第0話 プロローグ
「はい。いち、にぃ、さーん!」
間抜けな声に合わせて意識が浮上する。
自分の体の感覚を確かめるように手を開閉させるも、その感覚はない。声の主を探そうと
周囲を見渡しても、何も見えない。最初の間抜けな合図以外に、音は聞こえない。その空間からはあらゆる匂いが感じられない。そして飲み込んだ唾の味もしない。
つまり、今の俺には五感がなかった。
それだというのに、どこか真っ白な空間でふわふわと浮いているような無重力巻があるのが不思議であった。
「うーん……こんなことまでできるとは。我ながら神の力が恐ろしく思えるよ」
さっきの合図と同じ間抜けな声。
聴覚はないはずなのに、なぜかその声は届いていた。
声の主が見えるわけではないので、それが何者なのかわからない。男の声にも感じられるし、女の声にも感じられる。大人のようにも思えるし子供にも思えた。
わからないと言えば、今の自分の状況もまったくわからない。この場所は、なぜこの場所に。
「そうだな……その質問に答えたいところではあるが何と言ったものか……」
俺の考えていることが通じているのか?
「そりゃあね。わざわざ口をつけるよりも意識を読み取った方が楽だもの」
意識を読み取る。それは恐ろしいことだが、
「なぁに。君が今更何を考えたとしてもそれを不敬だと罰するつもりはないよ」
声の調子は最初から最後まで平坦だったのだが、それを少し馬鹿にされたように感じたのは内容から俺が勝手にイメージしたからか。
それは良いとして、まずはここがどこで俺はどうなっているのか教えてほしい。
「ふむ。端的に表すならここは死後の世界。つまり君は死んだということになる」
なるほど。死後の世界がどういうものなのかはわからないが、死後の世界ということであれば五感がないのもうなずける。
直前の記憶がないのも死んでいるからなのだろう。
「ああ、そこは違うね。君の記憶がないのは今、君が意識だけの存在だからだ。記憶も一緒に復活させるのは流石に骨が折れるってものよ」
ちなみに、死因を聞いても?
「信号無視のトラックに轢かれて病院で死亡だね」
なんとも呆気ない死である。しかし死んでしまったのなら嘆いていても仕方ない。
こうして割り切れるのも、意識だけの存在になって感情すら失ってしまったかもしれない。それを考えても惜しく思えないのは、やはり感情がなくなったせいなのだろうか。
復活、と声の主は言っていたが――そういえば名前を聞いていなかった。
意識だけとなり、何を考えたとしても罰しない、と言われても、ずっと声の主と呼ぶのは流石に憚られた。
「……名は持たないんだがね。しかし呼び名をつけるのであれば神、が一番正しいだろう。君の暮らしていた世界に対しては創造主とも観測者とも言える。しかし役割的には神が一番しっくりくるのではないだろうか」
神、とはまた大きく出たものだ。
しかしこの現状を考えると、それもまた誇大には聞こえなかった。
ここで問題となるのは、この声の主が神であるかそうでないかではなく、この自称神が何の目的を以て俺を復活させたのか、だ。
あいにくと記憶がないせいで生前の自分がどんな人物だったのかもよくわからない。神に見初められるほどの人間だったのだろうか。
「ショックを受けないでほしいんだけど……」
感情がないのだからショックも何もない。
「それもそうか。まぁ、たまたまだよ。たまたま人手が欲しい時に君が死んだからここに呼んだだけ」
そうなのか。やはり感情がないからか、ショックも受けない。しかし俺じゃなくてはダメだ、なんて理由でもないのは少し残念である。
そしてその人手が欲しい理由とはなんなのだろうか。
「君にわかりやすく言うなら癌の切除だ。私の管理する世界で世界そのものを滅ぼしかねない奴がいるんだ。おっと、君の暮らしていた世界ではないから安心してくれ。今までは私が自ら排除していたんだが最近数が増えてきてね。それで君の手を借りたいということさ」
よくわからないが世界を守る活動をしろ、ということか。
「その通り。世界にとっての癌――便宜上ターゲットと呼ぼうか。そのターゲットを倒すことをお願いしたい。その世界の管理者といったところか」
話を聞いた限りでは断る理由も見当たらない。それよりも異世界転生ということみたいなので単純に興味も出てきている。
しかし、特に武術の経験もない俺でも大丈夫なのだろうか?
「問題ない、とは言い切れないがそうだな……。せっかく引き受けてくれるのだから転生する際に何か一つだけ、要望を聞こうじゃないか。欲望スイッチオン」
やはり間の抜けた声で俺の欲望スイッチとやらが入れられる。その瞬間から何か、心の内から沸々とわいてくる。この感情が俺の欲望なのだろうか。
それと同時にムズムズとした感触が現れる。
何かと思えば、これまで存在していなかった口が現れていた。途端に忘れていた呼吸が始まったように口が動く。
「どうして口を?」
「欲望は直接その口から聞きたいじゃないか」
口だけが存在しているのも不思議な感覚である。
しかし欲望を吐き出す以外の機能はないのか、唾液らしい唾液もなく、吸う空気も吐く空気もないので呼吸しているように動くだけだった。
「世界を根底から覆すような要望は聞けないがある程度は聞こうじゃないか」
欲望がわき出るお陰で既に俺の望みは決まっている。
「さぁ、素直な君の欲望を聞かせてくれ」
「大きな武器を扱う強い幼女にしてくれ!」
欲望の大きさを表すかのように、俺の声がどこまで広がるともしれない空間いっぱいに広がった。
そして俺の意識は途切れる。