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幸せのエリート




 私は現在、大きいとは言えないながらも、会社の経営に勤しむ身だ。



 父のおかげで、私が育ったのはまさに絵に描いたような裕福な家庭といえた。 私は大学まで進学させてもらえ、子供の頃から興味を引かれてやまなかった中国の歴史・文化の研究に没頭する事ができた。 嫌味を承知で言ってしまえば、私はその後も、大学院以後の研究者としての人生、企業への就職、あるいは自ら事業を起こすこと、どれを選ぶこともできる立場にあった。


 結局は大学の卒業後すぐ、資本のほとんどを父から借りる形で、中国を中心としたアジアン雑貨の輸入販売を行う会社を設立した。 しかも経営のノウハウ習得や安定した取引先の確保にあたって、またしても広い人脈を持つ父に頼った。


 本来は決して割の良い業種ではなかったものの、それでも10年ほど前に全米を席巻したアジアブームに便乗し、我々もかなりの恩恵を受けることができた。 その際に父からの借金も完済を果たしたし、会社自体もローリスクな経営方針で十分にやっていける基礎体力がついていた。

 運に助けられたか、それともまさか私の秀でた特長によったのか…… 会社経営にまつわるあらゆる苦労は当然経験したとして、それに対する十分な見返りを得られたことで、私は一応の『成功』は掴めた気でいた。




 本当にわずかな差だった。 あとほんの少し早く彼の最期の言葉に触れていたなら――私も同じく、色々な幸せのかたちの存在に共感し、またそれを求めようとする人生を選んでいたことだろう。


 父の死が、1ヶ月前――私が経営の拡大に踏み切るよりも前のことであったなら。



 すでに増資のための資金や目ぼしい人材を方々からかき集めている。 社員一同も凄まじい士気の高まりを見せてくれている。 何より社長の私自身が「10年以内に年商2500万ドルの突破を目指す!」と、具体的な目標までぶち上げた後である。 これはすでに、とても白紙に戻せる状況ではない。



 取引相手にお世辞を言われ、社員の皆にも慕われ、私は確かに自らの商才を高く評価してもらえたことで、いい気になっていたのだと思う。 もっとのし上がってみたい、自分がどこまでやれるのかを試してみたい、と。


 あるいは内心では『父を越えられるくらいの』成功を収めてやりたい、などという対抗意識のようなものもあったかもしれない。 しかし、思えばそう考えていた時点で勝負にすらなっていなかった。


 近いうちに、400万ドルを超える借入金の返済と200人規模の従業員とその家族の生活の保障のために、私はトップとして全力を尽くして生きて行かねばならなくなる。 もう引き返せない。 今更『ある人の遺言に感化されて……』などといって個人的なわがままで投げ出そうとすれば一体どれほどの混乱を生むのか、考えただけで恐ろしい。


 思い返せば、史上最強の三冠馬とも言われたセクレタリアトは、勝つことが全ての、成功と幸福な余生とが直結する競馬の世界に生まれたからこそ、幸せになったのだと思う。 たった一つの必要十分たる才能に恵まれていた時点で、競走馬としてのみならず、まさに『幸せのエリート』にふさわしい馬生が約束されていたわけだ。

 自分の現状をいかにも中途半端と思える私にとって、今ではそれが非常に羨ましく感じられる。



「ふう……」

 私はおもむろに冊子を閉じて立ち上がると、冊子も空き瓶も電灯もそのままに、ヨロヨロとした足取りで寝室へと向かった。


 私は明日、昼から飛行機でカリフォルニアへ飛び、すぐに商談と会食を合わせて4件こなすことになっている。 その翌日に一旦父の葬儀のために帰り、そのあとまた現地で仕事に戻る。 それからは少なくともあと3日、この家には戻れないだろうし、あと半年、休日らしい休日を過ごすことはできまい。 1ヶ月前、こんな当面の多忙をきわめる暮らしと引き換えにして、私は社会的な成功を欲したのだ。

 これは父が言うところの、経済的・社会的幸福のために思想的幸福(自由)が犠牲になったケースなんだろう。


 月の光に照らされていっそう目立った寝室のベッドに、吸い込まれるように倒れこんだ。 いつもは大して気にならなかった体の疲れが、今夜は激しく全身で感じられた。



 手記の中で父は自分のことを愚かだと語った。 だがとある幸福を追い求めている最中に、異なる幸福のあり方そのものを思い直すことができる人間は、そう多くはいないはずだ。 私もこれまで、その点を一瞬も疑うことがなかったのだから。


 父親は、私の知る限りにおいて、最も人生の幸福を極めたと思えた人間だった。



 最後に『もう少し早く教えてくれよ』などとちょっとした文句を心の中でたれながら、ベッドの上で仰向けになった。

 そして、敬愛する父親の冥福を祈りながら、ゆっくりと目を閉じた。




 ふと目覚めればそこはおそらく夢の中で――近くにいたのは、だいぶ若返った姿の父と、軽やかな足運びで走り回るセクレタリアトだった。


 彼らはエリートになり損ねた私を笑いこそしないが、その場に居ること自体がとても恥ずかしく思われた。







Secretariat-幸せのエリート-



THE END




 

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