閉館を忘れた日 ①
そのお客さんは、年季の入った茶色い革のジャケットに、これまた年季の入ったジーンズという格好をした男だった。
しかし、その年季とは裏腹に、着ている本人はまだまだ若々しい。俺より少し年上くらいだろうか。
砂利の駐車場にバイクに乗った彼が現れた時、スティーブ・マックイーンか、ブラット・ピットが来たのかと思った。
彼のバイクもずいぶん古そうなものだった。すごくデカくて、重心が低そうで、低いエンジン音をうならせる。まさに鉄の馬だった。
彼は、まだやっているか? と尋ねてきた。
俺は、ええ、どうぞ。と、彼を迎え入れた。
タオルを貸してあげると、すまない。ここは何時までやっている? と、また聞いてきたので。
気にせず、何時間でもいてください。と、俺はこたえた。
本来なら、夜十一時が閉店なのだが、まあ、いいかな。と、なぜか思ってしまったのだ。
だいぶ寝てしまったせいで、今夜はしばらく眠れそうにないという気もしたのだ。
彼のカッコイイ革ジャンを預かり、ハンガーにかけてあげた。
「ドリンクは温かいものだと、コーヒーと紅茶、あと煎茶もあります」
俺はテーブルついた彼にメニューを差し出した。
「コーヒーを、恐ろしく熱いやつがいい。それと、何か食うものはあるか?」
やはり寒かったのだろう、彼の組んだ手は微かに震えている。
「この時間だと、できるものは少ないのですが、ホットサンドと、あとスイートポテトタルトならすぐに用意できますよ」
「ありがたい。……それじゃあ、両方いただきたい」
「かしこまりました。……どうぞ、本はご自由に読んでください」
俺は小さな小さなカウンターに入ると、電気ケトルのスイッチを入れた。
食パンを用意して、ホットサンドの準備をする。
彼は、本棚の方に歩いてゆく。そして、真剣に丁寧に、時々本を手に取ってはページを捲っている。
俺は沸騰したお湯をカップに注いだ。彼の注文である”恐ろしく熱いやつ”の為に、カップをしっかりと温めることにしたのだ。
さらに、ドリップしたコーヒーを小さな片手鍋に入れて、IHで少しだけ沸騰させた。
「こちらに置いておきます」
俺は彼が座っていた席に熱々のコーヒーを置いた。
「ああ。すまない」
彼は本棚の前で、一冊の本に目を落としながらこたえた。
どうやらお気に入りの一冊が見つかったようだ。
俺は、椅子の脇に置かれた彼の大きなバッグを見た。
これまた年季が入ったものだ。そこから滲み出した雨水が、床に染みを作っている。
それを見ると、きっと彼はずっと遠くから来たんだなぁ、となぜかそう思った。
俺はカウンターに戻ると、ホットサンド作りを再開させた。
彼は、一冊の本を手にテーブルに戻ってきた。
そして、コーヒーカップにゆっくりと口をつけ、「ああ、うまい」と唸ったのが、こちらにも聞こえてきた。
ホットサンドの中身は、スクランブルエッグとハムとチーズだ。とりあえず今ある具材がそれだった。
水気をよく切ったレタスを添えて皿に盛りつける。
スイートポテトタルトは出来合いのモノだ。これはそのままでも美味しいが、温めなおすことにした。
「おまたせしました。ホットサンドと、スイートポテトタルトです」
「ありがとう。腹が減って死にそうだったんだ。もう一万年くらい何も食べてない気がする」
彼は読んでいた本から顔を上げ、そんな冗談を言った。
彼が読んでいた本をチラリと確認すると、ピエロのメイクをした少年の表紙が見えた。
それは、高橋 歩の『人生の地図』だった。
ああ、やはり。彼は旅をしている人なのか、と妙な確信を得た。
「コーヒーはおかわり無料です。それではごゆっくり」
そう言って、俺はカウンターに戻った。
彼は本当にお腹がすいていたようで、あっという間にホットサンドとタルトを平らげた。
平らげた後、ただただ本を読んでいた。とても静かに。
なんだか俺は、彼のことがとても気になってしまったのだが、できるだけ彼に意識を向けないように心掛けた。
あまり視線を向けていると、早く帰ってくれ。と、催促をしているように勘違いされてはいけないと、思ったからだ。
俺は、小さなカウンターの中で、とりとめもなくノートパソコンをいじっていた。
ネットニュースを見たり、ネットオークションで本を探したりだ。
彼は、本当に静かに本を読み続けていた。
どれくらい経っただろうか。
彼は、静かに顔を上げ、
「すまないが、ご主人」
と言った。
一瞬、俺は自分が呼ばれていることに気がつかなかった。
そうか。店の主のことをご主人と呼ぶこともあるのか。と思い至った。が、随分と古風な気もした。
「はい。なんでしょうか?」
「コーヒーの、おかわりを貰えないだろうか?」
「ああ、かしこまりました」
「それで、その……」
「恐ろしく熱いやつ……、ですね?」
彼は、かっこよくニヤッと笑って、
「ああ。そう。恐ろしく熱いやつを……。わがままを言ってすまない」
「いいえ。では、少々お待ちください」
俺は、なんだか彼がコーヒーをおかわりしてくれたことが嬉しかった。
なんだか、そうするとわかっていた気さえする。
俺は、超特急で熱々のコーヒーをこしらえた。
「お済みのお皿をお下げ致します」
そうしてから、俺はテーブルにコーヒーを置いた。
「いい店だな」
彼は、そんなかっこいい台詞を言ってくれた。
「ありがとうございます」
俺は丁寧にお辞儀をしてこたえた。
「ここは、長いのか?」
「いえ、そんなでもないです。去年からです」
「そうか。でも凄くいい。機会があればまた来たい」
「いつでもどうぞ。お待ちしております」
彼は静かにコーヒーに静かに口をつけた。
すごく名残り惜しそうにそうした。その一杯で、彼はここから出てゆくのだとわかった。
だから俺は、
「その本!」
なんだか慌てるように声をかけてしまった。
「え?」
「……その本。もしお気に召したのでしら、レンタルもできますよ。一応、うちは図書カフェをうたっておきながら、私設図書館のつもりなので」
「……しかし、いつ返せるかもわからないしな」
「あ、それは気にしないで下さい」
実際、返ってこない本もある。
一応、貸出票なるものは発行しているが、身分確認など大げさなことは何もやっていない。
「それはなんだか悪い……」
「その本、いいですよね。なんだかすごく勇気を貰えるというか……。俺が、この店をはじめるきっかけにもなった本なんです」
「この店を?」
「そうです。俺、この店を貰ったんです。正直言いますと、実は、成り行きで店長になってしまったというか……」
「そりゃあ、なんだか面白そうな話だな。よければご主人。聞かせてくれないか」
やはりまだ”ご主人”と呼ばれるのは慣れない。
俺は、彼に促されるまま向かいの椅子に座り。
この店の成り立ちを話した。
「祖母が、遺産としてこの物件を俺に譲ってくれたんです。私設図書館を開く資金も一緒に」
「なぜ、おばあさんはそんなことを?」
「いい歳して、定職にもつかずフラフラしている俺に、職を与えたかったんだと思います」
「いいお婆さんじゃないか?」
「そうなんでしょうけど。そこまでしてもらうのは、……なんというか。ちょっと、重かったですね」
「でも、今や立派な一国一城の主だ」
「いやあ。そんな大げさなモノではないです。それに……、正直、まだ戸惑っているんです」
「何をだ?」
「よくわからないんです。もちろん、楽しいことも沢山あります。こう見えて、お客さんも結構来てくれるんですよ。それはすごく嬉しいし、ありがたいことです。だけど」
「だけど?」
「俺じゃなくてもできることです」
彼は真剣な目でこちらを見てくる。
「店主は、この店を持つことを望んではいなかったのか?」
「わかりません。……本は好きなので、こういうのもいいなぁ、と思って、祖母に話したこともあったんです。祖母はちゃんと覚えてたんですね。ちょっとした思い付きなだけだったのに」
「もしかすると、ご主人には、本当にしたかったことが他にあるのか?」
「はい。実は、……恥ずかしい話ですが、小説家になりたかったんです。東京の専門学校にも通ったんですが。どうも、才能がなかったみたいで」
「物書きか、よくは知らないが、難しそうだ」
「そうです。難しかったんです……。アルバイトで食いつなぎながら、新人賞に応募したり、ネットに投稿する小説を書いたり……、まあ、つまり割と自堕落な生活をしてたんです」
彼はくっくっくと笑った。
「自堕落とは甘美なものだよな。自分にも身に覚えがある」
「そうですね……。でも、何かしなきゃ何かしなきゃ、とはずっと考えていたんです。そんな時、その本と出会いました。……そして、同じころに祖母が亡くなったという知らせが来たんです」
店の中には、雨だれの音と、時計の針の音が響く。
「俺も……」
彼は、意を決したように話し出してくれた。
「俺も、一つの城、一つの国を束ねていたことがある」