お爺さんお婆さんの話
その老夫婦は子宝に恵まれなかった。
老夫婦は子供がいない点を除けば、怪我もなく、病気にかかることもなく、仲も良い順風満帆な生活を送っていた。
お爺さんもお婆さんも優しく、お互いに不満などない。十分に幸せな生活だ。
毎日幸せに平和に暮らしているお爺さんとお婆さんだったが、どこか心に空白がある。
きっとこの空白は子供でしか埋められない。お爺さんとお婆さんはそう思っていたが、お互い口には出さなかった。
そんなある日、いつも通り山での芝刈りを終えたお爺さんは家に帰った。
家には川に洗濯に行っていたお婆さんの姿が見える。お婆さんの方が先に終わっていたのか。
「ただいま、婆さん」
お爺さんは声をかけるが、お婆さんの返事はない。
どうしたのだろうか。いつもなら必ず「おかえり」とお爺さんを出迎えてくれるのに。
具合でも悪いのだろうか。お爺さんは不思議に思い、お婆さんに近づいた。
近づくとお婆さんが両手に何かを抱えているのが分かった。それを見てお爺さんは目を見開いて驚いた。
「婆さん……それは……」
「……お爺さん……」
そこでようやくお婆さんはお爺さんが帰ってきていたことに気づいたようだ。
「どうしましょう……わたし……わたし……」
震える声のお婆さんが両手に抱えていたのは生後数ヶ月の赤ん坊だった。スヤスヤと寝息を立て、お婆さんの腕の中で大人しく眠っている。
もちろん二人の子供ではないことはお爺さんは十分分かっていた。
では、その赤ん坊は何なのか。お爺さんは尋ねようとお婆さんを見ると、お婆さんの顔は真っ青になっており、体はガタガタと震えていた。
「婆さん……落ち着くのじゃ……。落ち着いて、何があったのか説明してくれ」
お爺さんはお婆さんを優しく宥めると、お婆さんはゆっくりと落ち着きを取り戻していった。
そして、お婆さんは語り出した。あれはお婆さんが川に洗濯をしに行ったときのこと……。
お爺さんが山に芝刈りに行っている間、お婆さんは川に洗濯に行った。
いつも通りの日常。平和で幸せないつもと変わらない日。
お婆さんが洗濯をしていると、同じく川に洗濯しに村の若い娘が二人やって来た。娘の片方は赤子を抱いており、亭主持ちなのが分かる。
娘達は話しながらやって来て、お婆さんには気づいていないようだった。
赤子を側に置き、洗濯物を持ってきてはいたが、話に夢中で手はほとんど動いていなかった。
若い娘達の会話にわざわざこちらから話しかける理由もないため、赤ん坊を羨ましそうに見ていたお婆さんも自分の洗濯を再開する。
洗濯をしている中、隣の娘達の会話が聞こえてくる。
会話の内容はそのほとんどが愚痴だった。夫の悪口、女友達の妬み、赤子の世話の気苦労。聞いていてあまり気分の良いものではなかった。
他人の話を盗み聞きするのも良くないと思い、出来るだけ聞かないようにするお婆さんだったが、赤子の話だけは子供を望むお婆さんにとって、どうしても耳に入ってしまう話だった。
しかし、その内容はあまりに酷かった。
遊びのつもりだった。子供を産む予定ではなかった。
世話が面倒臭い。あの男の血が入った子など育てる気にならない。
気の迷いだった。産むんじゃなかった。後悔している。
話の内容にお婆さんは憤りを感じた。
自分達夫婦が望んでも得られなかった宝を産むつもりではなかったと。挙げ句の果てには後悔しているなどと。
腹立たしい。妬ましい。憎らしい。
これ以上ここにいたら、怒りでどうにかなりそうだ。お婆さんは怒りを堪え、その場を離れようとした。
その時、赤ん坊がオギャーと泣き叫んだ。腹が減ったのか、おしめを替えて欲しいのか、はたまたずうっとほっとかれて寂しくなったのかは分からない。
赤子の母である娘は舌打ちをして、赤子を抱きかかえた。
娘は赤子をあやそうを試みるが、一向に泣き止まない。
娘はイラつくように頭をかくと、赤ん坊を下ろし、もう一人の娘と共にどこかへ行ってしまった。洗濯物もその場に放置しているから、おそらく赤子をあやすための何かを取りに戻ったのだろう。あろうことかその赤子を放置して。
お婆さんの足は自然と置き去りにされた赤ん坊へと動いた。
泣いている赤ん坊の柔肌は艶々としていて、頭でっかちな体は桃のように小さくとても可愛らしい。
「よーし、よしよしよし」
お婆さんは赤ん坊を優しく抱きかかえた。
そして優しくあやすと、赤子はキャッキャッと泣き止み、笑った。
ああ、なんて可愛らしい。
他人の子供でもこんなにかわいい。この赤子が自分の子供ならどれだけ良かったことか。
子供が欲しい。
半ば諦めていたその願いは、やはりそう簡単に諦めきれるものではなかった。
他人の赤子をあやすことでお婆さんの中にあった気持ちが甦った。
子供が欲しい。子供を育てたい。子供と一緒に暮らしたい。
この赤子があの母親の元で幸せに暮らせるとは思えない。それならわたしの方がこの赤子を幸せにできる。
今、この赤子の母親はいない。
今ならば…………。
お婆さんが気づいたときには、すでに赤子を洗濯物で包み、周りに気づかれないように自身の家に帰った後だった。
「お爺さん……わたし……なんていうことを……」
泣きそうな声で話を終えたお婆さんは助けを求めるようにお爺さんを見た。
どうしたものか。お爺さんは考えた。
お爺さんもお婆さんと同じぐらい子供が欲しいと思っている。
お婆さんの話を聞き、お爺さんもお婆さんと同じ気持ちだった。その娘にこの赤子を育てさせるぐらいなら、自分で育てる。もしお爺さんがその場にいてもお婆さんと同じ行動をしただろう。だから、お爺さんにお婆さんを責めることはできない。
それに責めるまでもなく、お婆さんは反省も後悔もしている。罪悪感に押しつぶされそうなほどに。
お婆さんはとても優しい人だ。このままでは他人の赤子を誘拐した罪悪感でまともに生活はできないだろう。
じゃあ、この赤子を元の母親に返すか?
いや、あんなの母親でもなんでもない。あんな自分の子供を愛せないような母親の元に返しても、この赤ん坊は幸せにはならない。
自分達ならこの赤ん坊を幸せにできる。お爺さんとお婆さんが大切に育てる。
なにより、二人は子供が欲しい。二人にはこの赤ん坊が必要だ。
お爺さんの心は決まった。
そのためにはお婆さんの罪悪感をどうにかしなければならない。
しかし、失くせと言って失くせるものではない。
だから、お爺さんは一つ嘘をつくことにした。
お婆さんを罪悪感から救う嘘を。
「婆さんや……この子は……捨て子じゃ……捨て子だったんじゃ……」
「お爺さん……なにを……」
何を言ってるか分からない。
そんなふうなお婆さんにお爺さんは昨日食べた桃を思い出した。
「この子は……桃から生まれた……。婆さんが川で洗濯をしているときに、川上から大きな桃が流れてきたんじゃよ。この子はその桃から生まれたのじゃ」
「………………」
できるだけ大きな嘘がよかった。
下手に現実的な嘘でお婆さんが人の子を盗んだということを思い出してしまってはいけない。
それならば、現実離れした嘘にしよう。誘拐とは結びつかない空想的な嘘にしよう。
あとはお婆さんがこの嘘を信じるかどうか。
お爺さんは固唾を飲んで、お婆さんの反応を待った。
お婆さんの言葉は…………。
「……そうですね。お爺さんの言う通りです。わたしは川で桃を拾って、この子はその桃から生まれたんです」
お婆さんはお爺さんの嘘を信じることにした。
お婆さんも罪の意識から逃れたかった。罪悪感なくこの子を育てることを望んでいた。
だから、信じることにした。
自分の行動に、記憶に嘘をつくことで、お婆さんの中の罪悪感は消えていった。体の震えも収まった。
「この子の名前は……桃から生まれたから桃太郎にしよう」
「ええ、いい名前ですね、お爺さん」
二人は桃太郎を育てることを決めた。桃太郎が桃から生まれたという嘘の記憶とともに……。
ちなみに……、この村には『鬼』の言い伝えがある。
赤子の行方不明は鬼の仕業だと処理され、お爺さんとお婆さんが疑われることはなかった。