遺書
中学3年生の夏に自殺に失敗した私は、スマートフォンのメモ帳に『猫が死んだら俺も死ぬ』と書き残した。それからの日々はあやふやに流れていって、気づいたら私も高校生になっていて、スマートフォンに時々現れるそのメモが何だか恥ずかしくなって高校一年生の冬には消してしまったが、それからの日々、辛くなるたびに思い出す。
気づいたら私は大学生になっていた。あの夏からの3年間は充実しているとは言えないまでも、何不自由なかった。
大学生になって私はごく一般的なキャンパスライフを楽しめていたと思う。友人もそれなりいたし、女性とデートを楽しむ余裕もあった。それが1年生の年明けになって一変した。
ただ眠れないだけだった。ちょうど2023年の1月1日である。もともと寝つきの悪い方だったし、そんなことはよくある事だったのに、胸が騒いで仕方なかった。クリスマスデートに失敗したからかもしれないし、遅めのホームシックに襲われからなのかもしれない。母親に対する煩わしさは今でも消えないが、実家には猫がいる。ハチワレ模様のソラと靴下柄のリュウ、サビ柄のルナ。ソラは保健所から引き取って、リュウはブリーダーから譲り受け、ルナは路上で痩せ細っていたのを私が見つけたのであった。
不眠のままに私は彼らのことを思った。胸が締め付けられるような心地がした。彼らがうちにきたのは10年ほど前のことである。猫の10歳は高齢だろう。彼らの命は永遠ではない。
それから急かされるように私は自らの半生を書き殴った。中学生の章を書き終えて、ようやく心拍が落ち着いた。日はすでに見上げるほど高いところにいた。
その日以降、私は文章と共に過ごした。興味のあった小説を読み漁ったり、あるいは自分の心情を書き殴ったりして、不思議な高揚感に身を委ねていた。ほとんど必ずと言っていいほど、文章に頼る直前の私は焦燥に駆られていた。
2023年の夏、大学に入ってから初めての恋人ができた。そうして私は精神的な後ろ盾を得て、文章に頼ることは少なくなっていった。それから約半年後、恋人との半同棲生活が始まった。
恋人の存在は私にいくばくかの安定をもたらしたが、ひとりの時間が減ることは大変なストレスである。ひとりになれぬことは孤独以上の苦痛である。ドストエフスキーもそんなようなことを言っていた気がする。恋人との時間は幸福であったが、時たまひとりになったときにドッと疲れが表面化するような感覚は、まさしくその代償であったのだろう。私は、それから逃げるように酒やタバコに頼っていった。ギャンブルに没頭するようになったのも、頭を空にしたいという願いのあらわれだったのかもしれない。
精神的な不安が減るにつれ、金銭的に困窮していった。それでも生きてさえいれば、などと言えればいいのだが、そんなことを本心から言える人間は易々と病んだりはしない。
私は酒を飲みながら、ふと実家の猫たちを思い出すことがある。それから中学時代のことを考え、いまの暮らしを俯瞰する。自然界の全てはエネルギーの低いところに移ろうとする。木の実が木から落ちるように、私は楽な方へと逃げ続けてきた。
初めて書いた遺書は、遺書と呼べるものではなかった。姉の遺書は私への謝罪などが書き連ねられていたそうだが、私のものは自分の半生を語るだけである。あるいは遺書の存在意義を証明するように。
文章に頼るようになったのは中学生のあの日からなのかもしれない。『猫が死んだら俺も死ぬ』というメモはそんな気質を持った私の生きる意味であり、それをやめる意味になるのだろう。
どれだけ生きるのをやめたい理由が増えても、それらを遥か上回るほどの言葉が私の心中にある。半年ぶりにこんな駄文をつらつらと打ち込んでいるのは、猫たちの顔を早く見たいから。