6.逃避
※イザーク視点、続きます
冷え切った空気の中、濃い瘴気が立ち込める森の奥深くを走り抜ける。
己が身に身体強化魔法をかけ、崖の岩肌を使い高く跳躍する。
目指すは空を飛ぶ魔物ワイバーン。
火の精霊の加護を与えた愛刀を振るい、魔物を一閃の元、屠る。
倒した魔物の死体は、その場で解体。即座にマジックバックにしまう。これに時間をかけると、死体の血の匂いが他の魔物を呼び寄せてしまう。
――血の匂い。
脳裏にすぐさま蘇るのは、シーツに赤い血が広がっている光景。
その赤い血の上に横たわった自分の嫁。
白い顔。
血塗れの下半身。
こんなに出血したら人は死ぬ。そうとしか思えない衝撃的な図だった。
血など見飽きていると思っていた。
魔物と戦い無傷でいられる人間は稀だ。
未熟な人間は奴らの圧倒的な力の前に平伏す。鍛えていても、何かの間違いで怪我を負う場合もある。前辺境伯、俺の父親がそれだ。魔物との戦闘で片腕と片足を失った。そんな人間はゴロゴロいる。弱い人間、油断した人間、運の悪い人間、どんどん淘汰されていく。
そんな日常で、人の血を見るなんて、なんとも思っていなかったのに。
――彼女は、アリスだけは違った。シーツに広がっていく赤い血の上に横たわった彼女を見た瞬間、心が抉れたと思った。俺は治癒魔法を使えない。今の俺は役立たずだ。どうすれば、いい? どうしたら、いい?
脳裏を過ったのは、信頼の置ける、治癒魔法の使い手――、
『イザーク? そなた、いつまで魔の森にいるつもりだ?』
鬱々とした俺に話しかけたのは、燃えるような赤い髪をした精霊。我がフィーニス家代々の当主と契約し、加護を与えてくれる火の精霊だ。契約を交わした人間の姿かたちに近い形態をとる為、今は俺によく似ている。
『“フィーニスの当主は魔の森に住む”と人の子に揶揄されているらしいが』
誰のせいだ。誰の。
『大掛かりな討伐の後始末は先月済んだであろう? 単独で深部に乗り込むとは……嫁が来たと聞いたのは2週間も前だったが……そなた、嫁を放置したままここで燻っていて、よいのか?』
己によく似た男の顔をした精霊がにやにやと訊いてくる。業腹だ。
「フレイには関係ない」
合わせる顔が無いなんて、例えフレイにでも言えない。
父上が当主だった時には『フレイヤ』と呼んでいたらしいが、俺はその名を引き継がなかった。
『そうかぁ? ……しかし、そなたの嫁御は小さいのぉ。そなたの肩までもない。あんなに小さくてそなたの子を産めるのか?』
「……フレイには関係ない」
火の精霊であるフレイは、火がある状況の場を見聞きする事が可能だ。恐らく、今、アリスは火の前にいるのだろう。火を通してアリスを視ているのだ。部屋のランプの灯か、暖炉にくべられた火なのか、それはフレイに聞かねば判らんが。
『そうか? 寂しそうに火を見ているぞ? ……あぁ、そなたの母が一緒にいるな。そなたの父も……うむ、二人とも元気そうだな』
父母と同席しているのなら、本家邸宅のサロンだろうか。盗み見をしているようで悪趣味だとは思うが、アリスの様子を教えてくれるのは有り難かった。特に、起きて笑っていると聞いた時の安堵感は……。
……寂しそう、か。俺がいなくて寂しい……というわけではないだろう。物に溢れる賑やかな王都から、何もないこの辺境の地に来たのだ。寂しさにも慣れて貰わなければ。
『そなたの父が自分の嫁だと言ってそなたの母を我に紹介してくれた日が懐かしいのぅ。すぐにパルフェの胎にそなたは宿った。……そなた、嫁を我に紹介してはくれないのか? 薄情な奴だ。奥手だし、前任者とえらい違いだ』
煩い。余計なお世話だ。
『夫人が“女の子がいると華やかになって良い”と上機嫌だ。ふむ。家族団欒の場、というわけだな。5人で笑い合っておる』
え?
「5人? アリスと、父上と母上の他に?」
『そなたの2人の弟もおるぞ。家族なのだろう? 当然ではないか』
聞いた瞬間、本家邸宅へ向け地を蹴って駆け出していた。あいつら! 俺は近づくなと命じたはずなのに!
『お? 戻るのか? そなたの足でも2日はかかるだろうに、走るつもりか?』
答えている暇はない。
『即刻戻りたいのなら、我の手を取ればよかろう。そなた、何年我と契約している? 我を有効活用しても怒らぬぞ?』
火の精霊の持つ特殊能力の一つ。火の有る場所へ瞬間移動が出来る。
だが、あれを使うと煤だらけになるから母上に怒られる事必至だ。
しかし、背に腹は代えられぬ。今は時間が惜しい。
「フレイ!」
手を伸ばせば
『承知』
俺と同じ顔がにやりと笑った。