせて、肺が大きく上下するから、それだけで大袈裟に揺れて。
水着という防波堤を失ったいま、もう一度同じことをしたらどうなってしまうのだろう? とゴクン、唾を飲み込んだ。
スポンジを絞り、泡を大量に塗れさせる。
「オっ♥ ……フゥゥ♥ ……フゥゥ♥」
自分が何をしているか、考える余裕も無かった。
ひどく不潔な、不品行ではしたないコトをしているとは思ったが。
ルリは初めての快感に、しばらく自分を止められそうになかった。
よりにもよって、カラダを洗い清める作業の途中で。
「冴木さんの、せいよ……んっ♥」
「あっ♥ だって冴木さんが、あんなコト言うから……♥」
「変えられちゃった……私、変えられちゃった……♥」
「ぬるぬる……ぬるぬる……ありえないのにぃ♥」
「オッ♥ ンオオッ♥ こんなに、水着も汚して……♥」
「ん、ハァ……ハァ……♥ どうして、くれるの……?」
「これじゃあ洗っても洗っても……落ちないぃぃ♥」
「アアぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ♥」
乳房の先端にシャワーヘッドを押し付け、ダイレクトに刺激を味わいながら。
ルリは悟る。
恋に茹で上がってしまった自分は。
その脳も肉体も、内から汚れている。
だがその汚れは、決して不快なものではなくて。
けれど自分だけでは、永遠に清められない/満足させられない類の不浄で。
「あぁ……♥ 私、冴木さんに洗ってもらいたい……♥」
これからはもう、彼の手でしかルリは清められない。
彼専用のカラダを、持て余すようになってしまったのだ。
──それからルリは、幾夜も旧浴場に通った。
ある晩は双子のメイド妹から例年、悪ふざけの誕生日プレゼントとして貰っていたジョークのような水着に身を包み。
様々なデザインのそれらに着替えながら、「恋した男に媚びる自分」や「初めての感覚」に悶えつつ。
泡に塗れながら洗ってもらう妄想や、逆に彼を洗ってあげる妄想。
そうして、そんな夜を何日も繰り返し。
水場で尽くすコトこそが、彼に守ってもらえる最適解だと導き出すのだった。
美園ルリは、冴木ハクアに恋している。
溺れるように、喘ぐように、包み込まれるように。
その恋は、快楽の海を泳ぐ魚のごとく鮮やかに濡れる。




