(第伍話 客人のあやかし様
(す、すごい……)
先日の野狐事件を数に入れない限り、自分の足で屋敷の外に出たのは初めてだ。
(大きい屋敷だな、って思ってたよ。思ってたケド)
寥郭たる敷地面積に頭が痛い。玄関と表門の石の鳥居まで四百メートル以上あった。通り沿いは屋敷林が立ち並び、ぎっしり玉石垣が積まれてある。
「ねえ喜雨麿? 喜雨麿は長だから、お金持ちなの?」
我ながら低俗な質問だ。でも一度、口に出してしまったものは引っ込めれない。
隣をちらり見上げる。自分と手を繋ぐ喜雨麿は、直球でぶつける私の素朴な疑問に笑った。
「ハハハッ、さあ? 勤めを果たした分は貰うが生憎、私は金銭に興味がなくてね。金銭管理は銀狐任せだよ。――菊理、足元に気をつけて」
語調に偽りは感じ取れない。あやかしと人間の価値観の違い、と言うよりただ金銭に淡白で本当に“興味がない”のだろう。
「あ、うん」
淡々と告げられ、私は頷いて九段の階段を下りた。霧が深い。
「結界の霧だよ。九百鳥居の先、あやかしの住む範囲は霧で覆われている」
「ちょっと不気味で怖いね」
一応は前に進んでる。だけど墨芥子の姿は見えない。喜雨麿の手さえ目視できない。世界は真っ白だ。
「大丈夫、私がいる」
「……うん」
きゅっと手を握られた。辺りは寒いが喜雨麿の掌は温かい、安心を覚える。恐怖感が薄れていった。
(えーっと? 前後、左右、どっちにいま曲がったのかな……)
暫く黙々と歩行する。進行方向がわからないため、すべては喜雨麿頼りだ。
不意に私は金狐と銀狐の苦言を思い出した。口端がぴくぴく痙攣する。
――ヘマすんなよ菊理。
――くれぐれも余計な行動は慎んで下さいね菊理。
喜雨麿の傍にいても油断は禁物だ。『もし』があってはならない。
気持ちを引き締め一歩を踏み込んだ。すると突然、視界がパッと開けた。
「菊理、着いたよ」
「わあ!」
一面の野菜畑に歓声をあげる。広大な景色は、まるで一枚の絵画だ。
「きたか。喜雨麿さま、ご足労頂きましてありがとうございます」
「…………」
怪しい、あやしい、人物に出迎えられた。黒い狐面をつけている。
(確か腰の……)
「墨芥子さん、狐面……」
「うるさい、いちいちツッコむな。あと、接尾はいい。畏まった動作、謙った物言いは嫌いだやめろ。いいな」
「は、はあ」
力強い雰囲気、性格が変わった。真っ直ぐ私を射抜く墨芥子は――別人だ。
「…………」
私は無言で彼に近づき狐面を取る。目が合うや否や、彼は一瞬で赤面した。
「やっ、やめろ!! これがねえとまともに女と喋れねえんだよ!」
(同一人物だよね)
凄まじい勢いで狐面を奪われる。いそいそ顔を隠す彼は墨芥子本人だった。狐面着用理由が可愛い。
「うん、良かった。誰か化けてるのかと思っちゃったよ」
「フフフ……、よい判断だ菊理」
「き、喜雨麿さま! 菊理ッ、次は許さねえぞ!」
「はーい」
憤る墨芥子に軽い返事をし、私は思いっきり酸素を肺に送り込んだ。懐かしい土の匂いが鼻を抜ける。
「喜雨麿は裾が汚れちゃうから、ここで待っててね! ちょっと見学!」
「あまり遠くへ行ってはいけないよ」
「うん!」
喜雨麿の承諾を得て、私は畑の通り道に向かった。色々な種類の種が植えられている。生き生きした野菜たちはみんな元気だ。
「こっちはキャベツでしょ。こっちはタマネギ……アスパラガスにトマト……、あっちは」
「あっちの列はスイカだ。八月頃が収穫期になる」
やんわり声を重ね、墨芥子が答えてくれた。あやかしは気配を消すのが上手い。
「……案内役を仰せつかった。俺の畑だしよ」
「ごめんね、ありがとう」
継いで言われ、礼を述べる。墨芥子は「別に」なんて素気ないが、首元が赤みを帯びていた。
「お前、野菜は好きか?」
「えっ、うんまあ」
唐突な問いに首を縦に振る。墨芥子はぽりぽり狐面の頬を掻き、「そっか」と言葉を紡いだ。
「喜雨麿さまにちょろっと聞いたぜ。お前、狸共追っ払って喜雨麿さま助けてくれたんだってな? 喜雨麿さまの恩人は善狐の恩人だ、好きな野菜好きなだけ持ってけよ」
「ええ!? そんなっ、いいよ! 充分いっぱい貰ってたし!」
「遠慮すんな。いいっつってんだろ、おら一緒に選んでやる。ああ、ネギは? 塩とオリーブオイルで蒸せば美味いしぜ」
墨芥子は私を意に介さず、長ネギのある位置に駆け、屈んでネギを指差した。厳つい狐面が微笑んでみえる。
(はあ……、反則だよね)
諦めのため息が零れた、断れない。結局は押し負け、私はたくさんの野菜を抱えて帰る羽目になったのだった。