表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【未完】ペドロフ・チイチャイコスキーは改名したい  作者: 弓原
第1話:ペドロフ・チイチャイコスキーとひみつのようじょ
16/30

【閑話】いつかの夜に

■ いつかの夜に ■


「この人、痴漢です」

 あの日から、その男の人生は一変した。


 男の手を掴み、そう主張していたのはまだ小学生の女の子であった。

 美しく、愛らしく、そして年齢に不似合いな表現ではあるが、蠱惑的ですらあるその少女の主張は車内に即座に浸透し、否定する男の言葉に耳を傾けるものはだれ一人としていなかった。

 男は女たちの侮蔑の言葉と物見高い連中の操るカメラのシャッター音を浴びながら、正義感溢れる者たちによって即座に取り押さえられた。

 男は一貫して無罪を主張し続けたが、それが認められることはなかった。

 そして罪を認めない悪質な性犯罪者に対する裁判所や世間の風当たりは強く、有罪が確定し、執行猶予も認められずに収監された。


 男には亡き妻との間に一人の娘がいた。

 しかし、いつの間にか男は娘への性的虐待を行っていたことになり、親権を失い、娘は妻の両親に引き取られていった。


 男には親がいなかったが、親族はいた。

 取り押さえられた際に撮られた動画と共に本名が晒され世間にその情報が広がった。

 その際、男の苗字が男の親族しか使っていない絶滅危惧苗字であったことが災いし、その苗字はロリコン、小児性愛者(ペドフィル)小児性犯罪者(チャイルドマレスター)の代名詞としてネットミームと化した。

 男の絶滅危惧苗字は世間に忌避される忌み語となってしまい、親族たちは怒り狂い、男を執拗に責め立て、絶縁した。


 数か月の収監の後、自由の身となった男には何も残されていなかった。

 男の苗字=小児性愛者というレッテルは巷間に広く浸透し、職を得ようとしても、自己紹介すると露骨に顔をしかめられた。

 辛うじて職を得ても珍しい苗字から直ぐに身元が特定され、会社には抗議の電話が鳴り響いた。

 元犯罪者を支援する行政やNPOなども、幼い子供を対象とした性犯罪者に対し、真摯になってはくれなかった。

 それが冤罪であろうがなかろうが男に貼られた子供を対象とした性犯罪者のレッテルを、世間は忘れようとしなかった。

 いや、むしろ忘れないことこそが正しいことだと誰もが信じていた。


--忘れてくれ


 男は名を隠し、ホームレスとなり、方々を彷徨い歩いた。

 何度も死を選ぼうとしたが、亡き妻の明るい笑顔と、娘の屈託のない笑顔の記憶がそれを踏みとどまらせた。それだけが絶望にまみれた男を支えた唯一のものであった。

 しかし、時と共に妻娘の記憶が少しづつ薄れていった。


--忘れたくない


 長い時間が過ぎた。


      *     *     *


 自分を痴漢だと告発した少女はその後、芸能界デビューを果たしていた。その少女の持ちネタの一つに「この人、痴漢です!」というものがあった。


 ある日、男は捨てられた週刊誌である事実を知った。

 その記事には、まだ未成年の少女が飲酒や喫煙をしていたことを暴露するスキャンダル記事であった。

 そして、彼女の友人たちは証言する。


「この人、痴漢です! ってあれ。適当に吹っ掛けて、気の弱そうなおっさんから金を脅し取るアイツのいつもの手。牢屋いっちゃった人もいるけど、あれ全部、アイツのウソだから」


 ネットミームと化した男のこともその記事では触れられていた。

 男は怒りで気が狂いそうになり、少女を殺すことすら考えたが、ある記憶がそれを思いとどまらせた。

 それは妻と娘の笑顔の記憶。

 忘却の彼方に消えそうなそれを必死につなぎ止めた、幸せだったころの記憶が、やはり男を踏みとどまらせた。


「会いに行こう」


 男は、記憶を頼りに妻の両親が住む町を目指し、義実家に向かった。そしてその近く、往来の激しい橋の上で、亡き妻の面影のある少女と邂逅した。


      *     *     *


 その少女は追い詰められていた。


 幼いころに大好きな父親と引き離され、馴染みのない祖父母に引き取られて育った少女。

 祖父母は初め、娘に似た孫娘を溺愛したが、それも長くは続かなかった。


 快活で明るい娘に比べて、父親を恋しがりいつまでも懐かない孫娘がだんだん疎ましくなっていったのだ。

 やがて自分たちの愛する亡き娘と、娘を奪った男の血を引き、またその父親に穢されたキズモノを同列に扱うことは、娘を汚す行為だと考えるようになっていった。

 少女は世間様に出してはいけない穢れとして祖父母に扱われるようになっていった。


 分別の判る歳になった少女は、父親の事件を知り、取り押さえられる父親の姿を動画投稿サイトで見て、記憶の中の姿と巷間に広がるイメージとの差に苦しみ続けた。

 狭い町で、少女とその父親のことを知らぬ者はいなかった。祖父母がそのことを殊更に吹聴して回り、そんな可哀そうな穢れた娘を引き取って育ててやっている自分たちを喧伝し、犯罪者の血を引く娘をこき下ろした。

 学校でも腫れもの扱いの少女は、やがて学校に行かなくなり、祖父母からの扱いもそれ相応に悪くなっていった。

 父親が冤罪かもしれないと分かってからも、周囲は何も変わらなかった。変える必要性を誰も感じていなかった。


 そんな、どこにも居場所のない少女は町を彷徨い歩き、大きな橋の欄干から黄昏色に染まる世界を見つめていた。

 河に飛び込むのと、車道に身を躍らせるのと、どちらが確実に死ねるか。そんなことを考えていた折、名を呼ばれた。

 おい、とか、あれ、とか、これ、とか呼ばれるばかりで、もう何年も、少女の名を呼ぶものがいなかったため、始めそれが自分の名とは思えなかった。


「***」


 その声に顔を上げるが、黄昏時の薄闇は誰彼(たれかれ)時の名の通り判然としなかった。しかしその声音は深い記憶と一致し、誰とも彼とも知れぬ髭に覆われた薄汚いホームレスが誰であるかを、少女は一瞬で理解した。


      *     *     *


「***」


 亡き妻の面影のある少女は男を認め、驚愕の表情を浮かべた。

 それは忘却の彼方に消えつつあった亡き妻の明るい笑顔や娘の屈託のない笑顔の記憶を呼び起こし、男の胸に深い感動を呼び起こした。

 しかし、その喜びは一瞬で消え去った。


「おまえのせいで!」


 鬼女の如き憤怒の表情と、憎悪の籠った声が男に浴びせられ、突進してきた娘ともみ合いになり、二人揃って車道に転がり落ちた。

 激しいクラクションが鳴らされ迫る大型トラック。男はとっさに娘を歩道に向けて突き飛ばし、その反動で車道に倒れた。


「あっ」


 思う間もなく、大型トラックのタイヤが男に乗り上げ、駆動シャフトに巻き込まれ、狂暴なエンジンの力に男の身体は無茶苦茶に引き千切られた。

 男は死んだ。確実に死んだ。

 しかし、首だけになって飛び、消えゆく意識の中、男の目が少女を認めた。


 無事でよかった。


 心からそう思った。しかし少女の視線に心が凍り付いた。

 身を挺して自分を助け、今まさに死にゆく父親を向ける娘の視線は、まるで虫でも見るような冷めたものであった。

 男を支え続けたのは亡き妻や幼いころの娘の記憶。

 その幸福の記憶は娘から向けられる憤怒と憎悪、そして死にゆく父への侮蔑の視線によって上書きされ、幸福な記憶は忘却の彼方への消失していった。


 その瞬間、男の中で何かが壊れた。


 黄昏時。またの名を逢魔が時の空を背景に目に焼き付くのは、歪に歪んだ亡き妻の面影を残す愛する娘の姿。それが死にゆく男の見た最期の記憶であった。


--忘れたくない

--忘れたい


 相反する願いを胸に抱きながら、男は死んだ。


      *     *     *


「そんな感じでこっちの世界に転生して、いろいろあって今に至る、という訳だ」

「うーがー、こんな美人で可愛くて、おっぱい大きくて、チョーいけてるあたしとの寝物語で、なんつー救いのない話してくれてんのよ」

 きれいな長髪をフリフリと振りながら、女が激しく抗議する。合わせて大きな胸も揺れて、なかなかいい眺めだ。

「お前が前世のことを聞いてきたからだろう」

 口髭と顎髭に覆われた男が微苦笑を浮かべる。

「そりゃそうだけどさぁ」

 女はしばし突っ伏した後、おもむろに男の熱い胸板にそっと手を当てた。

「……ごめんね。辛いこと思い出させて」

 男は女の肩に手をまわし、柔らかい身体を抱き寄せながら、違うんだ、と女の心配を否定する。

「……………………」

()で幸せだった時の記憶……愛しい妻や娘の姿は何も思い出せない。その反面、死の間際に見た娘の表情は、今もはっきりと憶えている。あれから長い時間が経っているのに全く色あせる様子もない。どちらも俺の()()のせいだろう」

「だったら!」

 憤りを湛えた女の言葉に、それでも違うんだ、と優しく抱きしめ続ける男。

「妻と過ごし、娘と過ごした普通の幸せだったはずの時のことは憶えているんだ。だけど、当時の気持ちがまったく思い出せない。エピソードは憶えているけど、その時幸せだったという気持ちが全く思い出せない。憶えていないんだ。だから失ったという喪失感もない。知識とし知っているけど、実感がない。他人の不幸を聞いて痛ましいと思う程度の心の痛みはあるが、それだけだ。自分の不幸という実感がない。だから……辛くない。お前が気に病むことなど何もない。………………なぜ泣く?」

 男の胸に顔を押し付けながら、女は泣いていた。

「……可哀想だから。自分の不幸を悲しむこともできないアンタが可哀想だから」

「今の俺は不幸ではないし、悲しくもない。思い出せないのだから、無いのと一緒、」

 男の口を女の口が塞ぐ。

「だったら、忘れて消されちゃった過去のアンタの代わりにあたしが泣いて、慰めてやる」

「……俺と同じベッドに居ながら別の男(前世の自分)の話をするな」

「ふふふ」

 女は男にもう一度口づけした。




■ 次回予告 ■


 前人未到の灼熱の荒野を旅するフィル一行は死にかけた一人の少女を拾う。家族同然の仲間に裏切られた身寄りのない少女は、看病してくれたフィルの父性に惹かれていく。

 しかし、少女の仲間は少女を諦めたわけではなかった。なぜ彼らは裏切ったのか。そして少女に科せられた過酷な運命とは?

 ペドロフ・チイチャイコスキーは改名したい、第2話『ペドロフ・チイチャイコスキーとしょうごうのしょうじょ』。

 君は性癖に抗うことができるか?


 なお、内容は予告なく変更となる場合がありますのでご了承ください。


 次回予告は嘘です。

 本話でこのお話はおしまい(最終回)です。

 もしかしたら続くかもしれませんし、続かないかもしれません。その辺はなりゆきで。

 ではでは~


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ