*第参和 あやかし様の狐火
「もっとそっち、そっちですよ、金狐」
「ア゛ア゛!? やってんじゃねえかッ!」
「一々、怒鳴らないで下さい。ほら早くもっとそっちの角に寄せて、喜雨麿さまと菊理が帰ってきますよ」
「……クソッ!」
桐たんすを一人で抱える金狐は舌打ち、銀狐の指し示す場所にそれを置いた。どすん、と鈍い音が響き渡る。
「御苦労、次はその飾り棚をお願いします」
「へいへい、ったくよお」
金狐はぶつぶつ愚痴を零しながらも、銀狐の指示の元、次々に家具を部屋に運び入れた。
* * *
――好きな部屋を選ぶといい。
喜雨麿が今朝、私に言った言葉だ。だけど狐火山から屋敷に帰ると、すでに私の部屋は喜雨麿の希望で彼の隣――襖仕切りで納戸付き和室八畳の場所に決定していた。
(私に選ばせる気ないよね、絶対)
丸い飾り棚、桐たんす、桐チェスト、木製のちゃぶ台、化粧鏡のメイク・コスメボックス、必要な物は粗方用意されてある。至れり尽くせりだ、これでは仕方なく“希望”に従うしかあるまい。
「――り、菊理、集中して下さい」
「あっ、はいっ」
名前を呼ばれハッとした。午前十時半、私は銀狐とあやかし勉強真っ只中である。
狐火山や妖狐に一面識で疎い私のため、喜雨麿が銀狐に『教育』を申しつけたのだ。
きっと断ると思った――、が意外だった。銀狐は嫌な顔ひとつせず、こうやって私の面倒を見てくれている。やはりここのお狐様は皆、何だかんだ優しい。
「狐火山の狐は野良の狐と善良とされる狐の善狐、二種類になります。野狐は人間に害を及ぼす狐、ですが害を及ぼさない野狐もいます。逆に善狐で性質が悪いものもいます」
「野狐……、野狐は狐の姿なの? 喜雨麿や銀狐・金狐みたく妖狐なら人間、……と似た容姿になるの?」
「野狐で妖狐のものもいますよ。仰る通り、長い年月で妖力を増した妖狐だけが『形』を得られます。菊理が狐火山で会った野狐はまだ妖力の低い子供、また善狐も妖力が低ければ『獣』のような姿です」
「へえ……、成程うん」
少し納得した。久々に持つ鉛筆でノートに書き込みながら、話す銀狐の声に耳を傾ける。
「いいですか菊理、狐火山の『神隠し』は実在します」
「――えっ!? 嘘! 本当に神隠しってあるの!?」
狐火山に一歩踏み入れば神隠しにあう、それは地元で有名な“七不思議”の一つだ。私は目を見開き、銀色の瞳を直視した。
「野狐の仕業です。野狐は人間を九百鳥居に誘い、気まぐれで命を弄びます。九百鳥居は善狐の住む地に登る道、その途中の四百十三本目で野狐は人間の生死を決めるのです。善狐への当てつけ、人間への悪戯心、でしょう。……菊理、喜雨麿さまの迎えに感謝なさい」
「……うん、ありがとう喜雨麿」
無知は恐ろしい。私は改めて、あのとき自分がどれほど危なかったのか痛感する。
「菊理、もし貴女が万一、想像もしたくありませんが九百鳥居に迷い込んだ場合の対処法を教えておきます」
「はは、はい! お願いします先生!」
呪文でも何でもいい。緊急時の際、覚えておけば安心だ。
一指し指を立てて言う銀狐に、私は視線で先を促した。刹那、一枚の紙を渡される。並んだ文面は達筆で美しい。
「三雲祓詞です」
「え、っと……? み、みくも、のはらへことば?」
「しっかり発音なさい。三雲祓詞、邪気を祓う言霊です」
「み、三雲祓詞、……雲という……艸、……あり?」
「艸と書いて『くさ』と読みます。雲という艸あり、です」
「……難しいね」
ふりがなを打ち、目で文字を追った。
「中学までに習う漢字ですよ。あとは読めるでしょう?」
「う、うん。ありがとう」
確かに残りは大丈夫だ。私は再度一読し、顔を上げ、銀狐に訊ねてみる。
「銀狐は漢字に詳しいね? どこかで習ったの?」
「いいえ独学です。日本で作られた国字、歴史、文化はすべて記憶にあります、伊達に長生きはしてませんよ」
そう一本調子ですらすら答えた銀狐は、語尾に「金狐は別ですが」とつけ足した。若干、唇が尖っている。初めて見た新しい表情だ。
「ふふッ、金狐は別なんだ? じゃあ、銀狐は博識なお狐様だね」
「私が――」
「うん?」
「博識、ですか」
「うん!」
笑顔で首肯した。すると正面に座った銀狐のが突如、無言で頭を撫でてくる。冷たい掌が心地いい。
「……私、何か褒められてるの?」
「いいえ、気分です」
あっさり否定された。けれど特段、理由は追及しなでおこう。
「すみませんが菊理、そろそろ私は昼餐の準備に取りかからねばなりません。三雲祓詞の暗記、明日、確認します」
銀狐は指先でトントンと紙を叩き、私に宿題を言いつけた。そして縁側の廊下に出、立ち替わりで喜雨麿が現れる。背に光を浴び、風で舞う髪、現世の妖狐は艶やかに妖しい。
「菊理、勉強は楽しかった?」
「楽しかったよ、数学の勉強よりは」
「……フフ、頑張ったご褒美は昼餐に期待だね」
喜雨麿は薄い笑みを口端に刻み、私の隣に腰を落ち着かせ身体を預けてきた。ふわり鼻先を掠るは菊の香りだ。
「重いよ喜雨麿」
「休憩しよう菊理」
苦情を唱えた私を意に介さず、喜雨麿は気持ちよさげに目を閉じる。綺麗な寝顔が羨ましい。
「……ふあ」
喜雨麿につられ、眠気が襲ってきた。全身の倦怠感に抗う体力はない。視界がぼんやりする。
「おやすみ、菊理」
「……ん」
遠退いた意識は戻らない。喜雨麿の腕に包まれる私は、完全に夢の中へ旅立ったのだった。