アジアの海の民
アジアにおける海の民について整理しておこうと思う。まず弥生人の元となる倭人、そして、そのルーツである渤海人。これが最近私が中心にして扱っているもの。稲作=弥生人で正しいと思うが、倭人=稲作ではない。ほぼ弥生人と同系統の渤海人が稲作の少し前に日本に来た。これが日本における47Zの偏りの原因じゃないか?と見ている。
じゃ稲作民は非47Zなのか?ならそれは違う。単に古くから来てるから有力者になりがちだったと見ている。活動報告で書いたが、稲作民と先行漁労民の差は、内蒙古の遊牧民系の民族の血の差だと見ている。全く別系統が混血したか?または、その割合が違うと見ている。ただし単純に遊牧民文化を持っていたわけじゃない。この点はスキタイにおける定住農業民と騎馬民族が別れていた点と似ていると見ている。
要するにモンゴルからやってきたのじゃなくて、モンゴル高原に後から広がった種族が遼河辺りに数多く住んでいたと成る。それゆえ遊牧民にありがちなC2系が少なくても問題は無いと思っている。何故か?と言うとこの調査をした斉藤教授は核DNAの分析以外してないからになる。ハプロの分析ではない。HLAの分析結果に似てると見ている。その理由は3段階モデルがHLAの結果そのままだったから。
ただその後もろ馬を扱う人が半島からやってきたり、かつ、金属加工の集団が直接やってきたので、その人達はモンゴル高原を通ってきた可能性は高い。その場合コーカソイドが関わってくる。R系じゃなくて、以前話したN系の西から戻ってきたグループになる。
ただ日本のN系を見ると、系統的には欧州組みと重なるのだが、すべての分岐が古い。日本と共通する年代は大体中国になる。ただこの場合人の流れが問題になる。西の方に限ればバイカル湖、中国とモンゴルはごっそりコーカソイド集団がいた事になる。その場合中国の古い系統のNが混血してる可能性が高い。
これ調べてみると本当に西から東に戻ってきた集団が居る。その集団は私の予想通り金属加工の集団だと分かっている。これが西にも伝播してるため、やや東アジアよりのカラスク文化とかあの手の金属加工の影響が同心円状に東西に広がったのが遺物から分かっている。
ハプロが当てにならないのは、ハプロは直系しか出さないので、核DNAの系統分析とかなりずれるという点。D系が天皇系であると見てるのは、ここにある。分岐年代から鎌倉時代にD系のある特別な系統だけ大量に増えた。そしてその下位系統は関東に集中している。源氏系の武士だろうとの推測になっている。それゆえ核DNAの分析ではせいぜい縄文人は2割程度しか混血して無いとの結果になっている。
これが日本人がほんのちょっとだけ堀が深い程度?で東アジア集団が共通性が高い理由になる。しかも中国南方は堀が深い。それゆえより日本人が際立って立体的な顔ではない。沖縄アイヌ以外特に縄文人の特徴は出ない。
以前も書いたが、競走馬の種牡馬のサイヤーラインにおいてすでに絶滅している直系系統が競走馬の最大の遺伝子の割合を占めるらしい。遺伝においていかに直系がどうでも良いか?分かる部分。
そもそもモンゴルにおいて、私はC2Bがジンギスカンの系統を見てるが、過去内蒙古に住んでいた名も無き有力者の系統がC2Cとして残った可能性は高い。私がC2C=ジンギスカンに否定的なのは、中国人において数多く発見されるため歴史上の人物として世界最大の男性ハプロになってるが、多分それ世界の歴史に残ってない内蒙古の有力者だと見ている。
C2Cがジンギスカンと仮にしたら世界で最大なのは当たり前で人口の多い中国人に大半含まれてるからで、全世界に広がって多いのはむしろC2Bの方になる。モンゴルにおいてそもそもC2系が多いのもそれが遺伝的割合を示してるか?なら当てにならないと見ている。
海の民で脱線してしまったが、日本はおそらくこの遊牧民と祖先を共通するある特定の集団がかなり重要な位置を示していると見てるから。遊牧民とは限らない。渤海湾付近とはそういう地域なんだ。実はこの金属加工の出戻りってかなり重要。後で海の民に繋がってくる。人類の移動は何かしら新しい先進的な技術を持った集団がさらに新しい中心点になる事が多い。
まず旧石器に日本に入ってきた集団だが、これは難しいな。C1A1がその最大の候補だが、これ中国や韓国でほんのちょっとだけ見つかっていて、日本からの転移組みか?その変がわからない。逆に向こうにいて陸路で来て消滅してしまったのじゃないか?と考えられる。所謂港川人になる。
後これと別なのか?分からないが、後の農業の拡大とは別にアメリカ大陸に向かったB系の通り道に日本を通って定着した古いB系がある可能性がある。これはみなとがわ人ではない。アメリカの現在の状況からほぼ間違いなくC2系だと思われる。他にもD系が海岸沿いに多いなどの調査もありこれらの相方はC2系であった可能性は高い。
まさにこの2つがアメリカでQ系の移動とは別の少し前に海岸ルートでアメリカ大陸に向かった集団になる。ただ何故C1A1に疑問があるか?と言うと、それだけ発達した海洋技術がありながら何故アイヌに居ないのか北海道にいかなかったのか?が疑問になる。そこから、アイヌに極端にO1B2の少ないのと同じ理由だった可能性がある。大陸の陸路から朝鮮半島経由で来た可能性。
しかもアイヌにはニウブ経由でO1B2が入る可能性があるので、O1B2は詳しく調査すれば出る可能性もある。過去アボリジニ系の北方への拡散があったのは事実で、アメリカまで行っていたかも?と言う可能性もある。それに近いのがC1A1なので、そりゃ候補としてはふさわしい。だが現在残るハプロの割合は胡散臭いは何度も書いた。それゆえ安易にC1A1を候補にするのは私は賛成できない。
縄文初期の集団があり、これがC1A1じゃないかとも言われている。この集団一度カルデラ火山で壊滅的な状況になってるため、そのため北海道まで広がらなかったなどは考えられる。
ただ問題点は、当時の東南アジアはすでにスンダランドが消えていて、O系が激しく拡散した後になる。そのためたまたま残っていたC系の特殊集団が東南アジアからやってきたと言うのはどうも胡散臭い。
この東南アジアの集団は謎だと思ってる。これは石斧の共通性から東南アジアが現郷だといわれていて私もそれに同意している。当時からすでにO1B1は広がっていたと推測されるが、今ほど拡散した最大の理由は北方民族の南下による玉突きしきの移住と稲作の拡散が大きいと見ている。これは稲作の遺跡が見つかってるのでほぼ時代は5000年前付近と特定できる。
そこから東南アジアから来たこの集団はO1Aだろうとは見ている。鹿児島でO1Aは高く出たとの情報は聞かないが、一度あそこは滅んでいるので、出るなら逆に別の地域になる。
これで終わりか?と言うと、他にも南方ルートで来ている集団が居る。これがおそらく噴火後に入れ替わった薩摩隼人だろうと見ている。これが以前私が扱ったサトイモを日本に持ち込んだ集団になる。ただこれインドシナ半島じゃない。フィリピンが出発点になる。これはね、実際はインドシナ半島である可能性がある。
文化の伝播と民族が入れ替わった可能性がある。ここで以前話が出る。以前巨石文明がアジアと欧州が繋がってる可能性の話を書いた。その担い手はG系になる。マレーシアとスマトラ島でG系が結構しっかり出る。かつインドの南方やスリランカでも出る。ここからG系が西は欧州、東はインドネシアと移動してきたのがわかる。
ただこの系統、どうやら民族が入れ替わってしまう。マレーシアの系統にごっそり入れ替わってしまう。だが不思議な事に巨石文明とインドの鉄技術だけはきちんと東に伝えている。ハプロ的な問題じゃないのか?ならそのレベルじゃない。母系まで完全にアジア系統に変わってしまっている。
今回書いたのは台湾にも巨石文明があった。これは間違いなくインドネシアからやってきたものだろう?と想像してる。アフリカのサバンナ農法と言うのが東南アジアの焼畑文化に追加されるのだが、これとマレーシア発の根菜農業が合体して台湾にやってきた可能性がある。
この中でバナナは日本でカットされた。これは北限の問題だろう。ただ日本に入ってきた焼畑はこれじゃないか?と見ている。
ただ問題もある。陸稲のプラントオパールがちと古すぎる。これは分析の失敗の可能がそれなりの数の批判者に指摘されてるので、年代が古すぎるって批判が多くて胡散臭い部分がある。実際はこのBC2000年付近の焼畑農業の北上の可能性がある。中国にもざらにいて珍しくも無いが、O2A2と言う系統とO1Aと言う系統がこの集団の父系になる。これ瀬戸内で高く出る。母系は明確ポリネシア人に高い系統になる。
台湾のB系は大きく2つに分かれていて、内陸部のB4Bと海岸部のB4Aになる。この海岸部のB4Aのみがポリネシアに拡散している。B4Bが明確な内陸系と言うわけじゃない。フィリンピンから見つかってるのは分岐年代からおそらく台湾からの系統だと見られてるから。ただ日本に来たのは、海岸部の系統なんじゃないか?と見ている。そこまで細かいデータを見てないので分からないけど。ただし日本にはB4Bも普通に出る。
ただ民族の系統ってだけで、ポリネシア人のような高い航海技術があったのか?は不明。どうやら土器などから台湾から中心点であるのは確かだけど、航海技術自体はフィリピンで磨かれたとか、後最重要な技術としてアウトトリガーカヌーの存在が重要になる。ポリネシア人と決定的にほかの海の民が違うのは、ここが大きい。
現在分かってないどうやって移動したかの?の技術はおいておく。船自体は大きな進化があったのはもう分かってるので。
後鉄技術が伝わったベトナムにはマレー系の父系ハプロであるHが出るのに台湾には出ない。この辺り日本は多分台湾を経由してきたもので、直接マレーシアから来たわけじゃないと思う。
東南アジアで良く出るので、O2A2は南方系だと思われてるけど全く違う。当たり前に中国北東部でも出るためこれが見つかってもだから?と言うのがある。インドネシア系とチャーニーズ系といわれて、そのどっちもO2A2は豊富に含まれるので正直全く当てにならない。これミャオの系統の祖先系になる。
だがミャオ族も元々北方から南下したと伝わっていて、多分系統的にもその歴史は正しいだろうと見られている。
O2が北方なのか?南方なのか?ややこしいのだが、こういう系統があるからなんとも言えなくなる。系統的に古くて、後から北方から南下した系統じゃないO2が東南アジアには多々ある。これに加えてO2を多く含む漢民族はGm遺伝子がもろ南方系、北方の北京でも日本人よりマラリア耐性遺伝子をしっかり持っている。総合的に見てO系全体がやや上の東南アジアから北上したと見ている。
それに対してC系は海岸沿いに移動したと見ている。そもそもO系の前のK系統から分岐したP=QRが東南アジアに元はいたのが分かっていて、ベタな北方ルートであるQRでさえ、東南アジアに一度来ている。そこから西に戻って北方ルートに進むというややこしい事になっている。私はO2は北方モンゴロイドではないと見ている。
豚の家畜化をしたN系と色濃く混血したため北方モンゴロイドになったのだと見ている。その後D系と混血したきょう族のO2系こそがチベット族と華夏民族のルーツだと見ている。
こういった系統が重要なのは、航海の仕方が違う点が大きい。どこまで高い技術だったか?分からないが、沖縄ルートの集団でポリネシア人と似た母系は遠洋航海が得意だった可能性はある。
基本的に日本の土着のD系は初歩の海岸ルート系統になる。半島ルートじゃないとしても、海岸線沿いに進むという初歩的な航海術になる。初期のC系のアジアの到達がまさにそれになるから。決定的に異なるのが、陸地が完全に消えてしまった時代にやってきた鹿児島の南方人。決定的に違うのは、その後伊豆諸島からも石斧が見つかっていて、彼らが遠洋航海をして居たのはほぼ事実と見て良い。
ただ問題はアウトトリガーカヌーの存在。船が旧式のまま日本に来てしまった。ただこれ旧石器時代とは違う。そこは石斧が大きい。南方は伝統的にいかだ方式の船が発達してて、ここから中国の板を貼り付ける船が出来た。当時は多分アシなどの草類をくみ上げたいかだ船だったと予想されてる。南米のチチカカ湖の船が似てるかと。
丸木舟は一応進化してる。丸木舟は北方で進化したけど、アジアの場合起源は南方のこの石斧文化になる。何故か?は良く分かる。発達した木材加工の道具がそれをもたらしたから。
何故旧式でこの集団は遠洋航海が出来たのか?は謎。後日本のD系もこの技術を得たと思われるのが、九州からの沖縄ルートを確立してるから。広く土着の日本の民族にもこの技術が広がったと思われる。
渤海湾の集団はこのあたり怪しい。問題は中国から台湾のルートはどうなのか?になる。土器の技術が中国発なのと、次に中国大陸南方のO2系がポリネシアに広がってるので、リモートオセアニアの時期に中国から台湾に向かった集団がいるのは間違いないのと、宝貝がインド沖縄産じゃなく台湾産だと証明されたから。
江南の集団は渤海湾とは全く違う技術を持っていたのか?または中国から台湾の移動は特殊な特化した方法があった可能性。歴史的に台湾の存在は明確に残っていて、後は位置の問題になる。これを正確に把握していて、陸路沿いのチャーニーズ系程度の技術でも航海可能だったのではないか?と見ている。
前にも書いたけどポリネシア人の移住はフィリピンで発達したもので、台湾がルーツの文化でも航海技術自体はフィリピンで発達したのがハプロの系統から分かっている。島が多いフィリピンで独特の航海術が発達したのは必然の気もするから。
ただ渤海人は技術が高かった。日本に来た集団はまだ早いが、その後に来た集団は発達した鉄製の大工道具を持ち船自体の技術がとても高くて、それが日本にも影響を与えた。
それがいつの時代だったのか?は分からない。台湾で宝貝を取っていた集団は、沖縄にも来てるのは間違いない。沖縄で発見される加工技術に近いものが中国の貝の装飾品からも見つかるから。その場合台湾にやってきたマレー・インドネシア系がその担い手だった可能性はとても高い。その集団はおそらく九州に南方ルートで来てるのだから。
何故瀬戸内の集団なのか?と言うと瀬戸内の集団が東南アジアの習俗と良く似たものが残っているから。これは石斧文化はさすがに古すぎるだろう…。
後ちょっとややこしいのが、焼畑の起源になる。東南アジアの焼畑はアフリカのサバンナ農法が起源と言われてるけど、焼畑自体は世界各地で古くからある。農業があれば焼畑があるというぐらい。ただの農作物がアフリカ発のものが含まれるためそうやって言われている。東南アジアで農業が始まった話は聞かないので多分それも中国発だと思うが、どうやって中国発の焼畑とアフリカ式焼畑が融合したのかはさっぱり分からない。
台湾の焼畑はこの2系統があるからどっちなのか良く分からなくてややこしい。焼畑は遺物があまり残らないので、焼畑があったのは確かだが、B4A系の集団が持ってきた東南アジア焼畑だったのか?それとも中国発の焼畑だったのか?が分からない。これ日本の焼畑の陸稲が関わるのでかなり大事なんだ。




