(第弐話 あやかし様と野狐
「おや……、菊理がいませんね」
「あん? 菊理? そういや、そんな人間いたな。腹満たして帰ったんじゃねえの」
興味なさげ返す金狐に銀狐はやれやれと首を振り、縁側で寛ぐ喜雨麿の傍に駆け寄った。
「喜雨麿さま、菊理がおりません」
「よい。庭園におる、散歩だ」
「左様で……。ですが喜雨麿さま、見る限り庭園に菊理はおりませんが」
銀狐の言葉に喜雨麿は庭園に視線を投げる。確かに、そこに先程までいた菊理の姿はない。
「世話の焼ける」
眼光鋭く、喜雨麿はのらり、立ち上がった。
* * *
「……広いなあ」
視線を巡らせる。食事を終えたいま、私はひとり曠然たる庭園にいた。一か八かで喜雨麿に頼んだところ、『屋敷内を出ない条件』ですんなり散歩の許可が得られたのだ。
「はあ、本当に私ここに住むの?」
清々しい空を見上げ、嘆息する。完全にキャパシティーを超えた状態、この短時間で物事が進展し過ぎだ。
(……狸に襲われてる狐を助けて、それが九尾の喜雨麿で、何の因果か気に入られて屋敷に住む羽目に……、挙句……)
彼は恩返しとやらで、私を帰す気はないらしい。行く当てのない私にとってこれは不運なのか幸運なのか、相手があの狐火山の『妖狐』だからわからない。
「……いい人、……いや狐、なんだケド」
私は自分がどうすべきか考えながら、春の匂い漂う樹木の下を歩いた。見事な木漏れ日にぼろぼろの精神が癒される。
刹那、蚊の鳴くような声が聞こえた。
「……ヤ。……イ……」
「なに……?」
「……ウ。……ウ」
「――……?」
辺りは静かだ。だけど、うまく耳に届いてこない。誰かいるのだろうか?
(……喜雨麿?)
私は一定の歩調で更に奥へ進んだ。
苔むした反り橋を渡り、自然の織り成す幽玄の美に見惚れつつ九段の石段を上り、朽ちかけた木の鳥居を潜る。直後、急激に身体が冷えた。震える肩、澄んでいた空気も心なしか生臭い。
(太陽の光も……)
遮断されている。視界が開けた陰の世界は、薄暗さが不気味だ。
「……ちょっと屋敷と離れちゃったかな」
「……オイデヤ、オイデ……キュウヒャクトリイ、オイデヤ、オイデ……」
振り返る寸前、今度は鮮明に濁声が聞こえた。誓って言う、声の主は『喜雨麿』ではない。
ならば、いったい――。
(ま、まま、まさかね……。いない、いない、有り得ない)
脳裏を掠めた『アレ』は非現実的で非科学的なものだ。声質から察するに、きっと迷子の老人であろう。
(うう……よ、よし!)
何事も勢いが大事だ。私は生唾を飲み、身体をバッと反転させた。
「――お困りです、か……って嘘!! ええ!?」
思わず二度見する。想像の“アレ”でも“老人”でもない、予想外の動物がそこにはいた。愛くるしい『子供の狐』だ。
「アソボウ……アソボウ……」
「やっぱりキミ、だよね」
声の出所は狐で間違いない。
「オイデヤ……、キュウヒャクトリイ、……オイデヤ」
「喋る狐……」
ビックリしたものの、喋る小狐は『彼ら』のお陰で多少の免疫がある。もし“アレ”であったら失神していたに違いない。
内心ほっとした。瞬間、身体が後ろに引っ張られる。
「――いけない子だね、菊理」
「……っ」
風で靡く単衣と長い白髪、気配なく現れた人物は菊の香り纏う喜雨麿だ。私の腰に細い腕を回し、ぐっと距離を縮めてきた。
「喜雨麿、ちょ、イタッ、……い!」
「無断で屋敷を出た罰だよ」
「……ッ」
怒りを含んだ紫の瞳に息が詰まる。二の句が継げない。
喜雨麿は力を緩めぬまま、鋭い語気で小狐に言い放った。木々が騒がしくなる。
「立ち去れ、幼き野狐と言えど加減はせんぞ」
「――ッ、――ッ」
小狐の足音が一瞬で遠退いた。同時に私の身体が開放される。軋んでいた骨は折れていない、無事だ。
「菊理」
「……はい」
名前を呼ばれ返事をする。案の定、説教が始まった。
「屋敷を出、何故、野狐を追いかけた?」
「や、野狐……? 一般的な狐の……」
「狐火山に一般的な狐はおらん。野狐は人間に害を及ぼす、野良の狐だ。何故、追いかけた?」
再度、問われる。正直に答えるしかない。
「……声が聞こえて……、確かめに」
「ほう。狐火山にいる自覚がない阿呆なのか? 狐火山を狐疑しない阿呆なのか? どっちだ」
「……うっ」
どちらも否定できない。狐火山に疎い私が危険性を軽んじていたのは事実だ。
「よいか菊理。野狐は人を手招き、九百鳥居にて惑わせ、時に心の蔵を喰らう」
「……心、蔵……を」
(喰らう……)
想像するだけで恐ろしい。私は己の浅はかな行動を反省した。自分が情けない。
「然れど今回は許そう」
「……本、当?」
「私は心配で怒ったんだよ、菊理」
喜雨麿の指が頬を撫でる。儚い眼差しで見下ろされ、私は素直に謝った。加え礼も述べる。
「……ごめんなさい。助けてくれてありがとう」
「さあ、帰ろう」
喜雨麿は優しい笑みを浮かべ、私の手を引いた。温かい掌に安心感を覚える。来た道を戻る足取りは酷く軽い。
「帰って勉強だよ、菊理」
「――へ? 勉強?」
告げられた単語に首を捻った。もちろん意味は知っている。つまり何の、だ。
「うん。狐火山、善狐、野狐、他……そうだ銀狐を菊理の教育係につけよう」
「ええ!? いいよっ、すぐ出て」
「銀狐は賢い。案ずるな、菊理」
「案ずるも何もッ、ねえ私、長居するつもりな」
「遠慮はいい。私たちは家族だよ」
(……喜雨麿って)
実はタチが悪い。私の話は完全無視、また有無を言わせず決められたのだった。