残された心
轟音と共に、トロルの拳がエルリックの立っていた場所を打ち砕く。しかし次の瞬間、青い光が閃いた。
エルリックは間一髪で身をかわし、トロルの腕を駆け上がっていた。その動きは人間離れしており、まるで風のようだ。
「あれは...」ティムが目を見開く。「エルリックさんの剣が、トロルの魔力を吸収している」
ガルディムが静かに頷く。「秘薬の効果だ。魂を失った代わりに、あらゆる魔力を取り込める器となった」
「でも、それは人として...」
カトリーヌの言葉を遮るように、エルリックの剣が青白い光を放った。トロルの魔力を吸収した剣が、凄まじい一撃となって怪物の首筋を貫く。
巨体が崩れ落ちる音が、雪降る夜空に響き渡った。
反乱軍の兵士たちは、恐怖に満ちた表情でエルリックを見つめている。彼らの前に立つのは、もはや人間ではない。魂を失った戦士、完璧な殺戮の機械。
「撤退...撤退だ!」
敵兵たちが逃げ出す中、エルリックはゆっくりと塔の方を振り向いた。その銀色の瞳に、カトリーヌの姿が映る。
「エルリック!」
カトリーヌは塔を駆け下り、雪の積もる中庭へと走り出た。ガルディムが制止の声を上げる。
「危険です!彼はもう...」
しかし、カトリーヌは止まらなかった。エルリックの前まで走り寄り、その胸に飛び込んだ。
「よかった...よかった...」
涙で濡れた頬を、エルリックの胸当てに押し付ける。しかし、彼の体は冷たく、心臓の鼓動さえ感じられない。
「私は...任務を完遂しました」
機械的な声で告げるエルリック。その腕は、カトリーヌを抱き締め返すことはなかった。
「違うわ...あなたは約束したでしょう?私の前に戻ってくるって」
首に掛けられた青い宝石が、かすかに明滅する。エルリックの瞳が一瞬、揺らいだような気がした。
「カト...リーヌ...」
その時、遠くから角笛の音が響いてきた。ガルディムが叫ぶ。
「敵の増援です。この場を離れねば」
エルリックは無言でカトリーヌを抱き上げ、塔の中へと運んだ。その仕草は、かつての優しさの名残のようでもあり、また純粋に効率的な行動のようでもあった。
「師匠」ティムが声を潜める。「エルリックさんの中に、まだ何かが残っているのでは?」
「気付いたか」ガルディムは青い宝石を見つめながら答えた。「あの宝石には、先代の女王の加護が宿っている。それが、彼の失われた魂の欠片を...繋ぎ止めているのかもしれん」
カトリーヌは決意に満ちた表情を浮かべる。
「エルリックの心は、必ず取り戻せる。母様の宝石が教えてくれているわ」
彼女の言葉に、エルリックの銀色の瞳がわずかに震えた。それは感情の残滓か、それとも単なる光の乱反射か。
雪は二人の間に静かに降り続け、やがて夜明けの気配が空を染め始めていた。戦いは終わったが、本当の試練はここから始まろうとしていた。