約束の場所
共和国が肌寒い気候になる頃、新年祭の準備に追われ街中はにわかに活気付き始める。
現在の地球の気候は夏冬の寒暖差が激しくなっているようだ。
位置的にはスイスに近い気候の筈なのだが、夏場は温暖で冬場は冷え込む日々が続く。
南極大陸の氷が解けたことで、海水面も上昇しているようでイタリア半島の一部は海の底へ沈んだ。
結局ベネツィアには行けなかったな、べネツィア。
「にゅ~?」
「お、可愛い衣装ですね。似合っていますよ、アンジュ」
猫耳と尻尾をつけたアンジュが扉から顔を覗かせると、てれてれしている。
俺の言葉を聞いたアンジュは、当然とばかりにふんふんと鼻息を吹くとパティのいる部屋へと駆けていった。
うむむ、先程の行動も写真に撮るべきだったかな?
だが1ぺタバイトの容量を持つ情報端末はもう満杯だしな。
(これは由々しき問題だ)
「にゅ~?」
戻ってきたアンジュが扉からこちらを覗き込んでいる、天丼はやめよう。
そろそろ時間じゃないのかな?
俺は未だに外出の準備をしているパティの部屋の扉を叩くと、彼女は白のドレスを着て表へと顔を出した。
余計な装飾を取り払ったり、ウエストのサイズを……まぁ色々あって未だに着古しているのである。
「終わったわよ。さぁ教会へ行きましょ」
「みゅん!」
「にゅふふ、お芝居頑張るのよ。アンジュ!」
そういう事になった。
アンジュはパティの激励に両手に握り拳を作り、ガッツポーズを取って答える。
ちなみに演目はオリジナルでアンジュは名前の通りに天使の役割をするそうだ、何故猫耳なのかの情報は入っていない。
アンジュを肩車して教会へと運搬すると、目の前に教会の入り口が見えた。
アンジュは入り口にいたラナ君を見るなり、俺の頭部を平手で殴打しながら興奮したご様子。
いいぞ、ゆけ、我が娘アンジュよ!
「ひえっ! またきた!」
「ふしゃー!」
「アンジュダメでしょう! 何でラナ君と仲良く出来ないの!?」
我が嫁が娘の蛮行を阻止すると、大惨事は免れるのであった。
言われてみればそうだな、リック君とは普通に対話できるようだし、パティは何か知ってるのだろうか聞いてみた。
「アンジュはラナ君とは仲が悪いのですか?」
「以前あなたがルース商会の馬車で連れて行かれたのを見て、勘違いしちゃったみたい」
(えぇ~知りたくなかったよ。そんな真実)
どういう勘違いをしているのか詰問したいが、薮蛇なので止めておこう。
教会の庭には集会場が新設されており、普段は孤児院の体育館として機能している。
集会場内では子供達がわちゃわちゃと走り回っては、仲良くしたり喧嘩したり、世の中の縮図が繰り広げられていた。
やがて合唱が始まると、参観者の拍手が場内に響き渡る。
「アンジュ、ちゃんと歌えるのかしらね?」
「お、こっちに手を振ってますよ」
アンジュは歌いながらこちらへと手を振るので振り返しておいた。
演目の劇に関してはカオスの一言に尽きる、次から次へとフリーダムな幼児達の演技が繰り出され、参観者からは度々笑いが起こる。
俺はふと視線をパティに向けると、何故か彼女は両目に大粒の涙を流していた。
彼女は彼女で何かしら感じ入ることがあったのだろう。
かくいう俺も友人達に囲まれてはしゃぐアンジュの姿を見て、今までにない深い安堵を感じる。
俺が人生の内で常に願っていた安全がこの空間にはあった。
「まま!」
「アンジュ、よくできました! ねぇタウ?」
「えぇ、今までに見たことのない、壮大なスペクタクル一大巨編でした」
「に?」
「もうちょっと分かり易い言葉を使いなさい!」
パティの手刀が俺の脇腹に入るとアンジュと目が合った。
俺は何故だかおかしくなって無意識に口元が持ち上がる、色々と変わるけど変わらないものもあるんだよな。
パティとか、パティとか……ん? アンジュは肩車かな?
先にパティがアンジュを腕に抱え上げると、教会の外へと指を差した。
「秘密の場所」
パティは一言だけそう呟くと街道を歩き始める。
マイカの街並みを眺めながら、懐かしい丘の上にある木まで向かった。
街並みはあの頃とは全てが変わってしまっている。
それでも丘の上の木は未だにあの時のまま残されていた。
街を見下ろせる場所にまで辿り着くと、アンジュは器用に足をかけ、するすると木に昇ってしまった。
もはや猫そのものだ。
「ぱぱ、みて!」
「すごいな、アンジュは木登りの名人だね」
「こら危ないでしょう。あなたもこんな時ばかり褒めないの!」
パティは全身のバネを使って跳躍すると木の上にいたアンジュを難なく回収した。最近は親猫もアクティブだ。
親子って似るんだよな、最近、嫌でもそう感じるようになってきたよ。
ところでさきほど私は初めてアンジュに「パパ」と呼ばれたのだが、完全に不意打ちだったので録音していなかった。
「ほらみてアンジュ。この街は昔は原っぱだったのよ。向こうの方は全部荒地で、あの橋もあの川もなかったの……」
アンジュの瞳には眼下の街灯の光が反射して煌いている。
彼女を抱えている母親の瞳にもそれは煌いている。
何時か見た彼女の瞳は太陽のように思えたが、今では月の光にも似ていた。
ぎらぎらした野心は時を経て錆び付いて鈍ったかもしれない、でもそれはきっと失った訳ではなくこの街並みのように穏やか物に変わったのだろう。
俺は今の内に言っておくべきであろう事をアンジュへと語りかけた。
「アンジュ……大人になる内にキミは知るだろうけど、パパはちょっと変わってる人なんだ」
「に?」
今更なにを言ってるのだという表情でこてんと首を傾げるアンジュ。
「アンジュが将来人の上に立つことがあっても、それは負けた人が居るからこそ成り立つと言うことを覚えておいて欲しい。一人ぼっちでかけっこをしてもつまらないだろう?」
「つまんない」
「人間は一人ぼっちでは一番にはなれないんだ。だからもしアンジュにそんな日が来たら、負けてしまった人への感謝の気持ちをけして忘れないようにね」
アンジュは俺の言葉に力強く頷くとパティへと目を向けた。
パティは歳の所為か最近涙腺が緩んでいるようだな、俺も人のことは言えないが……。
「まま ぽんぽん いたいの?」
「違うのよアンジュ、これは嬉しいから泣いてるの……パパもね」
空からはうっすらと雪が舞い降りてくる。
俺達家族は凍えた体を温めるようにその場で身を寄せ合い。
しばらくの間、眼下に見える光景をその胸に焼きつけていた。
このまま時間が止まってしまえば良いのに、そう願わずにいられなかった。




