第七話 営倉の夜
ビシィィィ!!
南の島の夜に”びんた”の音が鳴り響く。杉野の体は右へ大きくのけ反り、右頬には、手の形をした赤い花が見事に咲いた
「うぅ……ありがとうございます、憲兵少尉殿。杉野伍長、今から身を入れなおします!」
身を切るような頬の痛みに耐えながら杉野は、憲兵少尉に礼を言った。もちろん本心から感謝などしてはいないし、憲兵少尉もそんなことは承知の上で軽く相槌を打って流した。
「よし、今野。貴様は二発だな。気を付けっ!歯を食いしばれ!!」
「はいっ。お願いします。」
今野は歯を食いしばって両目を力いっぱい閉じた。
ビシィィィ!!
ビシィィィ!!
今度は二回、夜空に”びんた”が鳴り響いた。
「よし。二人とも、今晩営倉でじっくり反省するように。憲兵隊は撤収、車に分乗せよ!」
憲兵少尉の号令で詰めていた数人の憲兵が一斉に停めているくろがね四起に乗り込む。杉野らの乗ってきたくろがね四起には、右頬を腫らした憲兵上等兵が乗り込んだ。
「では、三井少尉殿。あとはよろしく」
三井に軽く敬礼をして憲兵少尉は車に乗り込んで憲兵隊の宿舎へ帰って行った。
「小隊のみんなには明日報告するとして、杉野、今晩はしっかり休め。将兵が減った分、一人ひとりの役割が増えることになる。明日からお前にも頑張ってもらわなならんからな」
三井は吊った右腕をもう片方の手で軽く叩きながら言った。
「申し訳ないです。小隊長」
杉野は深々と頭を下げた。
「気にするなと言ってるだろ。謝りすぎるのがお前の悪い癖だぞ。」
そう言いながら、自由な左手で下げた杉野の頭をポンポンと叩く。
三井少尉は今年三四歳。生粋の叩き上げ軍人で、厳しいが部下を大切にする、よき上司であった。それゆえ、部下からは絶大な信頼を得ていて、杉野ももちろん三井の事は好きだったし、三井小隊の事も誇りに思っていた。
「では、明日の起床ラッパでまた会おうじゃないか」
そう言い放って三井は兵舎の昇降口をくぐっていった。
「さて、じゃあ営倉へ行きますか。杉野伍長殿!」
なぜか今野は楽しそうに言った。元々こいつのせいで営倉入りになったようなものなので、杉野は憤った。
「貴様は反省が足りないんだよ」
杉野のもっともな批判も、どこ吹く風のような顔で今野は流して言った。
「営倉は慣れてるもんでね。それに、サイパンの営倉は独房じゃないんだ」
どうりで妙に楽しそうなわけか。
通常、営倉は営門の衛兵詰所の奥にあり、独房で三畳一間程度の広さだ。それが、どうやらサイパンに設置されている営倉は二人部屋らしい。二人部屋と言っても四畳半と、微妙な広さだったが。
「ほう、じゃあ二人部屋を一人で使えるわけだな」
杉野はわざとらしくボケて見せた。
「いやいや、俺と二人で入るんだ!」
一連のやり取りの後、しばし無言で見つめあい、盛大に吹き出した。
「ふははははははは!」
「ぎゃはははははは!」
こんなやり取りをしたのはいつ振りだろうか。新兵だった頃の懐かしい記憶が少しだけ脳裏に蘇る。 が、それもすぐに泡と散った。
「貴様らはとっとと営倉に入らんか、馬鹿者!!」
営倉の管理を担当する軍曹が鬼の形相で怒鳴った。
せっかく、一発で済んだ”びんた”が結局二発になってしまったのは言うまでもない。
「あの鬼軍曹、絶対後ろから撃ってやるぞ……」
ジンジン痛む右頬をさすりながら今野が恨めしそうにつぶやいた。彼は、先ほどの軍曹からの一発で、計三発、”びんた”を食らっている。
「あぁ……同感だ」
杉野も右頬をさすりながら同意する。
「おい、うるせぇぞ。もう一発ずつ欲しいのか?」
会話が聞こえたのか、鬼軍曹がおっかない顔で営倉を覗いた。
「い、いえ! なんでもありません!」
「しっかり反省しております!!」
二人はすぐさま立ち上がって気を付けの姿勢をとり、急いで誤魔化した。鬼軍曹はふんっと、鼻で笑って詰所に戻っていった。
ふぅ……と二人はほぼ同時にため息をついて、座り込んだ。しかし、すぐに今野はだらしなく寝床に寝ころんだ。杉野も寝ころんではいないものの胡坐をかいて座っている。
本来、営倉に入った者は、就寝ラッパまで正座していなくてはならないのだが、姿勢を崩していても、黙認される場合が多々あった。今回もその御多分に漏れず、鬼軍曹は黙ってくれていた。
「あの鬼軍曹の”びんた”も効いたが、憲兵少尉のは二度とごめんだ」
杉野は憲兵少尉からの制裁を思い出して身震いした。
「ふっ……俺は前原のアレは今日ので三度目だぜ」
自慢するなよ……と、心の中で杉野は今野に向けて毒づく。
「前原憲兵少尉って言ってな、強烈な”びんた”で有名なんだよ。たしかキスカ帰りだったはずだぜ」
キスカ帰りとは、アリューシャン列島のキスカ島守備隊の事で、昨年七月に撤退作戦が実施され、守備隊全員が欠けることなく撤退に成功したことから「奇跡の作戦」として大きなニュースとなった。
「けっ。一生歩兵やってりゃいいのに憲兵なんぞに志願しやがって、迷惑極まりないぜ」
今野は忌々しそうに毒づいた。しかし、すぐに自らの言葉を返し、肩をすくめて言った。
「まぁ……あれはあれでいい憲兵殿なんだがな」
「どっちなんだよ」
「いや、ほら。キスカでの生活を知ってるからさ、俺ら島の守備隊は少し多めに見てくれてんだよ。ほら、お前も入浴を許可してもらっただろ。普通ならそんなことさせてはくれないぜ」
確かにそうだ。本土や中国の憲兵はいつも威張り腐って嫌な奴ばかりだった。それに比して、前原憲兵少尉は眼光こそどぎついものの、嫌な雰囲気を一切感じなかった。
ここの島の憲兵隊はどうやら当たりのようだ。
「あ、そうだ。貴様、弁明するとき、俺の事”今野上等兵”などと言ったな」
「あぁ、すまん。昇進してたんだな」
「当たり前だぜ。死ぬまで上等兵や兵長みたいな湿気た階級じゃ、やる気が起きねぇよ」
今野は襟に縫いつけてある、伍長の階級章を見せつけながら言った。
いやいや、どの階級でも真面目にやれよ。と、思ったのは杉野だけではないはずだ。
「そういや……貴様の上さんは元気だったか?」
今野が、両手を頭の下で組んで寝ころびながら杉野に唐突な質問をした。
「あぁ……元気だった」
「出征のとき、泣かれたか?」
「うん……」
智子の泣き顔が脳裏に浮かぶ。
泣き顔を見たとき、自分はこの泣き顔含め、智子のすべてが好きで、命を懸けても守りたい、なにがなんでも、たとえ自分が死んでも守ろうと心に誓ったのだ。
「泣いてくれる女がいるとは羨ましいもんだぜ。写真……持ってんだろ? 見せろよ」
にやけ顔の今野が、座っている杉野の背中を小突いて催促する。
「汚すなよ」
胸ポケットから写真を出して今野に渡す。
写真は、背嚢や軍服などが重油で黒く薄汚れたのと同様に汚れてしまったものの、破れることなく、杉野の軍服の胸ポケットにしっかり入っていてくれた。
「かぁーっ! 相変わらず美人だよなぁ。俺もこんな暑苦しい島に来る前に結婚しとけばよかった。悔しいぜ」
今野が心底悔しそうに言った。
「真面目に見合いをしないからだ。お前も見合い話の一つや二つ、あったんじゃないのか?」
「俺は自由恋愛がしたかったんだよ。メリケン風に言うと”ふりーだむらぶ”ってやつだ」
その”ふりーだむらぶ”もとい、自由恋愛は当時一般的ではなく、ほとんど親が相手を勝手に決めた見合い結婚で、自由恋愛なぞは富裕層のごく一部に限られていた。
米農家の次男坊という、平均の見本のような家庭に生まれた今野が、自由恋愛に憧れるのも無理はなかったかもしれない、しかし、恋愛が成就するのは別問題であり、非現実的であった。
「それでもやっぱり、妻帯は持ちたいもんだぜ」
今野は写真を杉野に返して言った。
「そのうち出来るさ」
ついに杉野も寝ころんで、励ましの言葉を言い放った。
「だといいがな」
今野は杉野の励ましを話半分といった感じで受け止めた。
やがて、就寝ラッパが営舎内に鳴り響く。
二人の営倉入り伍長は、どちらがということもなく深い眠りについた。