(第参和 あやかし様の狐火
二週間ずっと同じ夢をみる。両親が「さよなら」と私に背を向け、どんどん離れていく悪夢だ。追いかけても追いかけても、決して距離は縮まらない。
『お父さん! お母さん! 待って! 待ってよ!』
当たり前の日常が一瞬で崩れる。澱みに浮かぶ泡沫は記憶の断片を映し、手を伸ばせばパチンと割れ、まるで二度と交われない現実を思い知らされているようだった。
闇の淵で蹲る。世界で独りぼっちになった、幻であってくれと願う心はぐちゃぐちゃだ。
「――ぅんッ」
悲しみに押し潰される。胸が苦しい。
「もっ、……だめ!」
私はあまりの重さに飛び起きた。ハア、ハア、と額の汗を拭い呼吸を整える。どうやらまた、魘されていたらしい。これで十五回目、新記録更新だ。
「……ん? ってあれ、……え、いま何時?」
辺りは暗い。周りを見渡しつつここが自分の部屋だと確認し、曖昧な記憶を探って最後の欠片――休憩の二文字を思い出した。
「喜雨麿が『休憩しよう』って……、ああ~、私もやっぱり寝ちゃったんだ。制服のまんまだし気遣ってくれたんだよね、面倒かけちゃったな……」
自分が潜り込んでいる、菊柄の布団を敷いてくれたのは恐らく喜雨麿だ。菊の香りがする。
「――――ッ」
(な――、に……)
ふいに悪寒が走った。背筋が凍る、ぶつぶつ鳥肌が立った。
間を縫い、ちらり、部屋の隅を見やる。白い着物に身を包んだ女性が立っていた。青白い唇がにたり三日月型に割れる。長い黒髪から覗く目は――抉れて無い。
「……ヒッ、……ヤッ」
私は死に物狂いでガサガサ床を這い、仕切りの襖を躊躇なく開け、隣の部屋に逃げ込んだ。
案の定、彼が寝ていた。喜雨麿である。
「起きて! 喜雨麿! ねえ!」
「んっ……んぅ……」
「起きて! 助けて! 私死んじゃう! ねえってば!」
必死に喜雨麿の身体を揺さぶった。幾千を生きるお爺さん改め妖狐は中々、目覚めない。
「喜雨麿! お爺ちゃん!」
「んん……、菊理……かい? いけない子だね、夜這いとは……」
ようやく、寝惚け眼で彼が起き上がる。私は誤解だ、と正面を向いたまま震える人差し指で後方を指した。
「ゆっ、ゆゆ、幽霊ッ! 女の人! 幽霊がッ! ニタッ、て!」
「……幽霊?」
眉を顰める喜雨麿が立ち上がり、憚りなくすたすた私の部屋に踏み入る。現状ひとりでいられない私は、急いで喜雨麿の背に張りついた。ぎゅっと和装の寝巻を握る。
「い、いた? 隅っこだよ……」
「いや……、いないね。本当に何かいたんだね? 菊理」
問い返されて私はこくこく頷いた。こんなタチの悪い嘘、好き好んでつくはずがない。私は大の、大の、幽霊嫌いだ。
「いたの! 長い髪で! 目が抉れてなかった! 私だって信じたくないよ! のっ、呪われる!」
「何か怖い夢をみなかった?」
「みたよ怖い夢みた、ケド……ッ、も、やだ……、帰りたい……!」
半泣きで彼の背中に縋る。喜雨麿はそんな私の手を優しく掬い取り、今度はゆっくりした歩調で自身の部屋に招き入れてくれた。
「案ずるな菊理、こちらにおいで」
「…………」
喜雨麿に導かれ、私は無言で布団の上に座る。抵抗はしない。
「大丈夫だよ。私がいる」
私の目元に溜まった涙を掬い、喜雨麿が微笑んだ。そしてくるり踵を返し、両手で縁側方面の襖を開け広げると廊下を越え庭園に出た。驚くほど軽やかな動作だ。
そこへ突如、金狐と銀狐が現れる。
「喜雨麿さま? 何故、丑三つの刻に」
「菊理の恐怖にめざとく鼻を利かせ、隠り世の零体が結界を破り紛れ込んだ」
銀狐の質問を遮り、喜雨麿が答えた。金と銀の瞳孔が細まる。眼光は棘々しい。
(私の恐怖に……、私が霊を……)
呼んだ張本人だった。どうしよう、この騒動は自分のせいだ。
「喜雨麿……ッ! 私の――」
「菊理、根本を間違えてはいけない」
そう私の言い分を制す喜雨麿は、スッと右手を真横に延ばした。刹那、鮮やかな丸い光の玉がたくさん宙に出現する。ゆらゆら揺らめく淡い紫の灯りはとても美しい。
(狐火、だよね)
夜の帳に狐火が舞った。直後、反り橋ら辺に集まり大きい炎が燃え滾る。
「ギャアアアア」
瞬間、悲痛な呻き声が轟いた。渦巻く炎の中心で足掻くはあの――髪の長い女性だ。
「狐火山で彷徨う亡霊よ、私の屋敷に無断で侵入した罪を常闇にて反省するがよい」
風が夜空を貫き雲を掃う。強い語気で言い放った喜雨麿の表情は窺えない。
「アガッ、ガァッ、ギッ……」
狐火が空気に溶ける。喘いでいた女性も忽然と消え、身を翻す喜雨麿が戻ってきた。
「狐火山は三千界、妖界、霊界と繋がっている。たまに境界の位置を見失い居座る阿呆が、アレだよ。人間の恐怖を喰らいたがる厄介者さ」
喜雨麿の説明に私は眉尻を下げる。居た堪れない気持ちだ。
「大丈夫、菊理は独りじゃない。私がいる。まあ、金狐と銀狐もね」
「……ッ」
悪夢の内容を見透かされていた。継いで告げられた言葉に私は両の掌で顔を覆い、弱い涙腺を目一杯押さえつける。
「素直に泣けよ餓鬼」
金狐の呟きは無視だ。絶対、相手にしない。
「金狐、やめなさい。菊理が傷つきます」
「――ッテ」
「喜雨麿さま、私共で屋敷の結界を修復し強化ます。どうぞ今宵はお休み下さい」
銀狐が金狐をはたき、軽く頭を垂れて喜雨麿に告げた。本当に似つかない兄弟だ。
「ああ、任せよう」
「はい」
「あ……っ」
喜雨麿の承諾で二人は颯爽と去る。迷惑をかけた謝罪は次に持ち越しだ。仕方ない。
「さて菊理、寝直そうか。一緒に寝るかい?」
「ううん部屋に戻るよ――さっきの、嬉しかった。ありがとう」
喜雨麿の冗談は流し捨て、一拍後、私は彼の袖の裾を掴んで礼を言った。すぐ頭上で笑う気配がする。
「良い子、良い子」
「…………」
期待を裏切らず、喜雨麿は私の頭を撫でてきた。だけどいまは、いまだけは、彼の子供扱いに酔うことを許してほしい。
(お父さん……、お母さん……、頑張るよ私)
流れ星が両親に鎮魂曲を奏でてくれる。無駄に生きない、安心させたい、命を粗末にしない、二人の分まで生きたい。私は心中で両親に「またね」と笑顔で手を振ったのだった。