第7話
「ふぅ……」
手足の伸ばせる湯船という物はやはり良いものです。我が家にあった湯船は小さかったのでいつも足を曲げなければいけませんでした。それも今の体であれば伸ばせそうですが。
他に誰も居ない湯船で精いっぱい手足を伸ばします。流石に泳ぎ出すようなことはしません。
激しい運動をした後はより一層スッキリするものです。
シャンプーやら石鹸の代わりに、体や頭を洗うのは薬草を浮かべたお湯でした。とろりとしていて良く泡立ちます。
知識として知ってはいても、実際に体を洗ってみると不思議な感覚でした。
不思議と言えば、今のワタクシが性別をどのように捉えているのかも良くわかりません。
つい先ほど、男湯に入ろうとして改めて女湯に入った時、生まれ変わる前のワタクシでしたらワクワクドキドキしたでしょうが、そういった感情が沸かないのです。
思考は元のままでも感情は女の子に、とかそういうことでしょうか? だとしたら魅力的な男性と出会った時のことを考えると少しゾッとします。
しかし大きな湯船はそんなことも忘れさせてくれます。やはり心は日本人なのでしょう。
実際には鳴っていないのにカポーンという幻聴がして、何も描かれていない壁には富士山の絵を幻視してしまいます。
さて、そんなことは置いておいてこれからのことを考えなければなりません。まだ時間があるとはいえ、ここでボリスを逃してしまえばまた被害者が増えていくのですから。
湯船に浸かるのが気持ち良くて、思っているよりも時間が経っているかもしれません。
とりあえずお風呂を出てボリスが行く居酒屋を探しましょう。ここいらでは有名らしいですから、案外すぐに見つかるかもしれません。
そして今回は油断しないように。元々油断しているつもりはありませんが、それが原因でボサボサ頭との戦闘では痛い目を見たのです。ちゃんと気を入れ直さなければなりません。
風呂を出て、宿屋に武器を取りに戻る。
「後ちょっとだけ浸かったら……」
なんて言っていると中々上がることができませんでした。
他の客が入って来てようやく我に返って風呂を上がる始末です。
ちなみにその時、少しお年を召しているからかもしれませんが、裸を見ても興奮はしませんでした。これはいよいよ、恋愛対象が変化しているかもしれません。
「あら、お風呂に入るだけにしてはずいぶんと時間がかかったね」
宿屋に戻ると、女将さんがカウンターに居ました。もしかしてこの宿屋は女将さんが一人で切り盛りしているのでしょうか。
「色々と事情がありまして。でもこれからまたすぐに出ますわ」
「お仕事熱心で良いことだよ。頑張ってね」
「はい。ありがとうございます」
部屋に戻ってウエストポーチを巻きます。中には財布くらいしか入れませんが、気分の問題という奴です。そしてそのベルトに魔剣ムスニアを差します。そして胸当てを取り付けてガントレットをはめます。
そして最後に剣を背負えば、ワタクシの完全装備になりました。ただ装備を整えただけなのにものすごい安心感です。
準備ができたら急がなければなりません。男達と戦ったのと思っていた以上の長風呂で既にお昼時を越えています。
急いで部屋を出ようとしている時にはたと気づきました。
「この格好……大丈夫でしょうか?」
武器を背負って居酒屋に入るのは流石に怪しく思えます。普通の居酒屋であれば冒険者も利用するでしょうが、今回狙っているのは少し治安の悪い場所にある居酒屋。そういう場所では武器を持っているだけで反感を買うかもしれません。
「……そうだ!」
ベッドのシーツを引っぺがします。それを軽くまとえば背負っている武器は隠すことができました。
これはこれで怪しく見えますが、武器を見せびらかすよりはマシでしょう。
戦闘になったらシーツはしまって、汚さなければ女将さんにもバレないはずです。
ようやく準備が終わり、今度こそ部屋を出ます。幸い女将さんはカウンターの下で作業をしており、シーツが見咎められることもありませんでした。
「では行きましょう」
シーツをローブのように羽織り、さっきまで居た貧民街の方に向かいます。
「またダメでしたか……」
目の前で無情にも扉が閉められます。
これで三軒目ですが、どれも似たような対応を取られてしまいます。
まずベッドのシーツ――ローブをまとった少女が現れ、ボリスという男の行方を尋ねる。
誰もがそれを怪しみ、何か手がかりになるような情報を得る前に、と言うよりは話も聞かずに店を追い出されてしまうのです。
まだ開店の時間ではなく、仕込みに忙しいようで余計に対応が冷たく感じます。
昼間ということでどこも看板を出しておらず、そもそも店を見つけること自体が大変な有様です。
そして遂に日が傾き始めています。焦らなければならない時間です。
しかしこれはこれで悪いこともありません。看板を出し始めている店もあります。それでもいくつかの店には断られました。
そしてすっかり日も沈み、この店が最後になるでしょう。
入ると、既に何人か居た客がこちらを見ます。そして明らかにこの場には似つかわしくないワタクシの姿に、怪訝な表情を浮かべました。
店主も同じような表情を浮かべています。そしてため息を吐くと、
「なんだ……嬢ちゃんここじゃあミルクか水かしか出せないぞ?」
店主の言葉にワタクシは思わずガッツポーズをしそうになりました。こんな言葉をかけてくれる方が優しくないはずがないです。
そしてもうなりふり構っていられる状況ではありません。
心の中でスイッチを切り替えます。
「お、お父様へのプレゼントを盗まれてしまって……その犯人を捜しているのです……!」
精いっぱい目に涙を浮かべ、両手を合わせて祈るように店主にお願いします。
これでワタクシは父親の誕生日プレゼントを買いに来たら途中でスリに奪われてしまったかわいそうなお嬢様。
渾身の演技が功を奏したのか、店内の空気が変わるのを感じます。ここが攻め所です。
「犯人の心当たりはありますか……?」
「お嬢ちゃん、何か情報は……見た目だとかそういうのはわかるかい?」
「確か……仲間らしき人達にボリス、とか呼ばれていたような……」
ほくそ笑んでいるのがバレないように、そしてボリスのことを知っているのをバレないように慎重に。
結果はすぐに表れてくれました。
ボリス、という名前を出した瞬間に店主を始め、酒を呷っていた客まで目の色が変わりました。
「あの野郎……!」
「ついにこんな子供から物を盗るまで堕ちたか⁉」
「とっちめてやる!」
「お前ら、絶対ボリスの野郎を見つけ出せ!」
「「「おうともさ!」」」
焚き付けたワタクシがたじろいでしまうほどの剣幕です。このまま放っておいたらワタクシが手を下す間もなく殺されてしまうのではないでしょうか。
そうなってしまってはいけません。ワタクシが持つこの魔剣ムスニアでトドメを刺さなければならないのですから。
「み、皆さん待ってください!」
「嬢ちゃんはここでミルクでも飲んで待っていると良い」
「ありがとうございます……。そうではなくて! 犯人とはワタクシがお話しますので、どうかあまり手荒な真似はしないようにしてください……!」
お願いすると、さっきまで怒り狂っていた男達は今度は涙を流します。
大人が幼女の前に集まって涙を流す。異様すぎる光景に思わず後退ってしまいます。
「優しい……。優しすぎるぜお嬢ちゃん!」
「わかった。嬢ちゃんがそう言うならボリスがどこに居るのか探すだけにしよう」
「そうだな。ちゃんと反省させないといけないからな」
どうやら上手く事が運びそうです。
ワタクシがボリスを探しているのは殺すため、なんて知られたらどうなるのでしょうか。