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成功者は語る




――だんだんと歓声や蹄の音が小さくなり、私はまた静かな夜へと戻ってきた。 今この目に映るのも馬鹿でかいダートコースではなく、ここ数年すっかり見慣れた木目のテーブルだ。

 いつの間にか、ウイスキーの瓶もすっかり空っぽになった。 おっと、だいぶ頭も朦朧としてきている。



 しかし、そもそもなぜ私はこんな事を思い返していたんだろうか。 とても大事なことだったような気もするが……


 ああ、そうか、そうだった。 今までグラス片手に読んでいた『これ』のせいだったな。


 椅子にどっかりと腰を落としてうなだれる私が左手に持つ冊子。 それは父が3ヶ月前から昨日まで、毎日欠かさずつけていたという手記である。



 その父は、今朝逝った。


 ニューヨーク市内の病院、そばで私たち家族が看取る中でのことだった。 死因が食道がんであったにしては、比較的安らかな最期を迎えたと言えるだろうか。 享年68であった。


 そして夜になった頃、葬儀の段取りや、父と深い間柄だった人物への報告などの後始末がようやく一段落した。 解放された私はクイーンズの自宅にて、たった一人で心おきなく父との思い出に浸っていたというわけだ。



 一年前、父が最初にがんに冒されたのは膵臓だった。 これは手術で一部を取り除くことで難なく治癒した。 二度目は胃に転移したもので、これも手術と壮絶な内科治療に耐えた結果、辛くも克服した。 だが3ヶ月前、立て続けに三度目のがんを食道に発見した時、もはや完治目的の治療が行える体力はないとの診断が突きつけられた。 いわば三度目の勝負を強制的に棄権させられたようなもの――セクレタリアトの軌跡とは、惜しいところで一致しなかった。



 安らかな最期のための終末期医療ターミナル・ケアを受けながら、父は亡くなるまでの3ヶ月間、とにかく言い残したことがないようにと、私たちがいないところで夢中でペンを走らせていたようだ。

 死期の近い境遇におかれた父が遺した言葉はそのどれもが少なからず私の胸を叩いたが、そのうちのある日の言葉は、さらに群を抜いて痛烈な重みを携えていた。 その日の文面は、どちらかというと筆不精だったはずの父がずいぶんと長く書き連ねた、私が敬意を表する『成功者』その人による、主観的な思いの丈だった。 私は先程から何度も、とりつかれたように無意識にその部分を読み返してしまっている。




‐俺の人生は、たぶん幸福だ。


 ただ、今日この時、『なぜ幸福だったか』を改めて考えてみて、まっさきに連想したことがある。

 それは忘れもしない1973年のベルモントステークス、俺の人生が大いに変えられた日の出来事だ。



 どういういきさつだったかはもう忘れちまったが、ギャロップを一緒にベルモントパークまで連れていったことが運命の分かれ目だったな。 

 目当てのベルモントステークスをギャロップとターフ内で観戦したが、もちろんレース自体も凄まじい興奮をおぼえる印象的なものだった。 あの時セクレタリアトが圧勝した姿は、ひょっとしたら死んでも忘れてないんじゃないかってくらい鮮烈に覚えている。

 しかしそれ以上に、俺の意識を根底から変えるきっかけとなったのが、ギャロップがそのレースの最中にポツリと呟いた言葉だった。 これを福音か何かだと言っては大げさだろうが。


 圧倒的な独走でゴール前を通過しようとするセクレタリアトに対し、ギャロップは小さく、だが確かにこう言った。


『でも、あのお馬さん…… ひとりぼっちで走ってて、なんだかかわいそうだよ』とな。


 大きく一頭遅れた馬に言うならまだわかるが、大勝ちしている馬に対して言った、それが忘れられない。 勝負の世界に浸りすぎた私みたいな人間には、なかなかこたえちまったんだ。


 最初はギャロップにこういう内容を説明してやろうと思っていた。

『なぜなら競走馬というのは走るために生まれてきたんだ。 だからあんな風にひとりぼっちになるくらい強いほうが、みんなが褒めてくれて幸せになれるんだよ』と。

 これは俺自身が何十年もかけて学んだ事実だ。 これは確かなことだ。 競走能力の優れていることこそが、自身に『幸せな馬生』を呼び込む要素の大部分だ。


 だが、それをいざ言葉にしようとした瞬間、ギャロップの言ったことを笑ってたしなめることができなくなった。 馬はともかく、ふと人間に、さらには私自身に置き換えて考えてみると「それは恐ろしく核心をついた一言なんじゃないのか?」 そう思ったからだ。



 急に、愚かしく感じられたよ。 馬生と人生とを一緒くたに考えながらわが子を育てようとしていたという事がな。


 馬生に考えられる『幸福のかたち』と、人間におけるそれとが全然異なるということを、あの時まではまったく理解していなかったんだ。


 息子の一言でようやく気づかされたために、思わず黙り込んでしまったよ。



 そもそも俺が競馬というものに魅せられたのも、ひょっとするとそこに――馬自身の実力次第で幸せを勝ち取れる環境に憧れたのが原因の一つだったんじゃないかと今は思う。 実績が幸せな余生に直結する単純明快な成果主義、それが自分にとって羨ましく見えていたのかもしれない。


 そこへあの日、息子からとてつもなく重大な疑問を突きつけられた思いがした。

『成功することが、幸福となる』 馬の世界ではあてはまるが、同じことが人間にも言えたか? と。 


 学のない俺だが、こればかりは断言できる。 間違いなく“No”だ。


 人間の幸せに対する価値観、そのまま欲望と言い換えられるものは、もはや自分達でさえ手に負えないほどに複雑になっている。

 金がたくさんあれば幸せ。 家族と笑いあっていられれば幸せ。 困っている人々を救えば幸せ。 何者によるしがらみからも解放されてひっそりと暮らせれば幸せ……

 幸せのかたちといっても、その種類の数はとても把握できる量ではあるまいし、しかも何かの分野において優秀であれば掴めるものとも限らんだろう。 ほとんどは運否天賦によるだろう。 それどころか時には、優秀な者ほど不利を(こうむ)ることも珍しくはあるまい。


 100mを9秒で走れる人間がいたとして、なるほど確かにそいつはあらゆる大レースで、他の選手達が過酷をきわめるトレーニングを積み重ねて得た成果をものともせず叩き潰し、楽勝することができるだろう。 が、それによって多額の賞金と称賛を得るであろうそいつは、果たしてただ一人飛び抜けた能力を持つ境遇をどう思うのだろうか?


 野心にまかせ、ただ成功を掴みたい一心で盲目的に行動しているうちは良い。 だがひとたび成功を掴んだ後では、そいつの心は大いに虚しかろう。 昔はどうだったかわからないが、もし今の俺だったら、まっぴらごめんだな、そんな人生は。 申し訳なさに似た、言うなればネガティブな使命感にやはり悩まされる気がしてならないからな。 これは世にはびこる、人類がみな平等であるべきとの思想による。 まるで、ある能力に秀でれば別のところでは劣っているか恵まれずにいて、その合計は常に一定の値に近くあるべきだと暗に主張するような。 よって、優れた特長をもつ者は、見合うだけの不幸な生い立ち、または苦労や挫折があって初めて周りから成功を掴むことを許可されるような風潮がまかり通っていると感じる。 これを破れば、当然のように妬みや非難が向けられる。


 俺が成功者、まして有能であったなどとはなんとも言いにくいが、破産や精神病に陥る同業者も多い馬の世界でまずまずの稼ぎを得られたこと、それでいて多くの気の合う友人にも恵まれていたことを考えると、平等性のバランスは私の少年時代に課されたハンデで調整されたこととして、周りに経済的成功を許可されていたからかもしれない。


 それはそれで、ますます危ないところだった。 実は成功した後こそ油断ならなかったようだからな。 人生というものは、幸せを求め続けると、そこには何らかの犠牲がつきものとなる。 金のために人望を失ったり、愛する者のために時間を削ったり…… それも、犠牲を払う時までその重大さがどれほどのものかはっきりしないから、大変タチが悪い。

 俺がそのままトラックマンとしてやれるだけやる幸福を追い続けていたなら、いずれ別の部分で大きな代償を払うことになっていただろう。 それが何になるはずだったかを考えるのに、今更興味はないが。



 その点俺は本当にラッキーだった。 あのベルモントステークスの日、経済的・社会的成功と引き換えの、何らかの犠牲が確定する前に目を覚まし、人生の方向転換を行うことができたのだから。 まぐれには違いないが、あそこで身を引くのがまさに理想的な勝ち逃げだと思った。


 若いうちにがむしゃらに働き、まず経済的・社会的に満足した。 そしてベルモントステークスでの息子の一言をきっかけに、もっと広い視野での幸福を意識するようになった。 家族と過ごす時間やボランティア活動などにも果てしない興味が湧いた。 本当に満足できる人生を送ってきた。

 極めつけに、心から愛した馬と、そしてパメラとギャロップと生涯を通して関わっていられたこと。 今考えると、本能的な満足をも得ていたかな。


 よって、およそメジャーな幸福は全て手に入れたつもりで旅立とうとしているこの俺は、本当に幸福なやつだ。




 ただそのかわりにパメラやギャロップには、俺の勝手な持論に付き合わせて随分と振り回してしまい、手痛い貧乏くじを引かせる形となってしまったがな。 あまりに遅いが、この場を借りて謝らねばならんだろう。 すまなかった。



 主よ、これからの彼らが過ごすのが、こんな俺などと暮らしたハンデに十分見合うだけの幸福に満ちた未来であらんことを求めます。 彼らがそう思うだけのものでも構わないので。



 俺自身も天国から(まさか地獄行きにはならんだろう)あいつらの今後を見守れるよう祈って、今日はこの辺でペンを置くこととしよう-




 読むにも難儀する汚い字だが、父の無垢な思いは十分に伝わってくる。




 私たちの前ではスーパーマンのように自信に満ちていたかつての父が、実は『優れた成功者である故に陥る苦悩』を抱えていたとは、意外だった。 ましてそれが、私のたまたま発した一言がきっかけだったなんて。

 それでも私は、そこを乗り越えて後に成功と幸福の両得を果たした父を、やはり誇らしく、眩しく、羨ましく思う。



 だがそれだけに、残念でならない。 今どれほど父を誇り羨んだとしても、父が神に願ってくれようとも――私はもう、彼のように多義にわたる幸せを得られる人間にはなれそうもない。




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