(第肆和 兄弟のあやかし様
金狐と屋根の掃除をし私が予習を終えた昼時、銀狐が折り良く買い物から帰ってきた。それから二人と昼食を済ませて、三十分後、予定通り私の部屋で銀狐との勉強会が始まる。
「――聞こしめせ」
「まあまあですかね」
まず開始早々、昨日の宿題の三雲祓詞を唱えさせられた。緊張で途中噛んだものの、一定の評価に私は小さな拳を握り喜んだ。
「やった!」
「菊理、“まあまあ”で満足してはいけませんよ。明日、明後日、忘れていたら意味がありません。毎日、勉強の初めに御復習いします。いいですね」
「……はい」
尤もな意見に首肯せざるを得ない。ただの暗記はすぐ忘れてしまう特徴がある。受験勉強と感覚が似ていた。
「さあ菊理、今日は妖狐以外のあやかしについて教えますね」
「あ、う、うん!」
私は急いでノートを広げ、鉛筆を持って態勢を整える。しっかり書きとめなくてはいけない。
「お願いします」
「はい、では」
こちらの準備を待ち、銀狐が説明に移った。私に気遣ってか、ゆっくりな口調だ。
「狐火山にいるあやかしは妖狐ですが、狐火山の後方にある岩狸山のあやかしは妖狸と言います。向かって右隣にある蛇沼岳のあやかしは妖蛇、蛇沼岳の後方の鋼鼠山のあやかしは妖鼠、向かって左隣の三日月兎山のあやかしは妖兎です」
「……ようり、ようだ、ようそ、ようと……、じゃあ喜雨麿を襲った狸って」
「はい。岩狸山の妖理です」
私の語尾を奪う形で銀狐が告げてくる。細まった眼光は棘々しい。
「えっと……ねえ銀狐、あのとき見た狸は野生の姿だったよ? まさか妖力が低い子供だったり?」
私は恐る恐る訊ねた。もし幼い子供だったとすれば――やはり自分の良心に悖る。
「妖力が低い子供は獣姿と言いましたが菊理、妖力が高く形を獲得したあやかしは変化が自由自在なのです。喜雨麿さまの獣姿を見たでしょう? 貴女が遭遇した妖狸は優に二千を超える立派な“あやかし”……、菊理、貴女の道徳心、親切心、同情心につけこむ“あやかし”は巨万といます。野狐で学んだでしょう、見た目や年齢であやかしの善悪を判断してはいけません。死にますよ」
「うっ、……はい。ごめんなさい気をつけます」
銀狐に諄々と言い諭された。先日の一件を思い出す、言い返せない正論だ。
反省の弁を述べる私に銀狐は「宜しい」と頷き、淡々とした語調で話を続けてくる。私は緩んだ指に力を入れ、再びカリカリ鉛筆を走らせた。
「人里や異界と繋がる狐火山の九百鳥居同様、他の山にも鳥居があります」
「鳥居……」
「はい。狐火山と岩狸山を繋ぐ八百鳥居、岩狸山と蛇沼岳を繋ぐ七百鳥居、蛇沼岳と鋼鼠山を繋ぐ六百鳥居、鋼鼠山と三日月兎山を繋ぐ五百鳥居です」
「へえ……」
狐火山の九百鳥居と異なり、他の鳥居は初耳だ。興味はあるけれど決して顔に出さない。
「潜る際、その地の長の許しは必要ありません。ですが命の保証もありません、すべて自己責任です」
「……わかり易いね」
危険な鳥居だ。絶対に迷い込みたくはない。
「どこも結界が張ってあり空間は捩じれています。人間は辿り着けませんが……、菊理、余計な行動は慎んで下さいね」
そうジト目で銀狐が苦言を呈する。すっかり私は問題児だ。
「大丈夫だよ!」
「菊理の『大丈夫』が私は不安ですよ」
「失礼な……」
ため息交じりに返され、ムッと眉間に皺を寄せた。だけど嫌味は感じ取れず、素直に言葉を受け取る。
「やっぱり銀狐って優しいよね」
「……いきなり何ですか」
「ううん、私にとってはいきなりじゃないよ。私が屋敷に住むことで喜雨麿の心配したり、会って間もない私の分まで美味しいご飯用意してくれたり、喜雨麿の言いつけとはいえ私の教育係になってくれたり、銀狐は優しい」
「…………」
「……銀狐?」
ぺらぺら語っていた私は、突如、何の反応も示さず黙り込んだ銀狐に首を傾げた。何か彼の気に障る発言をしてしまったのだろうか。
(……謝ったほうがいいかな)
異様な雰囲気だ。何とか空気を変えたいと思考する、が刹那、銀狐が沈黙を破った。
「あ、いえ……すみません、少々、驚いていました」
「え?」
「優しいなど、初めて言われました。ありがとうございます」
「あっ、ううん」
(何だ……、照れてたんだ)
頭を垂れる銀狐の、狐耳の内側が淡い桜色だ。私はほっと息を吐き、笑って告げる。
「私のほうこそ、ありがとう。昨日、幽霊騒ぎで仕事させちゃってごめんね……」
「いえ構いません。菊理そろそろ休憩にしましょう、桜餅はお好きですか?」
「好き!」
「作った甲斐がありました」
甘い物とハンバーグは大好物だ。間髪を容れず答えた私に銀狐はふわり表情を和らげ、腰を上げながら「せっかくです、板間で頂きましょうか」と加えて言った。
「うん! じゃあ私、金狐呼んでくるね!」
私はスッと立ち上がり、金狐のいる座敷へと急いだ。銀狐の手作り桜餅を早く食べたい。
「……順応性があり天真爛漫、金狐が気を許すはずですね」
口元に手を添え、銀狐が独りごちる。彼の満面の笑みは、誰もいない部屋で零されたのだった。