09-June-1973
その年の6月9日――見上げればそこには、文字通り「広大」の一言に尽きる青空があった。 だが、目線を水平に戻したところに映るベルモントパーク競馬場もまた、その青空とも互角だろうか、と形容したいほど、それまで見たこともないような広大な場所だった。 幼い私にとっては、まずそれが印象的だった。
グラマラスなRV車の後部座席からぴょんと飛び降りた私を待ち構えていた父は、
「ふう、よーし、ここが目的地だぞギャロップ。 疲れたか? 腹は減ってないか?」
と、その禿げかけの短い白髪、少し不健康そうにも見えた長身やせ型の体つきに反し、自信のようなものが漲った野太い声で私に聞いてきた。 私は自分の首をほぼ限界まで後ろに倒して父を見上げ、答えた。
「うん大丈夫。 でもねパパ……」
「何だ?」
「今日はどうしてお出かけしたの? それになんでママはお留守番なの?」
「そうだな……ここは、女の人にとってはあまり楽しくない場所だから、かな」
「ふーん…… それで、ここってなんの場所なの?」
父はやはり妙にもったいぶった口ぶりで「なぁに、すぐにわかるさ」とだけ答え、不敵に笑っていた。
当然といえば当然だが、私はこの時、まだ競馬の何たるかなど何一つ知らない子供だった。 先生の体調不良からこの日あるはずだったピアノのレッスンが休みになり、そのかわりのお勉強だといって半ば強引に父に連れて来られたここが、まだどういう場所なのかすら見当もついていなかった。 ここに来るまでの車中でも目的地のことを聞いてはみたが、まったく教えてはくれず、「行けばわかるさ」の一点張りだった。 それでいて親子揃ってどう見てもただごとではない正装をしているのだから、不思議さは増すばかりだった。 ミサのような退屈なイベントに巻き込まれるんじゃないかと、少なからず不安にも思った。
「じゃあ行こうか、ギャロップ。 ここは本当に広いから、迷子になんかなるんじゃないぞ」
私は父の手に引かれながら、本当にここがニューヨーク市内なのかと思うほどファンタジック、かつ巨大な入場ゲートをくぐった。
父がここに来た目的は大まかに二つあった。 仕事関係者との付き合いのため、そして、歴史的瞬間を息子とともに見るためだった。
「う…わぁ……」
競馬場内に入るや、その光景は幼き私に相当の衝撃を与えた。 5歳児の想像しうる「ごったがえした状況」をはるかに超えた人だかりが、観客席を埋めつくしてウジャウジャと騒がしく波打っていたのだ。 そんな彼ら一人ひとりもまた、もれなく父親と同じ目的でそこにいた。 『偉業』をその目で見たかったのだ。
競馬に関わる者、いや競馬を知る者ならまず疑う余地のない一つの事実がある。 それは、競馬における最高峰の栄誉が、三冠の制覇であるということだ。 これは古今東西を問わない。 発祥国のイングランドはもとより、フランス、アイルランド、さらにはサウスアフリカ、ホンコン、ジャパン、そしてこのアメリカも含め、三冠の偉業を成した馬は、例外なくその国の競馬史に名を刻むことができる。
そしてこの年、その三冠レースのうち一冠目のケンタッキーダービー、二冠目のプリークネスステークスを、他の相手馬をまさに圧倒する走りで、しかもいずれもレース新記録となるタイムにて連勝してきた一頭の馬が、この日、私と同じ場所にいた。 この二冠馬セクレタリアト(Secretariat)が、満を持して最後の一冠ベルモントステークスに挑む姿を、父親と数万もの観衆は是が非でもその目に焼き付けておきたいと集まったわけだ。
メインレースのベルモントステークスは最後、昼すぎに行われる。 いわばその前座試合にあたるレースが行われている間、父は私を連れ回し、場内に来ている色々な仕事仲間とおぼしき人物に挨拶し話を交わしていた。
「Hey! 久しぶりだな、ライアン君。 元気そうで何よりだよ」
「これはこれは、Mr.キャセール。 いつも世話になっています」
こんな調子で、父は白髪と白髭が見事に一体化した恰幅の良い老人、どうやら騎手らしい若い男性、あるいは一歩間違えばギャングか何かに見えそうな屈強そうな男にも次々と声をかけ、逆に声をかけられた。 かくも様々な人たちと時折笑い合い、握手し、照れくさそうに私のことを紹介してゆく――家では見たことのない父親の一面に、私は少なからず戸惑ったものだ。
久しく忘れていた、だが決して生涯忘れ去ることなどないだろうレースシーンが、先程までの追憶に輪をかけて鮮やかに蘇ってきた。
レースが始まろうとしている。 関係者である父の特権なのか、私たち親子は観覧席どころか、それよりもさらに馬を間近で見られる、レースコース内側のターフ(芝生コース)内で観戦することが許されていた。 降り立った広い芝生には、その日何度かレースに使われたことで、ところどころに豪快にえぐられた跡と蹴り上げられた土のつぶてが散乱していた。 そこかしこから漏れて感じられる土の匂いも印象的ではあった。 しかし、そんな足元にも多少目を引かれはしたものの、向かい合う観覧席を埋めつくす人、人、人…… 仰ぎ見渡す限りの圧倒的な迫力には遠く及ぶものではなかった。
しばらくすると、そこにいる全員が姿勢を正して黙り込んだ。 それまで絶えず耳に届いていた場内の騒音がピタリと止んだわけなので、それは少し不気味でもあった。 このレースでの儀式となっている『ニューヨーク・ニューヨーク』の斉唱である。 まだ歌詞を知らなかった当時の私は口の動きばかり隣の父を拙く真似て、なんとなく聴くのみだった。 だがそのことを差し引いてもなお、数万の観客が一斉に「私のほうに向かって」大合唱を行っている――なぜ今まで忘れていたのだろうか――その光景たるや、思えばこの人生のベスト5に入るほど、私の心の中には確かな爪跡として残された。
この目に映るたった5頭、しかしいずれも全米クラスの名馬たちがスタートゲートに入り始めた。 当時の私にとっては、たった5頭だった。 実際は一概にそうであるとも言えなさそうな事情があったわけだが。
このベルモントステークスがアメリカのダート(砂地コース)競馬には珍しく、他にないほどの長い距離で行われるレースであること、三冠レース自体もおよそたった一ヶ月の間に全てが行われるハードスケジュールであること、そしてあるいはまさにこの年のように、あまりに実力差のある敵の存在を理由に路線変更する馬が続出することなど――それらの特殊性が作用する結果、必然的にこのレースは、それが持つ最高位の格に似つかわしくない程の小頭数による戦いになりがちなのである。
今にして思えば、三冠に手をかけたセクレタリアトの力は、誰もが恐れをなして仕方ないほどに神がかっていた。 すると驚くべきは、逆にそんな相手にも怯むことなく最後の一冠を奪い合おうとした勇敢な馬――それが他に4頭もいたことだったのかもしれない。
ゲートインが完了した。 父も含め観客のほとんどは、ゼッケン1番、5頭のうちの「別格」の一頭に釘付けだった。
「さあて、ギャロップ。 お前もこのレースが終わる頃には、馬に魅せられることになるか……?」
父も興奮気味に語りかけたが、それは私にしてみれば言われるまでもないことだった。 血は争えないといったところか――既に私は、ゲートの中でそれぞれ目覚ましい覇気を放ってスタートの瞬間を待つ優駿たちに、抽象的ながらも、本やTVの中で見かけてきた単なる「うま」とは違った異質さを感じていた。 つないだままの父の手にはかなりの湿り気が感じられたが、果たしてそれは、まったくお互い様だったのだろう。
そしてついに、けたたましく鳴ったベルの音とともにゲートが開いた。 一周2400メートルのオーバルコース、それを誰よりも早く一周して栄光を掴まんと、5頭の優駿たちは一斉に駆け出した。 ターフコース外側の埒、馬たちを最も間近で見られる位置で叫ぶ私たちの前を、彼らは若干の獣の匂いを含んだ一陣の突風となりながら、右から左へ駆け抜けていった。
しかしレースが始まってわずか数秒、それは各馬が第一コーナーにも達しないうちのことであった。 それまで最高のレースを願って高らかに送られていた歓声が、とたんに悲鳴にも似た汚らしいどよめきへと変わったのだ。
その理由は明らかだった。 これまでのレースでは中盤から終盤にかけての勝負所で鮮やかに馬群を抜け出し、スマートな戦法で勝ち続けてきた(らしい)セクレタリアトが、この日、スタート直後からぐんぐんと他の馬を追い抜いて先頭に立つ異常事態を見せているではないか。 事実、その瞬間の父はもの凄い顔で、薄い頭を乱暴にかきむしって嘆いていた。
「Oh, my gash! どういうつもりだ畜生め! 何を舞い上がってやがる、『ビッグ・レッド』!」
彼が言うには、その走りは12ハロン(約2400メートル)のレースでは無謀としか言いようのない、常識はずれのハイペースだったようだ。
しかし観客のどよめきをよそに、まるで部外者、先導者のように、ぐんぐん馬群を引き離そうと加速する栗毛の巨体。
そのセクレタリアトを一度下したことがあり、一応のライバル的存在との評価を得ていたゼッケン5番シャム(Sham)とその陣営は、さぞ面食らったことだろう。 セクレタリアトとは対照的に、いつもは彼こそが序盤から先頭に近い位置で主導権をとってレースする馬だったからだ。 最も警戒すべき相手が最初から自分よりも前に居るとは、まったく予想外だったに違いない。 これに何かを感じたか――あるいはその何かとは、『ビッグ・レッド』からの強烈な威圧感だったのだろうか――シャムは横の馬群に目もくれず、決死の覚悟でペースを上げてセクレタリアトを追走した。 レースは互いに大きく離れた2頭と3頭の集団による、非常に珍しい展開となった。
広大な競馬場の向正面にさしかかり、実に私たちから500メートル以上離れた位置を走る先頭の2頭とそれを追う3頭は、蟻のような小ささでチョロチョロと動いていた。 客席からの悲痛などよめきはいまだに鳴り止んではいない。 だがそれでいて先頭を争う両者の間には、わかる者にはわかる対照的な違いが顕れていた。
『余裕』という概念の、まさに最も適当な例にも思われた。 外側で半馬身程度リードするシャムはいかにも全力疾走といった印象で、人馬ともに体全体が躍動し、懸命さを丸出しにしたような走りだった。 対する内側のセクレタリアトはといえば、ワールドレコード級の超ペースを維持しながら明らかに余力を残した走りで、ともすれば氷上を滑走しているかと思うような安定感があった。 騎手も目に見えてリラックスした体勢でセクレタリアトのピッチに腕の動きを合わせるだけ、あえて手綱を捌く必要すらない様子だった。 両者の競り合いの行方は、この時点で既に決していたようなものだった。
6ハロンの中間地点、本当ならばまったく非凡な実力と負けん気を持っていたシャムが、そのあまりに驚異的なペースにとうとう音をあげた。 見込みよりも数倍恐ろしい目の前の怪物に対し、文字通り後塵を拝す形でずるずると後退していった。 セクレタリアトはなおも、そのスピードに対してとても合理的な説明などできないほどに至極滑らかで落ち着いた走りを続けていた。
4コーナーを独走状態で回って最後の直線に戻ってきたセクレタリアトには、またさらに大きさを増した歓声がスタンドから送られていた。 彼がその鬣や尾を水平になびかせて、まさに風となったかのように疾走するのに合わせ、誰からともなく、とても整然としたウェーブさえ起こっていた。 すでに2番手以下を20馬身近く引き離している。 普段のレースであればとうに完走している距離を逃げ続けてなお、最も速く走っているのはセクレタリアトなのだった。
歓声とウェーブ、そして伝説になろうとしている馬がどんどんこちらへ近づいてくる。 レースの最初では失望としての驚きを露わにした父だったが、この時はもう、眼前の常識を軽く超えた光景に対しての、失望とはまた違った驚きと混乱の只中にあった。
そんな父にものを知らない私は無邪気に尋ねた。
「ねえパパ、一番前のお馬さんはなんて言うの?」
そのとき答えた父の声には、子供の私にも容易く読み取れる、珍妙な震えがわずかに含まれていた。
「ん? あ、あぁ…… あの馬はな、セクレタリアトっていう名前の馬さ。 すごく強い馬で、ここにいるみんなのスーパーヒーローなんだ! どうだギャロップ、あの馬はすごいだろう!」
スーパーヒーロー……その言葉の意味はもちろんすでに理解していたが、この時の私にはどうも、セクレタリアトの姿がそのように評されることに対して何か違和感のようなものが拭えず、ふと声に出して困惑した。
「でも……あのお馬さん……」
それはつぶやく程度の小声だったし、おそらく父には届いていなかったのだろう、そう思った。 実際に父からは、少しの間だけ驚いていたようにも見えた他は、まるで応答が返ってこなかった。 だが、それならそれで良かった。 ほとんど訳もわからず口走ったことだ。 もし掘り返されていたら逆に困っていたところだ。
ゴールまであと30メートル。 砂粒を荒々しく跳ね上げ、見上げるばかりの巨体は一瞬で私達の正面を駆け抜けていった。 セクレタリアトの獣臭い残り香すら消えようとしていた頃に、後続はようやく私達にその蹄の音を聞かせるかどうかの位置にいた。
私がわずか5歳の頃のことをこれだけ克明に覚えていたのは、単に思い出深かったから、というだけではない。 これが2着に31馬身(約80メートル)もの大差をつけ、勝ち時計2分24秒0という驚異的なワールドレコードを叩き出したレースだったからでもあったのも大きかった。 当時の専門家をして「このタイムは永久に破られはしないだろう」とまで言って絶賛した走りだった。 実際30年以上経った現在も、更新はおろか遅れること2秒以内のタイムに迫ることができた馬さえ出ていないのだから、時が経つほどに彼の伝説の激走は自然と忘れがたくなったのだ。
セクレタリアトは、その比類なき速さによって、多くの人間に愛され成功した馬だった。