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父親について、少々





 窓の外より洩れ入る月光の明るみが、とても幻想的で美しく思える。 ここが昼間には世界一やかましくごった返すマンハッタンだとはとても思えないくらいに。 だがその実に適度な騒音もまた悪くない。 考え事などするには素晴らしく適した夜だ。


 私は今、薄暗いリビングで一人椅子にもたれて思いに(ふけ)っている。 普段ならまずやらないストレートでウイスキーをあおりながら、ずいぶんと長い間顧みなかった『遠い昔』に思いを馳せているのだ。

「そうか…… 『あれ』ももう30年、いや35年以上も前のことか……」

 私がまだ学校にも入っていなかった幼き頃のことである。


 まったく不思議だ。 飲んだ量も決して少なくなく、隔てた時間も相当の長さだというのに――どうしたことだ、蘇ってくる記憶はやたらに鮮明ではないか。



 思い出される事のほとんどは、私にギャロップ(Gallop)などという奇怪な名をつけた父に関する記憶だ。





 聞くところによると、父は、バージニア州リッチモンドの片田舎で生まれ育った。 その父は若い頃、幼少から続いた貧しい暮らしに嫌気が差し、まさにアメリカンドリームを夢見る形でニューヨークの地を踏んだ。 「夢の架け橋を何としてでも渡り切ってやる!」と、アメリカを象徴する長身の女神を前にそう叫んだんだとか――


 その時立てた誓いは紛うことなき本心だったろうが、かといって「金のためなら、どんな手を使ってでも……」とまでは考えなかったようだ。 あり余る劣等感によって育てられたような身の上でありながらそのようなフェア志向を失わなかったのは、やはり『あれ』のおかげなのだろうか。


『では、金とやり甲斐、二つの望みを同時に満たせることとなると、自分にとってそれは一体何なのだろうか……?』 彼は考えた。 通常であれば、それはどれだけ時間をかけて考えても足りないような、人生において最も難解な命題の一つに違いない。 ところが彼は、自身の『これしかない』とも断言できる完璧な答えを、驚くほど早くに見出すことができた。

 それが、競馬だった。 彼は馬を心から愛する者の一人であった。



 最初は子供心にサラブレッドの雄大な体格や走るスピードに魅了された。 本当に幼く単純な動機だった。 学校終わりなど、暇さえあれば近所の牧場に足を運び、緑の大地や夕焼けをバックに、身の丈ほどもある柵ごしにまじまじと馬を眺めた。 その時間が彼の何よりの生きがいだった――というよりは、すでに生活の一部だった。 日が暮れて、両親(つまり私の祖父母)のどちらかがうんざりした顔で迎えに来るまで飽きもせず牧柵にかじりついていたのが『いつものこと』だったらしいから。 馬の糞尿というのは人間のそれと比べて考えられない程の刺激臭を放つが、彼はそれすら愛するうちに含めた。

 その変態的とすら言える想いを理解したのはやはり馬に携わる者達だった。 よって、父は牧場従業員らとは非常に話が合ったし、気を許し合った。 それ以上にありがたかったのは、その好奇心をますますかきたてる、馬に関する知識や情報にも困らなかった事だ。 そしてやがて牧柵の外から、内へと――いつの間にか彼は、牧場にもただの“馬好きの坊や”ではなく、“ホースマンの卵”という目で見られていた。


 子供から男子へと成長する年頃にさえ、その熱情はいっこうに冷めはしなかった。 が、その間の彼の馬を見る目には、若干の変化が見られた。 自身の貧しさによる劣等感が影響したのだろうか、次第に毎日のように目にする馬たちを『優劣』や『個性』の観点を用いて見るようにもなった。 一日に何時間もの見学を、何年間も続けた。

 そのうちに彼は、はからずも競走馬に対する人並を外れた敏感さを獲得するに至った。 それがのちに彼の武器となったことは、敢えて語る必要もなかろう。


 どのみち高校へ行くほどの金もなく、それどころか家庭そのものがいつ食いはぐれてもおかしくない窮状にあったのだ。 自身のため、家族のために、父は迷わず家を出ることを決めた。 そして一週間を食いつなげるかどうかも怪しいわずかな金だけを手に、ニューヨークへ渡った。 弱冠15歳のことである。

 何のつてもない彼だったが、幸運にもすぐに住み込みの見習いとして、競走馬の素質や成績をもとにレース予想などの情報提供をするトラックマンなる職に就くことができた。

 そこからは、父はまさに怒涛のごとき躍進を体現した。 知識、熱意、行動力、勝負勘…… 彼はいずれをも凄まじい高水準で兼ね備えており、それはまさに“競馬の申し子”と呼ばれるにも十分の才覚であった。 すぐに周りの百戦錬磨たるエキスパート達をはるかに凌ぐ相馬眼(そうまがん)を発揮して見せつけ、瞬く間に競馬に関わる者たちからの信頼を勝ち取っていった。


 10年が経つ頃には、もはや東海岸界隈において最も名の売れたホースマンの一人となっていた。 それからは自分の手腕と築いた人脈をもとに、次第に将来性ある仔馬の売買の仲介も担うようになった。 さらに勇敢なことに、好機と見れば時には数万ドルもする仔馬を自ら一時所有し転売する仲買(なかがい)すらも行った。

 ちなみにのちに私の母となる、行きつけのカフェの店員だったパメラ=チェーソンと付き合い始めたのもこの頃だったようだが、どうやら関係をリードしたのは常に母の方だったらしい。 それもなかば観念したように。 父はいつまで経っても馬ばかり見ようとする、男性としてはどうしようもない欠陥の持ち主だった。


 ともあれ一代にして体一つから財を築くことに成功した父親は、まさに競馬によってその人生を救われたような男だった。 少なくとも私にはそう考えられた。

 そんな父親であるから、競馬に対して相当の愛着や敬意を抱くのも当然だったろう。 息子にギャロップなどと名付けてしまったのも、なるほどその点を考慮すれば無理もないことかもしれなかった。 もっともこちらとしては、「自分勝手なことをしてくれたものだ」と、呆れにも似たいささかの憤りはおぼえるところだが。

 なお彼は、私がグレードスクール(小学校)に入学する頃を境に、自ら第一線を退いたようだ。 後に聞くには、仕事はそこそこに家庭を優先する暮らしを選んだから、とのことだ。


 こんな彼の半生が示すとおり、彼は私にとって少しばかり変わった人物で、だが一方でそれなりに尊敬に値する父親でもあった。




「…………」


 追憶の最中(さなか)にある私の脳裏であったが、実はつい先程から、特に『ある一日』のことばかりが、何度も何度も、繰り返し浮かんできている。 記憶が確かならばそれは1973年、私が5歳になったばかりの頃のことだ。





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