日吉はせっかくタンデムシートがあるのだから使いたい
よろしくお願いします
ベンチレーションから入り込んだ風が上気した頬を冷やす。俺は目をこれでもかというくらいあけ、うねる道の先を見た。
生い茂る木々で見通しが悪く、車であればすれ違うことは不可能なほど狭い道だ。
ヤビツ峠。
俺はその名前を生涯忘れることはないかもしれない。
神奈川西部、清川村側から入ったいわゆる裏ヤビツは初心者には相当な酷道だった。
「たまんねぇな」
それはしかし恐怖よりもひたすらに冒険心を煽ってくるように思える。
最高だ。バイクを買ってよかった。心の底からそう思える。 このツインの野太い鼓動で俺を揺さぶるVストローム250を。
免許取得から一年。頭金半分でローンを組んだ俺の初めてのバイク。丸目に黄色いくちばしが旅への意欲をかきたてる。外食控えて弁当作った甲斐があった。
初めての峠は街乗りと全く感覚が違う。カーブ手前で減速を誤ると命にかかわる。人がいなくても鹿が横切るかもしれない。ビビりすぎなような気もするが気を付けて損はないはずだ。ただ緊張の連続と乗り方がおかしいのか肩がこる。
そしてヘアピンに悪戦苦闘しつつも何とか峠の売店を過ぎた。次第に道幅は広くなってきたものの下り急カーブのワインディングへ突入する。
「おおおおおおおっ!」
もはやギアは2速固定だ。ここを抜ければもうすぐだ。そうグーグルマップさんも言っている。焦る気持ちを抑え安全運転に努めなければならない。
そしてついに菜の花展望台へ到着する。峠をクリアした安堵感と目の前に広がる絶景に俺はしばらくバイクにまたがったまま動けなかった。4月にしては空気が澄んでいた。遥か遠く、眼下に広がる秦野市の端には江の島すらくっきり見えた。
「………輩」
帰ったら洗濯物取り込んで夕飯と明日の弁当の準備とかどうでもいい。ただVストロームとともにこの景色をずっと眺めていたい。
「先輩」
よし、今度ツーリングマップルを買おう。もっと気持ちいい道、素晴らしい景色がこれから俺を待っている。そうだ、そろそろ夏に向けてメッシュジャケットを買っておいたほうがいいかもしれない。今後の計画が後から後からわいてきた。
「日吉先輩。ラーメン見つめて何ぼーっとしてるんですか。ぶっちゃけキモいですよ」
しかし俺の思考はそんな心無い言葉にさえぎられてしまった。
「うるせーな三木。そんな大声出さなくても聞こえてるよ」
あたりを見渡すとそこはヤビツではなくいつもの見慣れた社食でがっかりする。
「大声なんて出してません。ていうかさっきから何度も呼びかけてたのに日吉先輩はにやにやラーメン鑑賞会ですし。なんかいかがわしいことでも考えてたんじゃないですか? やだーもう昼間っから」
目の前で焼きシャケ定食をつっついてる、先輩への尊敬とか畏敬の念がこれっぽちもない女は一年後輩の三木静香だった。明るめのショートで外見はかわいらしい部類だと思う。入社当初はそれなりに礼儀もあったはずだが。
「………何がどうしてこんな態度をとるようになっちまったのか」
「なんですか人が悪いみたいなその言い方パワハラですよ。人事に訴えようかな。一年ぽっち先輩なだけで日吉さんが言論弾圧してきますって」
「お前にパワハラいわれたくないよ」
こんな会話もいつものことだとでもいうのか、周りは誰もこちらを見ない。
「それで、日吉。何かあったんだろう」
と、助け舟かはたまたこの会話を聞いているのが面倒になったのか、となりにいた目黒さんがぼそっとつぶやくように問いかけてきた。学生時代ラグビーをやっていたとかでやたら日焼けしていて無駄にガタイがいい。しかしこの人の言葉はなんというかどんなにうるさい中でもよく意識へ通る。仕事もでき後輩からの人望も厚い。俺もこんな人間になりたい。
「そうですよね。日吉先輩ってちょっといいことあるといつもあんな感じになってミス連発しますもんね。今朝だって見積書差し戻しされてたし。主任が気づいてなかったらやばかったですよ」
「ぐぐ………」
そう、昨日のヤビツツーリングが頭をついて離れず、今朝は仕事があまり手につかなかったのだ。主任の役に立ちたいのに足を引っ張ってどうする俺。
「この前も――――」
「三木」
さらに俺へ追い打ちをかけようとする三木だったが目黒さんににらまれ、不服そうに黙る。なんでこいつは目黒さんにはこんなに素直なんだろう。主任からの信頼も厚いし扱いの差が悲しい。まあそれだけの理由は当然あるわけだが。
「日吉。それで」
「あ、ああそれでですね。ついに買ったんですよスズキの――――」
「え、日吉先輩、車買ったんですか? さすがお金ためてますね。それでスズキの? スイフト? ハスラー? あ、もしかして無理してエスクードとか買ってたりして」
「お前そんなに車詳しかったっけ」
「これでも勉強したんですよー」
三木がなんかにやついている。
「このあたりに住んでるとどこ行くにも車必須じゃないですかー。私もそろそろ免許取ったほうがいいんですかねー。うちの親ケチだから学生のとき免許代出してくれなくて、いいなー車」
うんうん。大変だな自分でとれよ。っつーか車買ってないけどな。目黒さんは我関せずでそばをすすっていた。
「あのな、俺が買ったのはバイ」
「そういえばこのまえ従兄が日吉先輩みたいな間抜けな感じでバイク買ったとか言いやがったんですよ。バイクですよバイク。もうアラサーのいい歳してバイクって、あんなの乗ってるの学生くらいでしょ? 家庭もつ気まったくないっていうか。まあ従兄はそもそも陰キャだから結婚とかできなさそうなんですけど、バイクなんていつ転んで怪我するかもわからないし、どういうつもりなんですかね。本当に危ないったらないと思いません? 大人の男は車でしょ」
「………………………」
バイクに親でも殺されたのかお前は。目黒さんは蕎麦湯を飲んでいる。
まあお前になんと言われようと俺はライダーとしてホコリを持っているし偽る気もさらさらないぞ。まだ納車されて三か月くらいだが。
「三木。俺はバ」
「日吉くん、やっぱりなんかあったんだね。今日はいつにもましてボーっとしてるから心配してたんだけど、車かったんだ。よかったね。仕事も頑張らないとね」
そのとき俺のはす向かいに天使が舞い降りた。
「あ、穂波主任。お疲れさまでーす」
「うん、三木ちゃん、目黒くん、それに日吉くんも午前中お疲れさま。月曜は大変だね」
穂波主任がこの来ただけでほかの席の男性社員の目が一斉にこちらを向いた。気のせいではないはずだ。なんせ穂波主任は課内の天使だからな。ゆるくカーブのかかった髪が蛍光灯の光でさえきらめいて見える。これで性格も温厚だというのだから、この班に配属されてよかった。心からそう思える。
そば定食を完食した目黒さんは主任へ軽く会釈した。誰が相手でも相変わらずだな。
「穂波主任、午前中は申訳ありませんでした。以後気を付けます」
主任にだけは嫌われたくない。いやむしろ好かれたい。俺ごときには高根の花なのはわかっているがせめてこういう関係を続けたい。主任に嫌われたらこの職場で生きていけない。
「日吉くんなら大丈夫よ。真面目でいい子だから」
まっこと天使やで。ちなみに主任も車を持っているらしい。らしいというのは見せてもらったことがないからでプライベートで会うことが無いからだ…………。
「あ、それと俺が買ったのは」
「コンパクトカー? SUV? 私のだとお酒飲めないし、今度乗せてよ。みんなでどこか遠出したいね。イチゴ狩りとか?」
うん、もう俺が買ったのは車だ。そんな気がしてきた。というかこの流れでバイクとか言ったらどんな顔をされるのだろうか。転んで怪我でもしたら仕事に支障をきたすことになるし、よくよく考えると社会人としてバイクはどうなんだ俺。今からでも車に買い替えたほうがよくないか。いや、だって主任が助手席に乗ってくれるんだ。天使いや女神がイチゴを食べさせてくれるんだぞ。
「日吉くん?」
「そうですね行きましょういちご狩り」
「うわぁ、私に対する態度と違う」
「三木。察してやれ」
外野がうるさい。俺は気が付けば親指を立てていた。すまんVストローム250。なんだかんだ言いつつ三木はわりとノリ気だが目黒さんは。
「いちご狩りのシーズンは2月です主任。来年必ず行きましょう」
行く気マンマンかよ。この人そういえばフルーツ大好きなんだよな。
「ええ、そうしましょう。幹事は――――」
「任せといてください」
来年まで時間があるとはいえ、なぜこんな安請け合いをしてしまったのか、ああでもその笑顔が見られるのであれば良いか。車………どうしよ。
「そういえば主任。聞いてくださいよ」
ふいに三木が声を潜める。潜めたからって隠し事というよりは何となく気づいていたが言いたくて仕方ないことがあるようだ。
「なに三木ちゃん」
「………………できたんですよ」
「なんだよ。もったいぶってないで早く言えよ」
「日吉先輩は黙っててください。ここから先は女子の会話ですよ」
いや、黙ってるだけで聞いてていいのか。そう思ったがいわれた通りにしてやった。言い返したらその倍は返ってくるからな。心なしか主任も三木の話が気になっているようだし、大人として空気を読んでやった。
「三木ちゃん、それってこの前話してた合コンの」
「そうなんですよ。できたんです。彼氏が! もうすっごいイケメンなんですよ。それに優しいし気配りできるしどこかの誰かさんとは大違いというか」
おお、悪かったな。気配りできなくて。
俺を見ると勝ち誇ったような笑みを浮かべた。そういえばこいつは友人と合コンに時折参加しているそうだ。なんというか、言い意味でも悪い意味でもあけすけなやつだ。
「ほんと、おめでとう!」
「ありがとうございます。彼の車で今週末ドライブデートなんですよ」
「良いわねぇ。どこ行くの?」
「えー、ここでは秘密です。後でLINEで送りますね」
「うん、教えて教えて」
どうやら俺も知らない主任のLINE IDを知っているらしい。うらやましい。
「隠す意味あるのかよ」
ていうか主任のLINE ID教えてよ。
「そういう日吉先輩みたいな無神経な人に大事な初デートを邪魔されたくないからですよ」
「なんで俺が邪魔する前提なんだよ」
こっちはいちいち三木のデートを邪魔するほど暇ではない。なんせ週末にはツーリングが控えているのだから。
「日吉くん。女の子にはひとに言いたくないことのひとつやふたつはあるのよ」
「その通りだと思います」
俺は即答した。上長の言うことは絶対だ。他意はない。だがなにを思ったのか三木はあからさまに眉をしかめた。
「それじゃ、三木ちゃん週末頑張って。目黒くんと日吉くんは来年2月忘れるなよ」
いつの間に食べ終わったのか、主任はトレーを持って立ち上がった。
「もちろんです」
俺は強くうなづいた。
マジでどうしよう。
仕事帰り、俺はアパートのある海老名まで小田急線に揺られた。
来年のいちご狩りのことを考えていた。車は親父のを貸してもらえばいいか。最近はワンデイ保険とかもあるしな。幸い仕事で運転しているからブランクとかはないし。それにしても主任を乗せてドライブデートか…………。気がつけば目黒さんや三木のことは頭からすっぽぬけていた。
仕事中同乗することはもちろんあった。しかし仕事ではない。プライベートの話だ。
いやそうじゃない。
「どうすんだよ」
三木はどうでも良いのだが、主任に嘘をついてしまった罪悪感がいまさらになって押し寄せてきた。車じゃなくてバイクを買ったとなぜあの時言えなかったのか。押されて流されてしまったのだ。嘆息。
しかしバイクですと言ったとしていちご狩りの話は出なかっただろう。目黒さんも車を持ってはいるがあまり長距離運転は好きじゃないようで主任も話を振りづらい。
――――今度乗せてよ――――
昼間の主任の言葉が頭をよぎる。バイクと言っていたらあの言葉を言ってくれただろうか。さすがに彼氏でもない男とタンデムなんかするはずないよな………。あの主任だぞ。怪我でもしたらどうする。俺は頭を振って馬鹿な考えを振り払う。
「あー、アホか俺はっ」
つい口をついて出た言葉はわりと夜道に響き、隣を歩いていたサラリーマン風のおっちゃんに見られた。
だがバイクを買ったことや今日の話。そのときの感情が渦巻き、妙にテンションの高い俺は考えを止めることはできなかった。怪我の可能性があるのなら装備を整えておけばいいのではないか。そんな意味不明な考えが頭をよぎる。
やめておけ。そう自分に何度も言い聞かせたが、気が付けば座間にあるバイク用品店までVストロームで乗り付けていた。店内に入ると勢い任せでヘルメットを探す。来年の話だ。ほかの装備はおいおいだな………。まずはヘルメットだが、あんまり安すぎるのは軽んじられていると思うよな。いや素人目にわからないとしてもそのあたりはちゃんとしたものを買わなければ主任に失礼だろう。であればこれくらいは――――。
――――――――いや俺は一体なにをしているんだ。乗るはずもないひとのためになんでヘルメット選びをしているんだ。いやでも今後のためにはあったほうがいざというときに。っていざという時ってなんだ。そんな急にタンデムする機会なんてあるか。頭の中は思考の濁流に飲まれていた。
好きな女性とのタンデムは男のあこがれだろう。ここで買わずして何が男か。なーに、夏のボーナスでヘルメットごとき釣りが出る。いや待て。ヘルメットの使用期限は三年程度だと聞いたことがある。使わずにいても劣化するわけだし本当に必要なときに買うべきじゃないのか。だがいざというときがあるかもしれないし…………。そして。
「お買い上げ、ありあとやしたー」
まじで何やってるんだ俺は。気が付けば3万円以上するショーエイのJ・Oというジェットヘルメットを買っていた。結構箱がでかくトップケースに入らなかったので箱は店舗で処分してもらった。もはや後戻りはできない。
そして、誰もかぶる予定のないヘルメットが入った布袋を、大切にトップケースへ入れた。
なぜか盛大なため息が出たのは言うまでもない。
…………我ながら気持ち悪い行動をしている自覚がある。穂波主任にはもちろん三木にも言えない。なら何で買ったんだという葛藤に苛まれながらそれでも妙な高揚感があった。
ありがとうございました