水のようなもの
最近、引っ越しをした。
交通の便はあまり良くないが中サイズの一戸建ての借家で、辺りは林に囲まれている。人里離れた場所と言うと言い過ぎだが、かなり歩かないとコンビニもない。何故こんな場所に家を建てたのか家主さんに理由を訊いてみたいところだ。もっとも私の今の勤務先は在宅ワークが認められているので、その立地条件でもそれほどの不便は感じない。買い物は一度に大量に買い込めば良いのだし。
私がその家に決めた一番の理由は安かったからだが、一度で良いから一軒家に住んでみたかったというのもある。少々掃除は大変そうだが、一軒家をまるまる自分だけで使えるというのは気分が良い。贅沢である。
「ここを借りた方々は、比較的早く引っ越していかれますが、それは腰掛として利用されているからでしょう。住み心地は良いと思いますよ」
というのは、この物件を私に紹介した不動産屋の弁。その言葉通り、確かに住み心地は良さそうだった。基本的に木造で、フローリング。あまりオシャレな感じではないが、素朴な味わいがあって落ち着く。ちょっとばかり湿気が強い点が気になると言えば気になるけど。
私が一番気に入っているのはお風呂だった。以前住んでいたアパートにはシャワーしか付いていなかったのだ。一人で湯を溜めるのはもったいない気がしないでもないが、一週間に一回くらいなら別に良いだろう。非常に楽しみである。
……などといった事を私が語ったからだろうか? 友人が引っ越し祝いに入浴剤を贈ってくれた。ただ、緑色した蛍光色目のやつで、あまり好きではない。だからできれば、別の何かが良かった。
「あら? なんでよ?」
そう伝えてみると、不満げに友人は私にそう訊いて来た。
「いや、だってさ。無駄に環境を汚染しちゃいそうじゃない?」
別にエコロジストを気取るつもりはないのだけど、それでもあまり気分の良いものではない。
すると、友人は「気にし過ぎよ」と言って馬鹿にして来た。そう言われれば、そうかもしれないのだが。
「化学合成色素ってね、何万倍にも薄めて使われているのよ? 環境に悪影響を与えているはずがないじゃない」
「へー? そうなの?」
「そうよ」
友人の言うのが正しい数値なのかどうかは知らないが、きっと相当に薄められているのは事実なのだろう。ただ、だからといって安全とは限らないのだが。ほんのわずかな量で強い毒性を示す物質だって世の中にはあるのだから。
……まぁ、でも、多分、私の気にし過ぎなのだろう。
私は気が向いたら使ってみるかと思って、その入浴剤を一応バスルームに置いておいた。
引っ越して初日、各部屋をチェックしている時、私は二階の寝室のクローゼットの中に妙なメモがあるのを見つけた。
水のようなものに有効な対策
1.熱する 〇
2.冷やす △
3.流す ×
飲まないように充分に気を付けること
前の住人が残したものだろうか?
――水のようなもの?
――水のようなものに気を付けろって何だ?
意味がまるで分からないが、ひょっとしたらゴキブリか何かが出るのかもしれない。ただ、だとしたら、“3.流す ×”の意味がよく分からないが。
メモはクローゼットの中に隠しながらも、直ぐに目が付く場所に置いてあった。きっと私に読んで欲しかったのだろう。文面から察するに忠告がしたいように思える。でも、水のようなものに気を付けろと言われても困ってしまう。果たしてそれは何なんだ?
少しは気になったが、私は直ぐにそれを忘れた。しかし、その次の日だった。
あれ?
テーブルの上に置きっぱなしにしてあった空になったコップに水が入っていた。仕事の合間に麦茶を飲んだのだが、そのコップに。私は首を傾げた。
はて? 水なんか入れただろうか?
まるで覚えがなかったが、確かに喉は乾いていた。だから水を入れて、何か用があってそのまま忘れてしまったのかもしれない。
折角だから飲んでしまおうと思って、コップを持ったがいかにもぬるそうだった。それで冷凍庫から氷を取り出して入れてみた。だがその時に異変があった。
動いたような気がしたのだ。水が。コップの中で。まるで氷を嫌がっているように思えた。
ただ、その後は何も動く気配がない。
私は気にせず飲もうかと思ったのだが、そこで例の忠告メモの内容を思い出した。
“2.冷やす △”
今、私はこの水を氷で冷やした。仮にこの水があのメモに書かれてあった“水のようなもの”だったなら、冷やされるのを嫌がって反応したのじゃないだろうか?
私は緊張を覚えつつ、コップを目の前にまで上げてじっくりと眺めてみた。何の変哲もないただの水に見える。排水口に流してしまおうかとも考えたが、あの忠告メモには“3.流す ×”とあった。どうやら流すのはダメらしい。
私は少し考えると、その水を氷ごとヤカンに入れた。
何の反応もない。
ただの水に思える。
“1.熱する 〇”
あのメモに書かれてあった対策。もしあれが正しいのなら、これが一番のはずだ。一瞬、“何を馬鹿なことをやっているのだろう?”と少し思ったが、私はそのヤカンをコンロの上に置き、ふたは開けたままにして点火した。すると、俄かに水が騒ぎ始めた。沸騰はまだしてない。沸騰とは明らかに違う動きだ。まるで水がヤカンの中から逃げ出そうとしているかのような。
阿鼻叫喚の地獄絵図。
見てはいけない恐ろしいものを見てしまったかのような感覚に陥った私は、急いでヤカンのふたを閉めた。水が跳ねている音が聞こえる。苦しがっているのか? 中を確認したかったが、気持ち悪くてできなかった。
しばらくしてヤカンから湯気が立ち上る。明らかに沸騰している。私は火を消すと、恐る恐るふたを開けてみた。
水は今は動いていない。当たり前だが、氷も全て溶け切っている。動いていない。普通に解釈するのなら……
死んだ?
熱せられて、あの水のようなものは死んでしまったのだ。そして熱で死んだという事は、生き物である可能性が高い。
「……そんな生き物、いないわよね?」
私が知らないだけで、そういった生き物がいるのかもと思って一応スマートフォンで検索して調べてみた。一番近いのはアメーバだけど、あんなに大きくはない。
少し迷ったが、私はヤカンの中の水をシンクに捨てた。ただの水にしか見えなかったし、何処に保存しておくべきかも分からなかったからだ。
一番気になるのは、
“飲まないように充分に気を付けること”
というあの忠告メモの一文だろう。もし、あれを飲んでしまったら、一体、どうなるのだろう?
私は少し考えると家主さんに電話をかけた。平日の昼間だが、年配の方で既に仕事は引退していると聞いていたので家にいると思ったのだ。やはりいたようで、電話に直ぐに出てくれた。「水のような生き物が出るか?」などとはちょっと質問しにくかったので、「この家に何か変わった生き物は出ませんか?」と質問をしてみた。すると、
「はあ? ムカデが出たって話は聞いた事がありますが。何か出ましたか?」
やや戸惑った感じでそう返されてしまった。
嘘を言っているようには思えなかった。多分、知らないのだろう。
「いえ、気の所為かもしれないのですが、変な生き物が出たような気がしたもので」
「はあ」
それから私は少し悩んだが、ダメ元だと思ってこう尋ねてみた。
「あの…… 私の前に住んでいた人の連絡先とかって分かりませんかね?」
あの忠告メモを残したのが家主さんでないとするのなら、前に住んでいた人しか有り得ない。連絡が取れればもっと色々と話を聞けるかもしれない。
「すいませんが、守秘義務がありますので難しいですね」
家主さんはそう応えた。まぁ、そうなるだろう。あまり期待はしていなかった。モヤモヤを抱えたまま、私はお礼を言うと電話を切った。
夜中、夕食を用意した。
サラダと炒めた肉とごはんとスープと麦茶。
“水のようなもの”の件があるから、正直嫌な気分だった。ただ、食べない訳にはいかない。麦茶は冷蔵庫に入れておいたからきっと平気だろう。スープも沸かしたお湯を注いだから、もし仮にあれが混ざっていたとしても死んでいるはずだ。問題はサラダだった。鼻を近づけてみると、なんとなく生臭いような気がした。混ざっているのかもしれない。
気にし過ぎかとも思ったが、私は生野菜を諦めて火を通すことにした。それでも少し気持ち悪かったが、臭いは気にならなくなった。食べ終えた後、死んでいるとはいえ、あれを食べてしまったかもしれないと想像し、私は自分の腹をさすった。
きっと、平気だとは思うのだけど。
それから何日かが経過した。意図的に使い終わった容器は直ぐに洗って水きりに置いておくようにしていたからだろうが、何も変わった事は起こらなかった。ただ、水切りに溜まった水がちょっと変な気がしないでもなかった。生臭いような、蠢いているような。気持ちが悪いので、頻繁に洗って干すのが習慣になってしまった。
そんなある日、雨が降った。
もちろん、私は“嫌だな”と思っていた。雨ももちろん嫌だが、“水のようなもの”が増える想像をしてしまったのだ。そして、書斎で仕事をしている時、何気なく窓を眺めてギョッとなった。窓枠の部分を水がスーッと移動しているのが目に入ったからだ。書斎は二階にあって、窓は水が溜まるような構造はしていない。雨で溜まった水が溢れたようには私には思えなかった。
何より、それは移動していたのだ。まるで生き物のように。
私はその水を吸い取ってしまおうと、急いで洗面所からタオルを持って来た。しかしその時には既に水は消えてしまっていた。見間違いかもしれない。でも、見間違いにしてはリアリティがあり過ぎた。
私は急いで家主さんに電話をかけた。
「やっぱり、この家、何か変な物がいるみたいなんですが?!」
家主さんは困惑した声を上げる。
「はあ? 虫でも出ましたか?」
“若い女はこれだから”とでも言いたげな口調だった。
「違います! 虫くらいだったら私も騒いだりはしません!」
興奮していた事もあって、私は少々乱暴な口調になってしまっていた。
「水が出るんですよ! 生き物みたいに動く水が! いいえ、本当に生き物なのかもしれません!」
その声に家主さんは益々困惑した声を上げた。
「それはすいませんでした。雨漏りでもしたのですかね?」
「いいえ、雨漏りじゃありません!」
それから私は詳しく説明をした。あの忠告メモのこと、コップを空にしておくとそこにいつの間にか水が溜まっていること、料理が生臭くなっていること、そして、今日、実際に動く水を見たこと。
「この家は、直ぐに人が引っ越していってしまうと聞きました。それはあの変な水の所為なのじゃないですか?」
それを聞くと“心外だ”といったような声で、ただそれでも表面上は丁寧な言葉遣いで家主さんは応えて来た。
「でも、今までそんな苦情を言って来た人はいませんよ。もし、そんな理由なら、そういう苦情があるはずでしょう?」
私は言いよどむ。
「じゃ、あの忠告メモは何なのですか?」
「私はそれを知らないのですよ。あなたが引っ越してくる前にチェックもしていますが、気が付かなかった。クローゼットの中にあったからかもしれませんが」
私は家主さんに文句を言ってやりたかったが止めておいた。嘘を言っているようには思えなかったからだ。
「あの…… この家を建てたのって?」
「私じゃありません。ちょっとした知り合いの伝手で、譲り受けた家でして。だから住んだこともないのです」
「どうしてこんな場所に家を建てたのですかね?」
「井戸水が美味しかったからだって聞きましたけどね。まぁ、それだけの為に家を建てるなんて変だとは私も思いましたが」
井戸?
怪しい…… と、私は思った。あれはそこから湧いたのかもしれない。ただ、私はその井戸を見た事がなかった。
「井戸なんてありましたっけ?」
「今は既にありません。枯れたので埋めてしまったと聞いていますが」
「そうですか……」
私は憮然とした気持ちになった。本当に家主さんは何も知らないらしい。
「分かりました。もう少し様子を見てみます」
家主さんは酷く厄介な客…… いや、頭のおかしい人間を扱うかのような気持ちが悪いほどの馬鹿丁寧な口調で「何かありましたら、また連絡をください」とだけ言った。そんな事は微塵も思っていないだろうに。
それから私はお礼を言って電話を切った。
次の日。
私は空のコップを敢えて台所とリビングのテーブルの上に放置しておいた。私が正しいと証明する為には、あの“水のようなもの”を捕獲するしかないと考えたのだ。幸い、あれは容器を放置すれば勝手に入ってくれるようだ。捕まえるのは簡単なはずだ。
朝にその罠(と言えるほど、大袈裟なものでもないけど)を張り、昼に観てみると、既に水が入っていた。よほど私に飲んで欲しいらしい。
私は用意しておいたタッパにそれを流し込むと、素早くふたを閉めた。動きも何もしなかったが、水が勝手にコップの中に入るはずがない。あれだと思う。或いは、水の振りをする為に意図的に動かないようにしているのかもしれない。
私は閉めたタッパの上から何重にもサランラップを巻いてきつくしばるとそれをクーラーボックスの中に入れておいた。
後はこれが何かの生き物だと誰かに証明してもらうだけだ。
私はこういったような変わった生物を受け入れてくれる研究機関をネットで探してみた。すると、案外簡単に見つかり、体験談と共に捕まえた旨を伝えてみるとあっさりと「送ってください」と返信があった。こんなに上手くいくとは思っていなかった。私は上機嫌で“水のようなもの”を送った。“もしかしたら、大発見になるかもしれない”と薄っすらと期待しながら。
が、
「――メールでお伝えした通り、変わった点は何も発見できませんでしたよ」
受話器の向こうから、理知的な声で淡々とそう説明されてしまった。
メールに記述されていた“何もなかった”という分析結果に納得のいかなかった私は、研究員の方と直接話してみようと電話をかけたのだ。
「あの…… 運ばれている間に死んでしまったという可能性はありませんか?」
あれは私が考えている以上にひ弱な生物なのかもしれない。
「そうだとしても、細胞か何かは見つかるはずですよ。何も見つかりませんでしたから。水性の微生物すら、ほとんど見当たらなかった。少なくともあれはただの水ですよ」
「でも、勝手にコップに溜まる水なんて絶対におかしいと思うのです」
その私の抗議に対し、「そうですね。それはおかしい」と研究員はすんなりと返した。私はそれを聞いて馬鹿にされているのではないかと思ってしまった。それでついちょっと声を荒げてしまった。
「――なら、どうして、あの水がただの水なんて言うのです?!」
しかし冷静な口調で研究員はそれに返した。
「落ち着いてください。あなたの証言を疑っている訳ではありません」
「どういう事です?」
「あなたは水が勝手にコップに溜まったと仰いました。きっとそれは事実なのでしょう。ですが、それが事実だとしても、水が未知の生き物だとは限りません。なんらかの別の自然現象か、または単なる悪戯の可能性だってあるでしょう」
「悪戯ですか? でも、そんな悪戯……」
「そうですか? 完全に違うと言い切れますか?」
そう言われて、私は返答に窮してしまった。
あの忠告メモを見て、私は水のようなものがいると思い込んでしまっていたのかもしれない。そして、そもそもあの忠告メモが悪戯だったとしたら?
その間で私の心中を察したのか、彼はこう続けた。
「その忠告メモを読んで、あなたは水のようなものが出ると先入観を持ってしまったのではないですか? それから、空のコップに水が勝手に溜まっているのを見て、それを思い浮かべてしまった。ヤカンの中の熱した水が何かの理由で弾けるくらいは起こってもおかしくはないでしょうし……」
冷静な口調でそう諭されると、窓枠を伝っていた水も単なる雨漏りであったように思えて来た。
“……もしかしたら、本当に悪戯だったのかもしれない”
そう思うと家主さんにまで電話をかけてしまった事が急に恥ずかしくなった。そして、悪戯の犯人が何処かで私が右往左往している様を見てほくそ笑んでいるかと思うと無性に腹が立って来た。
「すいません。そう言われると、確かに冷静さを欠いていたかもしれません。ありがとうございます。ご足労をおかけしました」
素直に謝罪と感謝の言葉を述べると、その研究員の方は「いえいえ、役に立てたようで良かった」と穏やかに返してくれた。
私は再びお礼を言うと電話を切った。
……その日の晩、サラダを食べる気だったけど、結局は炒めてしまった。どうしても生で食べるのは気持ちが悪かったからだ。もし本当にあの水が悪戯だったならその所為だろう。ムカつく。ただ怒りのお陰か、恐怖は薄れているような気がした。
夕食を食べ終えて腹が膨れて落ち着くと、もし悪戯だったなら、不法侵入なのだから犯罪ではないかと思い始めた。一度、警察に相談した方が良いかもしれない。
この時点で、私の中からあの“水のようなもの”が生物であるという考えはほとんど消えかけていた。悪戯だとするのなら、その方が問題だ。
……が、お風呂に入った時に事件が起こってしまったのだった。
ちょっとだけ変な臭いがしてはいた。しかし、私ははじめは何とも思っていなかった。そこでバスタブを見てみて“おや?”と思う。
――私、水なんか溜めていたっけ?
バスタブに水が入っていたのだ。足首の上の辺りにまで。仄かな悪い予感が急速に大きくなっていくのを私は感じていた。
そして、気が付いたのだ。
“栓が抜けている?”
そう。バスタブの栓は嵌められていなかったのだ。なのに、何故か水は流れていかない。背筋に冷たいものが走る。
“もしかして、この水、全て、あいつらなの?!”
一瞬、逃げ出してしまおうかと考えたが、その衝動を私は抑えた。刹那、怒りの方が勝ったのだ。
“ここで、こいつらを全て駆除してしまう方が良い!”
こいつらがどれくらいいるかは分からないけど、これだけ溜まっているのだ。それなりに減らせるはずだ。
私は勢いにまかせてバスタブに手を突っ込むと栓を嵌めた。これでこいつらは逃げられないはずだ。そして、それから温度を最高にして蛇口ひねった。
“これで一網打尽にしてやるわ!”
注がれていく水は徐々に熱くなっているはずだった。やがて湯気を放ち始める。熱湯になったのだ。
すると、異変が起こった。
バスタブの中の水が大きくうねり始め、そして、やがて逃げ場を求めてバスタブの壁を這うように昇って来た。
私は思わず悲鳴を上げてしまう。
「ヒィッ!」
重力に逆らってバスタブから這い出て来る“水”は想像以上に気持ちが悪かった。思わず後退る。そして、バスタブの中から這い出て来た水は、そのままお風呂の排水溝から逃げていってしまった。
熱湯で湯気が立ち込める風呂の中、私は「もう、いやー!!」と大声を上げた。
“水のようなもの”は、悪戯ではなかったのだ。本当に生き物…… かどうかは分からないけど、動いて意思を持った何かだ。しかも、どうやら、現代の科学では分析はできないらしい。少なくとも生物研究所では。
私は猛烈に考えた。
“どうする? どうする? どうする?”
誰かに助けを求めるべきだろう。だけど、きっと誰も信じてはくれない。動画を撮影するか、直接来てもらうか。しかし、それまで私の身が無事である保証はない。まずはあの水のようなものから身を護る術を考えなければ……
そこで私の目に、バスルームの端に一応置いておいた入浴剤が飛び込んで来たのだった。友人からの引っ越し祝い。さっきの水のようなものにこの入浴剤を全て入れたら駆除できただろうか? その保証はない。色が付くだけでお終いかもしれない。蛍光色の緑の色になるだけ。
しかし、そこで私は思い出したのだった。友人との入浴剤についての会話を。化学合成色素について……
「……なんで入浴剤を入れた水がコップに入っているの?」
訪ねて来た友人が、リビングに入るなりそう疑問の声を上げた。
特徴的な蛍光色の緑色。
コップの中に入っているそれは、リビングルームを異質に彩っていた。半透明の先の私の部屋は不気味な緑色をしている。
コップの中のそれは、よく見る入浴剤の色にとてもよく似ているから、きっと彼女は勘違いをしたのだろう。
「あ~、それねぇ」
と私は応え、コップを手に持つと台所に向かった。
「これと似たような水があっても、間違っても飲んじゃダメよ?」
「間違っても飲まないわよ。入浴剤なんて」
私は少し笑うと、駆除専用にと決めてあるヤカンの中に緑色をしたそれを入れて火を点けた。彼女は目を丸くする。
「何しているの? まさか、それをお風呂にいれたりしないわよね?」
「まさか。駆除しているのよ。こいつらは熱に弱いみたいなの」
その私の言葉に友人がドン引いているのが分かったから、「そんな目で見ないでよ、説明するから」と言って事の経緯を私は話し始めた……
「……なるほど。水のようなもの…… 信じられない話だけど、からかっている訳じゃないのよね?
あんたが風呂で見たのが幻覚じゃなかったのなら、何かそーいうのがいるとしか思えないわ」
「でしょ?」
「それで、どうしてそれが入浴剤の色をしているのよ?」
「そこよ。それを私は工夫したの」と私は応えると、沸騰し始めたヤカンの火を消した。きっともうこれで死んでいる。
「工夫?」
「そ。どうしようか悩んでいた時、あんたの入浴剤の色の話を思い出したのよね。入浴剤の着色料……、化学合成色素は何万倍に薄めて使われているってやつ。それで思ったのよね。それなら、水のようなものにも色を付けられるのじゃないか?って」
友人は少し考えると、「もしかして、化学合成色素を手に入れて、水のようなものに混ぜた上で流したの?」と尋ねて来た。
「その通りよ。ちょっと無理したけどね。手に入れるの」
空の容器を放置しておけば、水のようなものは勝手に溜まってくれる。後は化学合成色素を入れて流すだけ。何処かで本体に合流すれば、化学合成色素が広がって全ての水のようなものに色が付く。
「それで簡単に普通の水と見分けられるようになったってわけ。お陰で間違って飲んじゃう可能性が随分と減ったわ。今、引っ越し先を探し中だけど、その間くらいなら耐え切れそう」
それを聞くと彼女はビックリした顔を見せた。
「引っ越しちゃうのぉ? もったいない」
「あんたね。他人事だと思って……」
「だって、捕まえてどこかに発表すれば有名人になれるかもよ? 動いている様子を動画撮影とかしてさ」
「もうしているわよ」
実は既に水が動いて、勝手にコップに入っている様子を撮影してはいるのだ。天井から垂れて来たり、床を這ったりして、あいつらはコップに入る。色々な意味で飲みたくない。
「でも、誰も信頼してくれないのよ。AIで生成した動画だと思われているみたい。進歩した今の時代が憎いわ。しかも、検査しても何も見つからないみたいだし、捕まえておくと簡単に死んで動かなくなるみたいだし、変人とか詐欺師とか思われるし。だから、嫌になって発表するのは諦めたのよ」
「はー、なるほどねぇ。ままならないもんね」
「この家に住んだ人って直ぐに引っ越しちゃうみたいなのだけどさ。納得したわよ。誰でも逃げ出すわ」
友人はそれまでは私の話に納得をしてくれていたようだった。だが、それを聞くと突然にこんな疑問府を伴った声を上げるのだった。
「ちょっと待って。それって何か変じゃない?」
「何がよ?」とそれに私。
「だって、家主さんは誰からも苦情を言われなかったのでしょう? この家を借りた人達が水に気付いていたのなら絶対に苦情を言うわ。それに忠告メモの件も変。もし、忠告するつもりならもっと詳しく書くのじゃない?」
「それは、そうかもだけど……」
それから友人は何かを考え込み始めた。そして、
「ねぇ、寄生虫が宿主を操るって話を知っている? 異様に猫好きの人間は、トキソプラズマって寄生虫に操られているって説があるのだけど」
などと不穏な事を言った。
「知らないけど……」
彼女が何を言いたのかは直ぐに分かった。“水のようなもの”は寄生生物ではないかと彼女は考えているのだろう。
「もしかしたら、ここの以前の住人達は“水のようなもの”を気付かないで飲んでしまったのじゃない? そして、操られて直ぐに引っ越していってしまった。忠告メモを残した人は、或いは半分乗っ取られかけていたのかもしれない。それであんな中途半端な忠告しか書けなかった」
私は友人のその不吉な想像に何も返せなかった。
否定するだけの根拠は思い付かない。
ゆっくりと絞り出すように私は訊いた。
「その想像の通りだったとして、どうして直ぐに引っ越しちゃうのよ?」
「そんなの簡単よ」
と、彼女は言った。
「――寄生虫は、繁殖の為に宿主を操るのよ?」
私は彼女の言葉を聞いて、背筋に冷たいものが走るのを感じた。彼女の予想通りならば、“水のようなもの”は、今も人間社会の様々な場所で繁殖をし続けていて、新たに人間を乗っ取っているという事になるのだから。
……あなたの飲んでいるその水は、果たして本当にただの水なのだろうか?