鏡の占い師
その日、男は生きる意味がわからなくなった。そこで偶然みつけた小さな占いの館に足をふみいれた。生きる意味をだれかに教えてもらおうと思ったのだ。
むらさきのカーテンでしきられた薄暗い小部屋は男が想像したとおりの占い部屋だった。用意されていた椅子に腰をおろすと、暗闇からぼぅと占い師が姿をあらわした。
「生きる意味を教えてほしいのです」
男がそう言うと、ベールをかぶった占い師は口元に小さな微笑みを浮かべて承諾した。
「私にはすでに見えています。ですが申し上げることはできません。あなた自身が実感として生きる意味を理解せねばならないのです。目の前にある手鏡の指示に従って行動なさい。さすれば必ずそれがわかるでしょう」
次の日から男は、その鏡の指示で行動することになった。鏡をのぞくと、どういう仕組みなのか、うっすらと占い師の口元が浮かびあがり、男に指示をだす。薄気味がわるいが、男は自分で考えるよりも誰かに指示してもらうほうが性に合っていると思い、素直に従うことにした。
鏡はまず「会社を辞めてしまえ」と言った。それで辞表を書いて提出した。上司に今後をたずねられると、胸元に入っていた鏡が男のかわりに男と同じ声でこたえた。
「アートを描くのです」
そういうわけで、男はアートを描くことになった。鏡に言われるがままに赤い絵の具をとり、黙々と筆をうごかした。三日三晩描きつづけて絵が完成した。男には理解しがたい抽象画だったが、これまで何かをやり遂げたことがなかったので、ただ完成に満足した。
次に鏡は「まったく同じ絵をちがう色で描け」と言った。同じ指示が三回続いた。
一枚目をむらさきの絵の具で描いていると、初恋の女性を思い出した。彼女は俺とはちがって積極的な人だった。
二枚目を黄色の絵の具で描いていると、大学時代の友人たちを思い出した。なんでもできる奴らだった。
三枚目をみどりの絵の具を描いていると、幼少時を思い出した。あの頃から毎日が不安だった。今もあまりかわっていないと気がついて少し笑った。
夢中で三枚のアートを描きあげ、満足感にひたった。少し上達した気もする。俺は絵を描くのが好きなのかもしれない。次のアートを描くのが楽しみになった。このまま鏡の指示にしたがっていれば、本当に生きる意味がわかりそうだと男は燃えた。
しかし鏡は「赤い絵だけを残して、ほかの三枚の絵をすべて捨ててしまえ」と言った。男はがっくりと肩を落として、泣く泣く絵を捨てた。
その後の鏡の指示はつまらないものばかりだった。「部屋を片付けろ」とか、「壁を白く塗装しろ」とか。男の中で、しだいに鏡への不満がつのっていった。ひとつのこった赤い絵をながめながら男はある衝動にかられていた。絵が描きたい。いつまでもこんな鏡の言いなりになどなっていられようか。生きる意味などわからなくてもよい。
「描くな」と言う鏡を無視して、男は絵を描きはじめた。今度はいろんな色を使って自由に描いた。おさえきれない生命力がキャンパスに溢れていくようだ。筆をおいたとき、男の心は満ちていた。
部屋のドアを叩く音がした。扉を開くとそこには、むらさきの絵を抱えた美しい女が立っていた。
「この絵を描いたのはあなたかしら」
女はそのまま部屋にあがりこみ、赤い絵を眺めて「これがあなたの原点ね」と言った。
ドアの隙間から賑やかな声がした。そこには黄色い絵をもった大学時代の友人たちがいた。
「この絵を描いたのは君だろう」
ひと目みてわかったという。そして赤い絵を眺めて「これは君の情熱そのものだ」と口々に言った。
開けはなたれた扉のまえに、みどりの絵をもった不安げな顔の少年が立っていた。
「この絵を描いたのはあなたでしょうか」
少年は赤い絵を眺めて「これがおじさんの本当の気持ちだね」と言った。
すべての絵を飾って鑑賞しようと女が提案した。赤い絵、むらさきの絵、黄色い絵、みどりの絵、そして先ほど描き上げたばかりの絵がならべられた。すっきりした部屋と白い壁に、色とりどりの絵がよく映えた。
友人たちが「個展みたいだ」と笑った。
女は「今日はオープニングパーティーね」と腕を組んだ。
少年は最後に描きあげた絵の前で、大きな目から涙をながしていた。泣きおえると少年の顔からは不安の色が消えていた。
男は驚いた。そして悟った。これが俺の生きる意味なのだ。確信した男が鏡をのぞくと、中で笑っている占い師を覆っていたベールがはがれていった。あらわになったその顔は、男の顔そのものだった。
「私はあなたの潜在意識。あなたが知らない、本当のあなた。たとえあなたが気がつかなくても、私はあなたがなにをしたいか、なにをすべきなのかをしっています。また道に迷うことがあれば、いつでも私に問いかけてごらんなさい」
言い終えると、鏡はただの鏡になった。鏡には、生きる意欲に満ちた男がひとり、うつっていた。