(第捌和 白狐のあやかし様 side:喜雨麿
「ご機嫌斜めだね、喜雨麿」
「無礼者、“さま”をつけろ」
「僕のせい? ねえ喜雨麿」
「さま、だ」
「ハハッ、今更だよ」
「…………」
白扇子でパタパタ自身を扇ぐ白藤は、妖狐一族で唯一自分を呼び捨てにする無遠慮極まりない男だ。あと興味はないが、基本的に穏やかな性格で善狐の信頼は厚い。
「菊理、いい子だね」
「名を呼ぶな、穢れる」
「いい子で、お前に流されてるよ」
スウ、と白藤が瞼を細めた。口元は扇子で隠してある。
「回りくどい」
「早く帰してあげなよ」
「ハッ、貴様が私に意見か」
鼻で笑った。だるく頬杖を突き、銀狐が淹れた渋い茶を口に含んだ。
「喜雨麿、お前は月の力を得て初めて九尾となった妖狐で僕たちの太祖だ」
「――でお前たちが太祖を恐れ敬い、狐火山の奥地に追いやった奇談か? ……ふん」
口火を切る白藤に揶揄し、無言で先を催促する。木製の座椅子に凭れかかり、眼前の男を見据えた。
白藤は目頭を押さえ、ため息交じりで話を進める。
「まったくキミは……ハア、確か代償は“愛の情”だったね。キミが数世紀か前、僕に宴の席で語ってくれた。『幾夜、幾千、孤独を耐えたらば力を欲した罪な願いは許され愛の情を持った者が私を訪れる』……、ってさ?」
「はて、忘れたな」
私は苦笑し惚けた。本当に記憶が曖昧だ、されど内容云々は偽りでない。
「菊理が持ってきたんだね、お前が無くした愛の情を」
「貴様に関係ない」
間髪を容れず冷淡にあしらう。縦しんば正解だとしても、答える義務のない事柄だ。
「もし……、お前に愛情が戻っていたら僕は嬉しいよ。ただ菊理は人の子、本気で愛してはいけない相手だ。本気になる前に彼女に恩を返し……、人間界に帰すべきだよ」
真面目な面持ちで諫言された。こちらの反応を窺う白藤の表情は険しい。
言外の意味を仄めかすは“掟”だ。
「主旨はわかった。終わりか?」
「僕の危惧は……、お前が邪狐にならないかだよ。掟はそのための予防線だよね?」
白藤は強い口調で告げ、パン、と扇子を閉じ左手に打ちつける。案の定の切り返しだった。
(やはり掟、邪狐、か)
善狐一族の掟の一つに、人間の女を愛し娶ってはいけない。人間の男を愛し嫁いではいけない、とある。あやかしと人間は世界・思想が異なった存在――最大の違いは寿命で――情の深い善狐は人間との早い別れに耐えられず、悲しみや怒り、嫉妬や憎悪に魂が汚染され、殺戮を好む邪狐に堕ちやすいからだ。
(……生意気に正論を並べよって)
私は再び茶を啜った。一拍後、断言する。
「侮るな、白藤。太祖の私は邪狐になぞ堕ちん」
「万一、があるよ」
「ほう万一とな? さすが堕ちかけた経験者は饒舌だな、白藤」
「…………」
古傷を抉れば、白藤は視線を逸らした。澄んだ眼が後悔と未だ解けぬ恋慕で揺れている、一度負った火傷は幾数世紀経てど消えない。
「狂った貴様を殺さず私は眠りにつかせてやった、懐かしい」
「僕の昔話はいいよ。ねえ喜雨麿、菊理は若い。人生を縛らないであげてよ……、彼女だって家族が」
「うるさい、知った口を利くな」
白藤の言葉を遮り発言を禁じた。継いで炎を散らばせる。相手を制す狐火だ。
「……喜雨麿」
「菊理に家族はおらん。とうに両親は果て、私の屋敷におる身だ」
「――え、ああ……そ、う……ごめん」
そうつけ足すと、悟った様子で白藤が謝罪し己の額を扇で小突いた。「十六で」などと呟く表情はどこか切ない。
「ふん」
謝罪に免じ狐火を消滅させる。直後、白藤が腕を組んで唸り始めた。
「うーん……、参ったねえ……」
「……ったく耳触りな、何に思考を巡らしておる」
「いやね……、僕が譲歩しなきゃいけないのかなって」
「当然なことを申すな」
つまらない悩みだった。聞き損だ。
「ハア頭が痛いよ。長が人間を、って噂になりつつあるんだよね。何故かつっけんどんなお前を恋い慕う女は多い……、善狐を束ねる僕の気持ちを汲んでくれたっていいでしょ」
「私が貴様の?」
くすくす肩を震わせる。戯言が面白い。
「あーやだやだ。菊理はよくこんな意地悪仏頂面な男と居て楽しいね、本人は帰りたがってるかもしれないよ」
「…………」
「わっ、焦った? 焦っちゃった?」
「殺すぞ帰れ」
「ああ! 喜雨麿!」
これ以上は時間の無駄だ。私は「二度と来るな」と吐き捨て、振り返らず立ち去った。