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精霊がいる国の話

たった一人の特別な

作者: 夏目羊

 森の奥深くに、不可視の家があるらしい、と街ではまことしやかに囁かれていた。姿形が何年経っても変わらない魔術師がそこには住んでいて、精霊に関する話を人々から聞いてはお礼に一つだけ、人道に反せず、倫理に背かず、犯罪めいたものではなく、そしてその魔術師に叶えられる範囲で何でも願いを叶えてくれるのだそうだ。


 □


 使い魔とは、魔術師がある種の媒体と己の魔で練り上げて作る自律式の生き物もどきのことである。


 動力源は主に魔力であり、大気中に含まれる魔を効率よく吸収できる機関を体内に備え、基本的には食餌や睡眠を要することは無い。それらの外見はその魔術師がどんなふうに魔力を練り何を元にするかで決まり、土や植物を元に土人形や案山子のような無機物めいた外見のものを作る魔術師がいれば羽や毛皮を用い猫や鳥や狼のような動物の外見のものを作り出す魔術師もいた。

 使い魔を作ることの出来る魔術師は、魔術を扱う者の中でも指折りの実力者である。その中でも特に技術に優れた者は元になる媒体を使わずとも、無から有を作り出せた。そういった実力者のうち、例えば前述のように無から有を生み出すことができるような、術を昇華し法として扱う者のことを人々は魔法使いと呼んだ。魔法使いの称号はほんの一握りの者にしか与えられない。


 ライラ・リンドヴァルはそんな魔法使いのうちの一人だった。自身の魔力のみを練りに練り上げ、彼女は一体の使い魔を作り上げた。頭のてっぺんからから爪先まで、この上なく精巧な、人間のような見た目の使い魔を作り上げた。


 彼女がしている研究はいくつかあったが、特に力を入れていたのは魔術機関から最優先に調査、研究するよう圧力をかけられていた精霊信仰に関する研究である。

 精霊信仰は信仰という生きた題目を研究するだけあって過去未来問わず長い時間が必要になる。書物として閲覧可能である文献や各地に散逸する伝承をかき集め過去に遡ることは出来るが、未来の結果は予測することしか出来ない。どのように信仰が変遷していくのか、正攻法で見ることは叶わない。信仰は、長く長く人の命をいくつも繋いで形を成していく生き物のような存在だからだ。


 そこで誉れ高き魔法使いのライラ・リンドヴァルは考えた。正攻法で駄目なら、ズルをするしかない。長きに渡る年月を自分が生きられないのなら、別の、長く生きられる誰かにその役目を負って貰えば良いのでは?

 ライラ・リンドヴァルは良く言えば研究に熱心な、そして悪く言えばほとんど研究にしか興味が無いような魔法使いだった。家族を早くに亡くしていて、変人であるがゆえ友人と呼べるような人間は一人もおらず、そんな友人関係をも誰とも結べないような人間が恋人を作ることができるかといえば答えは否で、つまり彼女と親しくしている人間は一人たりともいなかった。だから彼女の思い切りは清々しいほどに良かった。彼女に思い悩む必要は一切なかった。


 彼女と唯一ちゃんとした関わりがあったのは彼女が彼女の手で作り上げた使い魔だけで、主人が生きてさえいれば永久的に稼働し続けられる使い魔へ彼女はある日、命令を下した。


「ちょっと三百年くらい寝るからさ、その間、民の間で各地の精霊信仰がどんなふうに変わるか観測しといてよ。で、三百年経ったら私は起きて君が収集してくれた情報を元に研究を再開するから、ヨロシクね」


 使い魔は感情を解さない機械めいた存在であるし、主人には逆らうことが出来ない。だからそんなライラ・リンドヴァルの言葉に、白皙の少年の形を成す使い魔はその真っ青な瞳を無感情に瞬かせたあと「わかりました、マイマスター」と慇懃に頭を下げたのである。


 □


 果たしてライラは目を覚ました。まず目に入ったのは目の覚めるような、目を覚ましたばかりの彼女がはっとしてしまいそうなほど澄んだ青色だった。


 一瞬、なんらかの揺らぎを見せた青色は次の瞬間には凪いでいて「お目覚めですね、マイマスター」と青い瞳の持ち主は平坦な言葉を彼女へ投げかけた。マイマスター。私の主人。ライラの眠りを見届けたのは彼女の使い魔で、その使い魔は白皙の少年の姿をしていた。

 白い肌に新雪のような髪、それから大海原の青色。色はそのままであったが、しかし大きさが違う。寝台へ横たわるライラを恭しく、丁寧に、この上なく優しく助け起こした彼女の使い魔(仮)はどう見ても少年の形をしていない。ライラの胸くらいしかなかった身長は、目算でもライラの身長をゆうに超えている。ぽかんと間抜けな表情でライラは青年を見つめた。


「……君はネルの……兄かなにか?」


 彼女の使い魔の名前はネルである。彼女がそう名付けた。使い魔に兄弟なんて出来るはずもないことを他の誰でもない彼女自身がよく理解していたが、しかし使い魔が成長するだなんて生き物めいた事象を実現させるとも思っていなかったため彼女は普通に混乱した。


 雪の精霊のごとき少年を彼女は作り上げた。美しく、清廉な少年を。コインの裏表で生き物としての性を雌雄どちらかにするかを決め、どうせなら自分が美しいと思うものの方が良いな、フィールドワークに連れ立ったとき、現地の人間の警戒心を少しでも和らげるような小さな子どもが良いかな、と思ってネルの外見はそう作られた。

 それが今はどうだろう。丸みを帯びていた柔らかそうな頬は柔らかいという言葉が全く似合わなくなっているし、ぱっちりと愛らしい瞳は甘さを完全に捨て去りどこか怜悧な光を宿している。


「僕は正真正銘、誉れ高き魔法使いライラ・リンドヴァル様に作られた使い魔のネルです」


 鼻先が触れ合うような距離。思わず仰け反りそうになったライラの背をネルが支えている。否、固定されている。抱きしめるように耳元で、近すぎる距離で、ネルはそっとライラに囁いた。


「三百年の眠りから、おはようございます」


 そうして魔法使いと魔法使いの使い魔は三百年の時を経て再会したのであった。


 ライラが寝台の上で伸びたり体を捻ったりしている様子を観察していたネルは十数秒おきに空腹かどうか、何か飲みたいものは無いか、何か自分にして欲しいことがないかライラに尋ねた。

 使い魔は主人に尽くすものである。しかしこれは、とライラは居心地の悪さを感じていた。起きて数分で、この使い魔は何か不具合を抱えているのでは、とライラは考えた。


 ライラの知る使い魔のネルはいつでも静かにライラの背後に控え、彼女が用事を言いつけなければ動かなかった。自律はするが己の意思というものがないため自分から進んで動くことはしない。それが使い魔というものである。そういった命令を下しているなら話は別だがライラは三百年前も今もそんな命令を下してはいない。だのに何故こんなにも献身的なのか。


 寝台から降り立ち移動しようという素振りを見せただけで「抱えましょうか」と一言。見た目だけで言えば自分より年齢を重ねていそうな外見の青年が、真顔でこてんと小首をかしげている。

 切りそろえられた真雪のような光沢の髪がさらりと揺れた。外見のわりに幼い印象。その仕草は少年の姿であったなら完璧に合っていたはずのものだった。外見と仕草、それぞれが反発しあっていてちぐはぐだった。


 首の角度を正位置に戻した使い魔は、膝をついて寝台のすぐ側に控えている。ライラとネルはじっと無言で見つめあった。既視感。そしてそういえば、とライラは思った。

 そういえば私は眠る前によくネルの頭を撫でていたな、と唐突に。きっと床の上に立てば見えなくなってしまう使い魔のつむじ目掛けて彼女は手を伸ばした。ネルはかすかに体を強張らせたがライラはそれに気付かない。

 記憶と寸分違わぬ感触を十二分に堪能して、ようやく彼女は目の前の青年が己の魔力を分けて作った使い魔なのだと受け入れることが出来たような気がした。


「ありがとう。でも体はご覧の通り動くみたいだから抱えなくていいよ。それより私は君がしてくれた仕事の成果を確認したいな」

「……あなたが眠っていた間に収集した情報は書斎にまとめてあります。居間に持っていきますので身支度をどうぞ整えてください。風呂に湯を張り、あたためておきましたので」

「そっか。君に頼んで良かった。いい子だね」

「命令に」


 従っただけですから、という言葉はほとんどライラには聞こえなかった。


 ライラは、湯に浸かるのが好きである。もうずっと浸かっていたいくらい好きだった。それを使い魔はきちんと覚えていたらしい。使い魔の用意した湯舟は良い香りの入浴剤入りのソレでライラの気持ちはそこそこ高揚した。

 ライラは湯舟の中でふにゃふにゃになるのが好きで、だから三百年前はネルが浴室の扉をばーんと開けて「そろそろ時間です。また湯あたりで倒れるおつもりですか」と彼女へ注意をしに来るのが常だった。


 三百年前のようにライラが乳白色の湯舟でふにゃふにゃうつらうつらしていると、いきなり扉が開け放たれた。ばーん、というよりもっと「ひょっとして扉を破壊しようしている?」と疑わざるを得ない音だ。

 外れるんじゃないかという勢いで扉は開かれ、扉を開いた張本人であるネルはライラに視線を向け何かを言いあぐねているように口を開いたり閉じたりしながらその端正な顔をほんの少しだけ歪めた。思考のとろけたライラは呑気に「君も入りにきたの?」とネルに笑いかける。

 ネルが少年の形をとっていたころ、一緒の湯舟に入ったことは何度もあった。だからライラは誘ったのだが、彼女の使い魔は射抜くような強いまなざしで彼女を見ながら「今のあなたは湯あたり一歩手前に見えます。早く上がってください」とその手に持っていたタオルをライラへと差し出した。ライラは浴槽から出ることなくタオルを受け取る。


「三百年前からそうですけど、どうしてそんな倒れる寸前まであなたは湯に浸かるのですか」

「私は湯が大好きだから」

「倒れて打ち所が悪ければあなたは簡単に死ぬんですよ」


 そんなこと、ライラだってわかっている。三百年間、己の時間を止めることはできてもライラは決して不死身なんかじゃない。生き物は必ず死に至る。だからネルを作るまでは彼女だって節度をもって風呂を楽しんでいた。


「でも、私が湯あたりしないよう君は必ず来てくれるでしょう」


 ネルは不自然に固まった。そんな彼の様子を、ライラは浴槽の縁へ肘をついて眺める。


「僕が来なかったらどうするんですか」

「来ないことがあるの?」

「ありませんけど」


 即答する使い魔に魔法使いはからから笑った。狭い浴室で笑い声が反響する。


「一緒に入る?」

「入りません。二人で入るには、この浴槽は小さすぎます」


 浴室でライラがネルからお小言をもらって少しあと、彼女が風呂から上がると優秀な彼女の使い魔はすべての準備を終えていた。

 居間の皮張りのふかふかなソファに寝転びながらネルの用意した軽食をつまみつつ、彼女はこの三百年の間に収集された信仰に関する資料に目を通した。ライラが眠っていたこの三百年で緩やかに精霊信仰は過去のものになっていったらしい。なるほど、なるほど。

 いやしかし、精霊信仰の廃れ具合もなかなか目を見張るものがあるけれども。


「まさか本当に国が滅びているとは思わないでしょ。眠る前にもしかしたらあるかもしれないとは思っていたけど」

「三百年もあれば国の一つや二つ、滅んでも別におかしくはありません」

「まあね。だから急速に信仰が廃れていったのか……もともと体系的なものではなかったし信仰について国がどうこうしてたわけでもないものね。けどまぁ神の采配一つで世の中なんてがらっと変わるんだな……自分で体験するとなると中々……」


 ぶつぶつ己の見解を独り言のように口にするライラへ、ネルは「故国が滅んで、さみしいですか?」と疑問を投げかけた。直接的な言い方にライラは俯きがちになっていた頭をもたげ視線をネルへと向けた。


 ライラが魔術師として所属していた機関とライラは体制的に反りが合わなかったし、家族も友達も恋人もいなかった。彼女は特に悲しそうな表情を浮かべることなく口を動かす。


「まぁ、それなりに」

「そうですか」

「うん。……あれ、ていうか今思ったけど私が命と三百年をかけた今までの研究内容を報告する場所は無いってこと?」


 魔術機関は国が運営していた組織である。その運営元が滅んだとなれば、なら自分は野良の魔術師になるのだろうか?

 しかしそこのあたりも優秀な使い魔はきちんと手続きをしていたようで「国が滅んだといっても民がいなくなったわけでも土地が更地になったわけでもありませんから。新たな国には機関を前身組織とした塔、という組織が出来ました。あなたは一応、その塔所属の魔術師になります」と言った。


「じゃあ研究は続行していいのかな?」

「塔の魔術師達は……あなたが起きてくるか五分だと思っているようでしたから。研究のため三百年眠って成果を出そうとした魔術師は今の今まであなたしかいませんでしたし、このままとんずらしても問題は無いかと」

「とんずら……」


 三百年もあれば使い魔だって面白い言葉も覚えるのかな。一瞬、ライラは使い魔の言葉の選び方に気を持っていかれたがすぐ目の前の書類の方に軌道修正をした。

 うん、とんずらするかどうかは置いておいて。書類の束をぱらぱらめくりながら「何か他に変わったことはある?」と何ともなしに聞くと解答まであまり時間をかけない使い魔が珍しく沈黙した。


「何?」

「……使い魔に関する研究は、禁忌となりました」

「へぇ」

「それに伴い、使い魔研究の第一人者であるあなたの名誉も地に落ちました」

「別に、私は引きこもりだから名誉だの名声だのはあろうがなかろうが関係ないけど……じゃあ研究しちゃ駄目なんだ。精霊研究が終わったらやっていいよって言われてたのに」

「はい。ですが、マイマスター。あなたはあなたが精霊研究をする以前に行っていた使い魔研究がしたくてしかたないのでは?」


 ライラは少し考えて、疑問を疑問で返す。


「……もし禁忌を犯したのがばれたら私はどうなるの?」

「捕まって、終身刑でしょうね」

「わあ」


 ライラは愉快そうに瞳を細めた。三日月の形の彼女の瞳からネルは視線を逸らさない。彼女の赤銅色の瞳は、ちょうど夜中に光を当てられた猫の目みたいに怪しく光っているように見えて、ネルは視線を外せなかった。


「駄目って言うならやらないよ」


 軽薄な笑みを浮かべて、心底どちらでも良いといった感じでライラは言う。奔放で、ほとんど研究にしか興味が無いライラ・リンドヴァル。

 三百年前、ネルを伴ったライラへ「お前は人でなしだよ」と言葉を投げかけた人間がいた。失った穴を埋めようとして、研究に打ち込んだ魔法使い。禁忌を犯してそれが露見すれば終身刑は免れない。しかしそんなのライラにはどうでもよかった。自分がどうなろうと構わなかった。


「では、駄目です。やらないでください」


 使い魔の言葉を受けてライラは無垢な子どものように明るく楽しく笑ってみせた。無表情の使い魔は動じることなく彼女を静観する。ひとしきり笑ったライラは「いいよ、君の言う通り使い魔研究は凍結したままにしよう」と朗らかに言った。冷めきった甘い紅茶のカップを両手で包み込み、彼女は上目遣いに彼を見た。見つめて微笑んだ。


「お前、この三百年で感情に近い何かを手に入れたんだね」


 □


 はじめて彼が目を覚ましたとき、そうであれと作られた彼の意識は一番はじめに目に入った彼女という存在を一欠片の迷いもなく自身の主だと認識した。彼の主は赤銅色の瞳を驚きで染めたあと、慈しむように笑って使い魔のことを抱きしめ「おはよう、ネル」と使い魔の頭を撫でた。


 彼女はネルに様々なことを教えた。掃除や洗濯や食事の準備等、生活に必要なことをいくつか。それから簡単な魔術も。ネルに出来ることが増えるたび、彼女は「よくできました」とネルの頭を撫でた。ある程度色んなことがこなせるようになって、初めてネルは小屋のような家から連れ出され魔術機関に連れていかれた。

 ネルを作り出したライラ・リンドヴァルは使い魔研究の第一人者だった。彼女が理論立てて編んだ術式は、多くの魔術師に使い魔を使役出来るようにした。だからそのときもライラはネルという研究成果をただ報告するために機関へと出向き、そしてそこで彼女はネルを廃棄するよう命令を受けた。


 この国では、神が人をつくり、精霊をつくると伝えられている。そんな神の御業を、たかが人の分際で模倣するような真似をしてはならない。そういう話だった。

 もっと色んなことを機関の偉い人間は言っていたが、ライラは途中から話を聞かずに部屋を出て、ネルを連れて空へと飛んだ。


 彼女は術を昇華し法として扱うことができる、ほとんど何でも出来る魔法使いだ。夜闇に姿を紛らわせ、追っ手から逃げることなんて難なく出来た。抱えられたネルは眼下に広がる街の明かりを灯りをぼんやり眺めながら「良かったのですか」と問うた。

 離反行為ととられても仕方のない姿の消し方で、きっと彼女の居場所はあの場から無くなっただろうとネルは考えた。ライラは「別に良いよ、思い入れもないし。それともネルはあそこが良かった?」と疑問をネルに返した。

 良いか悪いかなんて分からない使い魔は、口に出来る答えを探したが、回答は己の中から得られなかった。


「人の形したものを作っちゃ駄目なら、最初からそう言ってくれればこっそりやったのになぁ」


 ライラは悪びれずにそう言った。彼女の言葉にネルは反応する。


「人の形にこだわりがあるのですか」

「だって神様に近いこと、一度くらいはしてみたいじゃない」


 ライラとネルが機関から逃げて夜の空を散歩した日からまもなくして、人が訪ねてこられないよう細工を施してある彼女の小屋に人がやって来た。彼女の、魔法使いの同僚だった。


「お前と敵対するつもりは無いが人の形の使い魔を作るのはこれきりにしろ、だとさ」


 茶を淹れよう、と彼女は男を歓迎しようとしたが男は神経質そうに表情を歪め手を振って小屋の中に入ろうとしなかった。そして彼女の後ろに控える使い魔を見て眉根を寄せた。


「お前は人でなしだよ」


 吐き捨てるように男が言った言葉を、ネルは初め自身に向けられた言葉だと思った。けれども、人でないネルに人でなしだと言うのは事実を事実としてそう発言しているだけだ。そのことに意味はないように思えた。

 なら、この人間は自分の主に「人でなし」という言葉をぶつけている。そう結論づけてネルは主の背中を見た。


「随分な言いようだね」

「そいつはお前の弟じゃねえぞ」


 あはは、と笑い声らしい笑い声がネルの鼓膜を打って男は分かりやすく不愉快そうに表情を歪めた。


「そんなの私が一番わかってるよ」

「あっそう」

「怖い顔しないで。ネルが怖がる」

「僕は使い魔ですので怖いという気持ちを解しません」

「あらら、ここは空気を読んで黙るところだよ」

「わかりました。今度からそうします」


 彼女と使い魔のやり取りを聞いて、男は疲れたように溜息を吐いた。


「精霊信仰の研究。お前はこれを最優先にやれ」

「うん?」

「上からの命令だよ」

「命令に反いたらどうなるの?」

「俺がお前の使い魔を引き取りにくる」

「それは嫌だな。あなたにネルが引き取られたらグレそうだもの」


 小さなネルをぎゅっと抱きしめてライラは言う。男はそこで初めて不快そうな表情から一転、笑みを浮かべた。


「なら、せいぜい無害な魔法使いでいることだな。いくらお前でもお前と同じ魔法使いに数で攻められたらひとたまりもないだろ?」


 男が浮かべたそれは好戦的な笑みだった。


 そしてライラは精霊信仰研究を始めた。北に南に西に東。手近な文献から聞き込み調査まで、彼女の使い魔とともにありとあらゆる情報を集めに集めて研究を行った。


「あの方は、精霊信仰研究がある程度ひと段落すれば使い魔研究をまた始めても良いと言っていましたね」


 ネルは膨大な資料を前にした主へ温かい茶を差し出した。集めてきた情報を体系的にまとめるという地道な作業をしながら、ライラはそれを受け取る。


「うん。だから逐一結果を報告しているのに、返ってくるのはそのまま研究を続けるようにという返事だけなんだから参っちゃうね」


 さして参っているようにも見えない主にネルは覚えたてである小首を傾げる動作を披露した。


「つまりあなたに使い魔研究をさせないつもりなのですね」

「そうだね。作らないならいいよ、研究だけはしていいよって言いながらコレなんだから大人は全く汚いよ。ネルはどうかそんな大人にはならないでね」

「僕は使い魔なので大人にはなりません」

「あはは、そうだね」


 使い魔研究で彼女が作りたいものは人間なんてそんな大雑把なものではないことくらい、その材料があれば聡明なネルにはきちんと推測することができた。


 主に弟という存在がいたという事実。それから、小さな額に入った絵姿。物がたくさんあって雑然とした小屋の中、掃除の最中に見つけた絵姿には二人の人間が描かれていた。彼女と、ネルの見た目とそう変わらない年頃の男の子。姿はネルに似ても似つかなかった。ライラ・リンドヴァルに目元がそっくりな男の子。

 ライラ・リンドヴァルは何も語らない。ネルは何も尋ねない。一人と一体は、その必要性を感じていなかった。


 代替として作られたから何だというのだろう。その事実は、事実として存在するだけ。それ以上でもそれ以下でもない。ネルはそう思っていた。

 情報収集は数年続けられた。変わりなく、淡々と、しかし丁寧に彼女と使い魔は調査を行った。


 そして彼女が長い眠りにつく、ほんの数日前、港町で調査を行ったときのことだ。彼女の表情がいつもとほんの少し違うように見えてネルは尋ねた。


「何か心配事があるのですか」


 尋ねられたライラはネルに向かってにこりと笑う。


「別にないけど、ここ、生まれ故郷だから」


 彼女は海を見つめた。海のよく見える場所だった。彼女はネルの前を歩く。道を示すように手を引いて歩く。


「君の瞳は私が一番好きな色だよ」


 ネルの青色の瞳を彼女は見ない。幼い外見の使い魔の手を引いて、前を行く彼女はそう言った。

 そして彼女はその数日後に長い長い眠りについた。使い魔であるネルを残して。



 ネルはそれから命令の通りに働いた。彼女がいない日々を、彼女がいた時のように動いた。特に飲食を要さない体だったが、ライラは自分だけ食べるのも申し訳ない(実際の彼女は特に申し訳なさそうな顔をしていなかったが)という理由でネルに食事をさせていた。ライラが居ないのだから、食事をする必要は本当になくなってしまったが、それでもネルは彼女がいた日々をなぞるように過ごした。

 風呂も、汚れだけ落とすことが出来ればそれで良いと感じていたが、きちんと湯舟を作って浸かったし、掃除も洗濯もおやつの時間もきちんと全てネルはこなした。


 ネルの生活に変化が訪れたのは彼女が眠ってから五十年ほど経った頃だった。一度たりとも人が訪ねてこなかった小屋に人が訪ねてきた。小屋はライラが入念に隠していたから、普通の人間に見つけることは出来ない。そんなことが出来るのは彼女の、魔法使いの同僚たちだけだった。

 来客があれば対応は任せるよ、と眠る前のライラはネルに言い含めていた。だからネルは叩かれた扉の鍵をあけて、普通に戸を開いた。そして訪ねてきた人物を見上げた。


 年老いた人間だった。すぐさま頭の中の記録を参照してネルは口を開く。初めて会った時より随分歳をとっていたが、知っている人物だった。

 ネルの口から出てきたのは、かつてライラに「人でなし」と言った同僚の男の名前だ。男は五十年経っても背丈一つ変わらない小さなネルのことを見て嫌そうな顔をしたあと「ライラ・リンドヴァルは?」とネルに尋ねた。


「眠っております」

「叩き起こしてこい」

「いたしかねます」

「なら俺が叩き起こす」

「困ります。主は約束の年まで何をしても起きません」


 片眉を上げて男は言った。


「約束の年? あいつ、自分に呪いでもかけてるのか。何年に起きる予定なんだ?」


 ネルがどれくらい先にライラが起きてくるのかを告げると男は額に青筋を浮かべた。


「二百五十年先、だって?」


 男は使い魔の静止の声を振り切り小屋の中に入った。迷いなく彼女の寝室へと向かった男は、寝台を一目見て気勢が削がれたようで「お手上げだな」と息を吐いた。後を追ったネルは男の背中に問いを投げかけた。


「今回はどのようなご用事で来られたのでしょう」

「今度、学園勤務になったからな。お前もどうだって話をしに来たんだが……まさか寝てるとは……いや待て、この様子だとこいつ何十年も寝ているだろう」

「はい」

「その間の報告書はお前が作っていたな?」

「はい」


 ごつん、とネルは脳天に拳骨をくらった。初めてのことだった。今までも、聞き込みの際、子どもの姿のネルに乱暴なことをしようとした者がいないわけではない。子どもという見た目は相手の警戒心を和らげるのにとても重宝するが、それは逆に隙を作ることにも直結する。使い魔であるネルは魔から生まれた存在であるから、魔術を行使することができる。だからそういったときには力を使い危機を回避してきたのだが、男の拳骨は何故だか避けられなかった。


「色々と杜撰だな」

「何が杜撰なのでしょう」

「入念に隠している割にまるで無防備だ。んで、見たところお前は自分の身を守る術を教わってるが他人を守る術を教わってねえ。俺以外の俺みたいなやつが今後ここに押し入る可能性は低いと思うが、もしそんなことが起これば、そんときお前、対処出来ねえと思うぜ」

「……主が害されるのは、困ります」


 男は振り返って、本当に困ったような雰囲気を纏う使い魔を見る。男の手が伸びて、今度は拳骨が降るのではなく手のひらがネルの脳天を覆った。

 ぐしゃぐしゃとネルの頭を掻き撫ぜるような乱暴な動作は、かつてライラがネルにしたものとは全く違うものであったが、ネルは久しく忘れてしまっていたライラの「よくできました」という柔らかな言葉を思い出した。男は悪戯を思いついた悪ガキのような表情で笑う。


「お前に特別授業をしてやろう。俺のことは師匠と呼べ」


 それから一年、男は実践でネルに他人の守りかたを教えた。ネルと男はライラの小屋で共同生活を送った。ネルはもしかしたら男が主に何か良からぬことをするのでは、と密かに警戒していたが男はライラの眠る部屋に全くと言って良いほど近付かなかった。勝手に居着いた男は、魔術の指導の他、ネルの生活に沢山のダメ出しをした。 


「茶を淹れるのは下手、料理も塩と砂糖を間違える。あいつが起きてた時もこんなだったのか?」

「はい。食べることができればそれで良いと仰せでしたので」

「味音痴どもめ。おい、よく見てろ。こうするんだ」


 男は長くライラと同僚で、ネルの知らないライラを沢山知っていた。頭に栄養を回すため菓子を馬鹿食いし、それを経費で落とそうとして予算を減らされたこと。

 機関に備わる大浴場に利用時間ギリギリまでいたあげく中で溺れそうになって大浴場を管理していた人にこっぴどく怒られたこと。

 それから、唯一の家族である弟をとても大切にしていたこと。彼女の弟に関して、男はあまり語らなかった。ただ、彼女の弟は亡くなっているのだとその事実のみを使い魔に教えた。


「どうでもよくなっちまったのかな。あいつはヘラヘラしてたから、乗り越えたんだと思ってたんだ」


 いつもは自信に満ちてネルを導く男が、そのときだけは途方に暮れたような表情で甘い紅茶を見つめていた。


「師匠」

「なんだよ」

「師匠は主がお好きなのですか」


 老成した表情で男は笑う。ネルは自身の胸のあたりで何かが暴れているような感覚に陥った。


「昔な」


 何も言わないネルに、男はやっぱり乱暴な手つきで頭を撫でた。


「今はお好きではないのですか」

「今日はよく突っかかるな、お前」

「わからないことがあれば逐一質問するよう仰ったのは師匠です」


 男は少し考える素振りを見せて、生徒の質問に答える。


「今は、そうだな。この五十年で俺には愛する妻も子どもも出来た。妻には先立たれてしまったが、今も愛しているし子どもだってデカくなったがいつまで経っても可愛くて愛しい。だからあいつへの感情は別のものに昇華したよ」

「別のもの」

「今抱いているのは……出来の悪い、妹を見ているような気持ちかな」


 男は冷めた甘い紅茶をぐいっと飲み干して、それからネルの顔を見て驚いたような表情を浮かべた。


「なあ、お前、それは一体どういった気持ちの表情なんだ?」



 その日からネルの体に変化が起きた。ネルの体は人間の体が成長するみたいに、じわりじわりと大きくなっていった。男は使い魔研究に関しては門外漢であったため、ネルの体が何故この時機で突然成長したのか解明できなかった。


「別に不便なことも無さそうだし良いんじゃね? いやでもあいつは怒るかな。お前のこと大事にしてたし勝手なことするなって……まぁあいつが起きる頃には俺も死んでるしいいか」


 男が特別授業をすると言ってからきっかり一年。そのころには、ライラの胸より少し下くらいの身長しかなかったネルはそこそこ上背のある男の背丈より少し低いくらいの身長になっていた。


「超速で成長してったな、お前。息子にお古の服を持ってきてもらったけど、ちゃんと買った方がいい。多分お前、もう少しでかくなるぞ」

「はい」


 小さかったときと同様に、男はネルの頭を撫で回した。ぐしゃぐしゃになったネルの頭を見て男は笑う。屈託なく笑った。


「寂しくなったら、連絡寄越せよ。あと機関の連中にバレないよう、変わらずきちんと報告書は出しとけ」

「わかりました」

「全く可愛げがなくて逆に可愛いよ、お前」

「師匠」

「なんだよ」

「ありがとうございました」


 師匠が初めて見せた変な表情を、ネルはきちんと目に焼きつけた。奇妙な共同生活はあっけなく終わりを告げ、それから二人が会うことは無かった。


 男が去り、季節はいくつも巡っていった。ライラは眠ったままで、しかし一人で過ごす日々にネルは寂しさを感じなかった。だから男に連絡を寄越すこともなかったのだが、その日のネルは調査と買い出し以外で初めて外へと出向いた。

 小屋から少し離れたところにある郵便受けに男の手紙が入っていた。余命幾ばくもない男からの手紙で、ライラに一通、そしてネルに一通手紙はしたためられていた。ネルは自分に宛てられた文を読み、舌の上で言葉を転がした。


「眠りから覚めたとき、誰もいなかったらきっと寂しいだろうから起きる瞬間だけはちゃんと側にいてやってくれ」


 そこから先はお前が決めろ。見たところ、お前は完全にあいつから独立した機構を持っていた。お前は使い魔だが、あいつから離れることが出来るだろう。

 だからお前の意思で何がしたいのか、きちんと頭で考えろ。あいつはあいつで本当に馬鹿だから、俺でも救えなかった馬鹿だから、そんなやつの面倒を最後までみる必要はねえと俺個人は思っている。

 ネル、お前の道はお前が決めろ。


 手紙の住所を頼りに出向いた先で、ネルは男と話すことができなかった。男は息子夫婦や孫、それから学園の生徒といった多くの人間に看取られ既に亡くなっていた。

 墓に花を手向けたあと、小屋に戻ったネルは真っ直ぐ、ライラの部屋に向かった。そこでは変わりなく、彼女は寝台の上で眠っていた。死人のように眠っていた。


 ライラを見ているうちに得体の知れない何かが身の内に込み上げてきて、押しつぶされそうになって、ネルは頭を撫でて欲しいと思った。

 赤銅色の瞳を今すぐにでも開けて、自分を見つめて、笑って欲しいと思った。今や自分よりも頼りないその腕で、抱きしめて欲しいと思った。


 しかし約束の年までは遥か遠く、彼女の腕は自分を抱きしめてはくれない。どうしようもなくなって、彼は彼女を抱きしめた。あたたかな肢体はぐったりと力なく、重かった。当然彼女の腕は背中に回らない。彼女は応えない。それでも、ほんの少しだけネルは息がしやすくなったような気がした。


 彼女と過ごした数年と、男と過ごした一年を思い出しながらネルは日々を過ごした。かけがえのないものであればあるほどそれは強くネルを苛んだが、捨てることは出来なかった。

 一人で日々を過ごしながらネルは色々なことを考えた。国が滅び新しくなり、世の中は色んなことが変わったがネルは変わらず日々を過ごした。


 そして三百年の時は過ぎ、彼女は眠りから目覚めた。


「お目覚めですね、マイマスター」


 彼の道は、未だ定まっていない。


 □


 数十年に一度の周期でその魔術師は現れた。願いを叶えてもらった人間は取引について秘匿するよう魔術師と約束を交わすが、人の口に戸は立てられない。律儀に墓まで事実を持って行った者も少なくはなかったが、うっかり口を滑らせてしまう人間も当然に存在した。

 そんな、うっかり口を滑らせた人間の子どもの孫の友人から、彼女は話を聞いた。条件付きではあるが願いを叶えてくれるという魔術師の話を。巨万の富を得た、だとか病気を治してもらった、だとかそんな噂を聞いて少女は夢想した。自分ならどんな願いを叶えてもらおう。少女にはあまり欲が無かった。家族も自身も健康であるし、巨万の富だって別に興味は無い。無かったはずだった。


 廃れた信仰の話を熱心に聞く青年は、雪のような髪に青色の瞳を持っていた。人間離れした美しさに、少女は目がちかちかした。少女はそれまで一目惚れというものを知らなかったが、その日初めて一目惚れ体験をしてしまったのだった。


「僕に出来る範囲で、あなたの願いを叶えましょう」


 御伽噺の王子様のように恭しく、礼をする青年に少女は瞳をきらきらさせて言った。


「あたしと付き合ってください!」


 □


 数百年前に預かった手紙を、ネルはライラへと渡した。ライラはその手紙を何回も何回も読み返して、綺麗に封筒へ便箋を戻す。何も感情を読ませない表情でぼんやり彼女は目の前に置かれたチョコレートをつまむ。


「ねえ、君自身はさ、何かこの三百年で困ったことはあった?」


 大量の甘いものをライラの前へ運び込んでいたネルが動きを止めた。


「さほど困っているわけではありませんが、明日、一緒に来ていただきたいところがあります」

「それはどこ?」

「ここから一番、近い街へ」

「うん、いいよ。でもさネル、ちょっと待ってお菓子多くない? もういいよ運ばなくて待って待って待って」


 そして次の日。ネルに手を引かれライラが出向いた先は街なかの公園だった。そこのベンチには小さな女の子が何やら神妙な面持ちでちょこんと座っていた。ちょうど、大きくなる前のネルと背丈の変わらない子どもだった。

 ネルの姿を認めた少女は、丁寧に手入れされた花壇に咲く花にも負けない、愛らしい表情を浮かべたが、少し後ろを歩くライラの姿を見つけて露骨に嫌そうな顔をした。勢いよくベンチから降り立った少女はしっかりと土を踏み、ビシッとライラを指差した。


「あんたが……あんたがネルを縛ってる女なのね!」


 ライラは少女に向けて笑顔を装備する。笑顔は、万国共通の友好の表情だ。


「ネル?」


 身長差が随分出来てしまったから、聞こえなかったのか。それとも聞いていたが敢えて無視したのか。ライラには分からなかった。


「すみません。この方が僕の特別な人なので、あなたとお付き合いすることは出来ません」


 ライラの言葉に答えずネルは淡々と言った。少女は真顔のネルに少したじろいだが、すぐさま体勢を立て直しライラへ照準を合わせた。小さくとも、その瞳はきちんと恋する女の子のそれでライラは内心舌を巻く。


「でも、ネルの片想いだって言ってた!」

「僕の気持ちがこの方にあるのに、あなたとお付き合いするのは不誠実なことだと思っています。ですから、お断りさせてください」


 自分よりもずっと小さな少女に向かって、真摯に丁寧にネルは頭を下げた。少女はぽろぽろと涙を流してネルを睨む。ライラを睨む。乱暴に涙を拭って少女はかけていった。


「あなたを連れてこないと納得しないと言っていたので会わせましたが、失敗したのでしょうか」

「どちらにせよ断っていたんでしょう。どっちでも、あの子は泣いていたと思うよ」

「はい。断ります。僕は使い魔で、人ではないので」

「……寿命は私に引きずられてしまうけど、君は私から離れることが出来るよ」


 そう作ったから。普通の使い魔とは違って、どこにだって行ける。誰とだって一緒になれる。人と違うということを受け入れてもらうにはきっと時間がかかるだろう。けれど世界はとても広くて、色んな人間がいる。ネルの特異性を受け入れて受け止められる人間はきっといる。いるはずだ。だってネルはよく出来たライラの最高傑作で、とても可愛く愛しい存在だったから。


「あなたは僕に離れていってほしいのですか」


 あの日のネルの瞳と、今のネルの瞳がだぶって見えた。根っからの研究者気質のライラではあるが、迷子の子どものようなこの瞳にライラは弱い。ネルのなすがままにライラは手を引かれて歩き出す。


 初めは、弟の代わりになる人形を作ったつもりだった。かつての同僚は弟を作ろうとしているのだと勘違いしていたようだったが、それは違う。

 弟は帰ってこない。死んだ人間は生き返らない。ライラは魂の戻し方を知らない。その点に関しては諦めることができた。けれどもライラはどうしようもなく寂しかった。囀るように笑い、駆けてはライラを呼ぶその存在が失われて、虚しくなった。

 形さえ似ていればそれで良いと思った。意思を持たず、指示を待ち、実行するだけの機構をたまたま人の形に作っただけ。愛を一方的に向けることができればそれで良かった。愛を向けられて、情がうつれば別離のときにまた辛くなるだろうから。


 だから機関から逃げる前、使い魔を引き渡せと怒鳴る機関の人間を前に弱々しく服の裾を掴んできたネルを見てライラは「ああ、失敗した」と気が付いた。身勝手な弱さで、生み出してはならないものを生み出してしまった。代替なんてそんな役目を負わせてはいけない。もっと幸福な理由で生まれ落ちるべきであった可愛い使い魔。

 隠すことが得意なライラは、住んでいる小屋をほとんど完璧に隠したし自分が抱えていた悲しみも上手く隠したし後悔も上手に隠せていた。

 けれど寂しさだけは、隠せなかった。なにより行動が雄弁に語っていた。作ってしまったという事実は消せない。彼女が作り出した使い魔は彼女の寂しさを埋めるために作られた。人の形の、人ならざる使い魔。


「君は、私から離れるべきだよ」


 幸福を阻むわけにはいかない。使い魔は主人に逆らえない。対等ではない。もっと別のところで、幸福になってくれないか。


 戸の鍵をかけてライラは振り返った。そして彼女は目の前で壁となった使い魔を見上げた。先を進んでいた彼はいつのまにかライラの方を振り返って、彼女に通せんぼしている。


 玄関のあたりはあまり採光しない作りになっていたため、暗さに慣れていなかったライラの瞳はきちんと彼の表情を見ることが出来なかった。


「僕は、離れていってほしいのですかと聞きました」


 一歩、距離が詰まった。逃げ場はどこにも無い。


「僕は人間の細かい気持ちが分かりません。だから教えてください。教えてくださらないと分からないのです。あなたは僕が邪魔ですか」

「邪魔なんてそんな」

「僕は、あなたがまた目を覚ます瞬間を、ずっと待っていました」


 頭を撫でて欲しいと思った。自分を見つめて、笑って欲しいと思った。今や自分よりも頼りないその腕で、抱きしめて欲しいと思った。どうしてそれらのことをしてもらうと安心するのか、知りたいと思った。

 ネルはライラを抱きしめる。


「僕を作ったのはあなたなのに、どうして自ら手放そうとするんですか」


 声は震えていないし涙も出ていなかったが、ライラには泣いているように聞こえた。


「どうして置いていこうとするのですか。僕にはあなたが特別なのに、あなたにとって僕は特別ではないのですか」

「特別だよ。だから離れるべきだと思ってる。私は君を代替品にはしたくないんだよ」


 抱き締める力が強くなった。ライラは黙ってそれを受け入れる。


「だから……だから眠って逃げたのですか? そして今回も逃げるおつもりなんですか?」


 ズルをするな。ネルが師匠と呼ぶ男からライラへ向けられた手紙には、いくつか言葉が綴ってあったが、一番彼女の頭に残った言葉はこれだった。


「逃げるなんてそんなこと、僕は許しません」

「許してくれないの?」

「絶対に、許しません」


 使い魔の許しなんて魔術師に何の意味も無い。だから少し、彼女は笑ってしまった。


「ネル、今から私は命令を下すよ」


 ライラを抱きしめるネルの体は強張ったが彼女は構わず「ネルが私から離れたいと思ったとき、そのときは迷わず私の前から去りなさい」と命じる。使い魔は魔術師の命令には逆らえない。だからネルは小さく頷いた。

 ライラはネルの腕の中で身じろぎをしながら「ほら、ネル。ちょっと力をゆるめてほしいな」と今度は彼にお願いをした。彼はそんな彼女の言葉に反応を返さない。埒が開かないから、ライラは言葉を重ねて笑う。


「このままじゃ腕が君の背中に回せないよ。抱きしめさせてよ、ネル」


 道を違えるまでは、二人一緒にいようか。

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