忘れじの記憶
「おや、いらっしゃい」
小奇麗な店の中に一人の男性が入って来た。
入るなり忙しなくキョロキョロと店内を見回す。
「ご安心を。あんたくらいしかこの店には来ませんよ」
「……そうかい」
いつの間にかすっかり顔なじみになった店主に男性はそう言うとレジの前で言った。
「少女カトリーヌの記憶を」
「はいはい。お客様も好きですね」
「黙れ。いいからさっさと用意しろ」
店主は微笑むと身を屈みこませて一本のボトルを取り出した。
中は空色の液体が入っていたが、どうやら残りは二、三杯程度の量しかない。
「ほとんどお客様一人で飲み干されましたよ」
「分かったから早く飲ませてくれ」
「はいはい」
そう言いながら店主はグラスに液体を注ぐ。
男性は一気に飲み干した。
***
少女カトリーヌは目覚めた。
今の今まで何をしていたのかが少し曖昧だった。
「カトリーヌ? もう彼氏君来ているわよ」
階下から母の声が聞こえる。
先日、遂に交際が始まった幼馴染の少年の名前を母は呼ばない。
全てカトリーヌを茶化すためだ。
「うるさいな! 今から行くから!」
そう言ってカトリーヌは駆けだした。
「おはよ。カトリーヌ」
「ん。お待たせ」
「いつものように寝坊していた――ってわけじゃなさそうだね」
「化粧に手間取ってね」
「いつも通りでいいのに」
「そうもいかないでしょ。彼氏とのデートなんだから」
「今までも何度もしていたじゃん」
「『彼氏』じゃない時にね」
少年は顔を赤らめて頭を掻く。
その表情が愛おしかった。
腕を掴んで駆けだす。
「それじゃいこ!」
一日はまだ始まったばかりだ。
***
「目覚めましたかい」
店主の言葉に男性は頷いた。
ちらりと目にしたボトルの中身は何度見ても精々二杯分しかない。
「相変わらず趣味の悪い商売だな」
店主は肩を竦めて先を促す。
「人の記憶を売るなんて」
「小説や映画も似たようなもんじゃありませんか?」
「――そうかもな」
そう言って男性は立ち上がると代金を店主に支払う。
安くはない金額だ。
しかし、少しも後悔しない金額でもある。
「なぁ。補充は出来ないんだよな?」
「ええ。以前にお話しましたように補充は出来ません。何せ、もう死んじまってますからね」
男性は無言で頷いた。
「お客様はこの少女とどんな関係だったので?」
「別に。ただの知り合いだ」
「……そうですか」
店主はそれ以上問わなかった。
男性は無言で店を後にする。
別に思い出すことは一人でも出来る。
――ただ、ありありと目にすることは。
「あんなに忘れたくなかったのになぁ」
一人、呟いて男はとぼとぼと歩く。
妻と再会するまで、あとどれくらいの時間が必要なのだろう。
いずれにせよ、いい加減前を向いて歩まなければ。
ため息を一つ吐く。
自宅までの距離はまだまだ遠かった。