あなた達には触れさせない。
私が失ったもの。
再婚した奥様視点です。
「よく寝てる」
ベビーベッドで眠る息子の頬をツンと突つく。
指先から伝わる柔らかな感触。
「あんな奴に触らせてたまるもんですか」
言葉が止まらない。
「ダメね、こんな恐い顔してたらこの子が怯えちゃう」
そっとベッドから離れ、温かいほうじ茶を淹れる。
(そろそろ卒乳、早くコーヒーが飲みたい。
でも次の子供も欲しいな...)
いつもなら妄想に浸れる筈が今日は無理。
やはり原因はアイツのせいか。
湯呑みを握り締め振り返る。
今まで私にあった事も。
今日、女と会ったのは偶然だった。
親友から一度みた事がある女の写真。
ケバケバしい化粧と服装に気づくのに時間が掛かってしまった。
最初に気づいてれはUターンしていたのに。
主人は離婚の後も前の家で変わらず暮らしているからリスクは覚悟していたが、まさか平気な顔をしてやって来るとは思わなかった。
引っ越さなかったのはこの家が亡き主人の両親が遺した物だったから。
『引っ越しても良いんだよ』
彼はそう言ったけど私が拒んだ。
『貴方の両親との思い出が詰まった家じゃない、悪夢は私が塗り替えるから』
『ありがとう』
そう言って彼は笑った。
主人の幸せな思い出の詰まったこの家を、辛い思い出のままにさせたく無かった。
別れ話の時、不倫相手をこの家に連れてきたあの女はかなり頭がおかしい。
まあ平気な顔をして不倫をする時点で人として何かが欠落しているとは思う。
そう、私の父親のように...
私の父...いや、あの男もそうだった。
あれは私が高校生の時、それまでは良い父親だった。
しかしあの男は女を作ったのだ。
相手は会社の後輩社員。
私と10歳程しか変わらない若い女だった。
残業が増え、休日も仕事と言って出掛ける奴に母と私は疑いもなく信じていた。
『大丈夫?余り無理しないでね』
母の言葉を奴は一体どんな気持ちで聞いていたのか。
奴の浮気が発覚したのは女が妊娠したから。
一向に離婚しない奴に女が家まで押し掛けたのだ。
『あの人を自由にして下さい、この子には父親が必要なんです!』
女の言葉に私と母は何が起こったか暫く理解できなかった。
女を一旦帰し、奴を呼んだ。
仕事を抜け慌てて帰って来た奴に母が詰め寄る。
『嘘よね...あなたが浮気なんか...』
そう言う母に奴は項垂れながら、
『本当だ、まさか家まで来るとは...』
それが地獄の始まりだった。
離婚を迫る女、拒否する母、奴は空気だった。
責任も取らず、ただのらりくらりと言い訳ばかり。
『寂しかった』だの、『言い寄られ浮かれていた』だの、とても聞くに堪えない物ばかりだった。
私は離婚を拒否する母を説得した。
私と歳の変わらない女と浮気する奴には嫌悪感しかなかった。
母はそんな私を見て離婚を決意してくれた。
母に悪い事をしたとは思わなかった。
あのままでは私の心が壊れそうだったのだ。
奴は離婚を渋った。
しかし母の両親が私達の味方に付いてくれたのは幸いだった。
半年間の調停で離婚は成立した。
慰謝料より奴と離れられたのが何より嬉しかった。
しかし不幸は続いた。
当時交際していた恋人との別れだ。
両親の離婚が奴の浮気と知られると恋人の両親が私に言った。
『そんな男の娘と家の息子との交際を認める訳にはいかない』
意味が分からなかった。
浮気したのは確かに私の父だ、しかしそれが何故私の交際と結び付くのか?
『伴侶を裏切るような男の娘、そんな血を引く貴女が...』
後は覚えていない。
ただ、恋人だった男は親の言葉に何も言わず、私を見つめていた事だけは覚えている。
こうして家族と恋人を失った私。
実家に戻った母が立ち直ってくれた事だけが何よりの救いだった。
しかし私は男性不信になってしまった。
それは大学を出て、社会人になっても治らなかった。
声をかけて来る男性は居た。
交際を申し込まれた事も、しかし無理だった。
全ての男性が奴とは違う、恋人だった男も違う。
頭では分かっていたが、心が拒むのだ。
もう傷つきたくない、と。
30歳になろうとしていたある日、大学時代の友人から連絡があった。
『貴女に紹介したい男性が居る、旦那の大学時代からの親友で私達夫婦とも親しい人なの』
『遠慮するわ』
いつもの様に断る私に友人が言った。
『良い人とか、そんな理由だけじゃない。
彼は人の痛みを誰よりも分かる人なのよ』と。
親友の言葉に絆された訳では無い、ただ顔を潰すのも悪い、そんな理由で私は会う事にした。
『初めまして、すみません、なんか強引に誘ったみたいですね』
初めて会った、その人は困った笑顔でそう言った。
『いいえ...』
私は彼の顔を見つめながら呟いた。
(なんて優しそうで、儚げな笑顔をしているんだろう)
それが第一印象だった。
友人は席を立ち、2人きりにされた私達は話をする事となった。
プライベートで男性と話すのは恋人と別れて以来無かった。
男性が苦手だった筈なのに止まらない、不思議な気持ちのまま時間一杯まで会話は途切れる事なく続いた。
『どうする?』
彼を見送った後、車で私の自宅まで送る友人夫婦が聞いた。
『また会ってもいいかな』
素直にそう言っていた。
『そう、なら言った方が良いわね』
親友が真剣な顔でそう言った。
自宅に着くと親友は家に上がり教えてくれた。
彼の過去を...
『...嘘』
それは衝撃だった。
前妻の裏切り。
交際から結婚、そして泥沼の不倫。
『...大丈夫?』
黙って聞いていた私に親友が聞いた。
『そうだったの』
その時理解した。
彼の儚い笑顔の訳を、そして私との共通点も。
『大丈夫よ、また会いたいと伝えて』
支えたい、そう思った。
もしかしたら共依存かもしれない、でも私は自然と言っていた。
交際は続いた。
日が経つにつれ私はどんどん彼が好きになっていった。
優しいだけじゃない、しっかり芯の通った考え方にも。
それは私の理想、結婚を意識する様になっていた。
しかし彼はなかなか結婚を口にしなかった。
あんなに酷い結婚生活を送ってしまったから当然だ。
『貴方と家族になりたい。
子供を、私が必ず貴方の愛する家族を』
私の言葉に彼は頷いて、結婚が決まった。
「ん?」
ベッドでむずがる声、どうやら起きたみたい。
「よしよし」
息子を抱き抱える。
まだおっぱいの時間じゃない。
「かわいい」
しばらくあやすと安心して笑顔で眠る我が子。
奴は私が結婚し、子供が生まれた事をどこで聞いたのか、出産後実家で療養する私と息子に会いに突然来た事がある。
『ふざけないで!』
『二度と顔を見せないで!!』
私と母は奴を追い返した。
無言で立ち去る奴に全く心は痛まなかった。
どうしてるか、何のつもりで来たのか知らない、今も興味はない。
「ただいま」
「おかえりなさい」
夕方になり、子供に離乳食を食べさせていると、玄関から聞こえる主人の声。
駆け出したい気持ちを抑え返事をする。
リビングに入って来た彼は買い物袋を提げていた。
「ごめんね」
「いいよ、これくらい」
主人が持っているのは、頼んでいたお米。
子供を連れての買い物は大変だからって、重い物はこうして持って帰ってきてくれる。
宅配でも構わないのに、商品を自分の目で選びたいって、相変わらずの優しい気遣いに心が満たされる。
「可愛いな」
「うん」
一生懸命に食べる息子に彼は微笑む。
「シュークリームも買ってきた、食後に食べよう」
「ありがとう」
私の大好物、まだ授乳期だけど少しくらいなら良いかな?
「どうしたの?」
「ううん、なんでも」
僅かな表情の変化にも敏感なのね。
(大丈夫だよ、私は絶対にあなたを裏切ったりしないから)
私は心からの笑顔を息子と一緒に主人へ贈った。