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最終話 玉砕

  七月六日、杉野ら三人は夕方になって地獄谷に到着した。すでに多くの兵士や軍属の者、民間人と思われる人々が集まっていた。

 いたるところに戦死者の遺体が放置されており、遺体には蛆が湧き、大きな蠅が羽音を響かせて飛び回っている。そして時々響き渡る自決のための発砲音。

「ここも酷い有様ですね」

 河田が口を開いた。杉野は河田の傷を診てもらおうとあたりを見回し、衛生兵を見つけた。

「そこの衛生兵殿! 負傷者だ」

 杉野は”殿”と敬称を付けて衛生兵を呼んだ。南方で杉野は衛生兵の世話になっており、それ以来杉野は衛生兵には敬称をつけて呼んでいる。もっとも、これは杉野に限ったことではなく、一度でも衛生兵の世話になった兵士は自然と敬称を付けて呼ぶようになるのだ。

 杉野の声に気付いて、衛生兵が走ってきた。衛生兵は河田のゲートルを取って傷を診ると。

「これしかないんです」

 と申し訳なさそうな顔をして言い、傷口にヨードチンキを掛けて消毒して、包帯をポケットから取り出して巻いた。夕日に照らされた衛生兵の顔には疲弊の色が色濃く浮いていた。

「他に傷はありませんか? 簡単な傷なら手当はできます」

 衛生兵は包帯をポケットにしまいながら杉野に聞いた。杉野と笹川も小さな擦り傷は沢山あったが、大きな傷は負っていないので、問題ないと言って断った。

「では、失礼します」

 衛生兵は敬礼してから、また別の負傷者の元へ走って行った。

 杉野らは、座り込んで武器の確認を始めた。杉野の持っている武器は、小銃と残弾十五発、拳銃と残弾六発ほか、銃剣、軍刀、ポケットナイフ。笹川は、小銃と残弾五発、銃剣。河田は小銃が壊れていたので、残弾五発を笹川に渡し、工兵から鉄パイプを鋭く削って作られた槍を貰い、手りゅう弾二発と銃剣で武装した。

 この間にも、上空は敵の戦闘機や水上機が飛び交い、艦砲射撃の砲声がしきりにこだましていた。



 日付が変わって七日の午前一時頃、杉野は一人、破壊された野砲に背をもたれさせて座り、無言で写真を見つめていた。写真の中には笑顔の自分、その隣に微笑む妻の智子。杉野は思いを巡らす。俺は智子を守れたのだろうか? 南の孤島で死ぬことで、この笑顔を守ることができるのだろうか? そんな考えを暗い顔をして自問を繰り返していた。

「伍長殿、最後の飯ですよ」

 笹川一等兵と河田一等兵が揃って、乾パンの袋と鰯の缶詰、満タンに水の入った水筒を一本持ってきた。

「さぁ、どうぞ」

 笹川が水筒の栓を開けて、差し出してきた。杉野は飯盒の蓋を取って、笹川に渡した。

「よし、次はお前だ」

 笹川から水が並々に注がれた蓋を受け取ると、今度は笹川の飯盒の蓋に杉野が水を注いでやる。

「ありがとうございます」

 笹川は笑顔で頭を下げた。

「ほら、河田」

「お願いします」

 河田は負傷した右腕をかばいながら、器用に左手と脇を使って飯盒から蓋を取って杉野に渡した。

「それでは、最後の乾杯といこうか」

 水を注いだ蓋を河田に返して、杉野は目の高さまで掲げた。

「乾杯!」

 三人はそれぞれ蓋同士を打ち付けあってから、水に口を付けた。

「うまいなぁ」

「おいしい」

 笹川と河田が同時に頬を緩めた。杉野もそれを見て微笑む。

「では、次は乾パンと缶詰といこうか」

 背嚢からポケットナイフを杉野は取り出して、付属してある缶切りで缶詰を開けた。

 パッカンと、音を立てて缶詰の上蓋を切り取って、鰯の煮付けを一切れ指でつまんで口に入れた。それから乾パンを一個、放り込む。鰯の塩味が乾パンと中和されて丁度よい味になる。

「これも食べましょうよ」

 そう言った笹川は自分の背嚢から、米兵から奪ったKレーションの朝食パックと昼食パックをいっぺんに取り出して開けた。

「卵だぁ!」 

 朝食パックの缶詰を開けた笹川がパッと顔を輝かせた。死ぬ前に卵が食べられるとは思ってもみなかった。缶詰にはさらに嬉しいことに、当時の日本では高級品のハムが入っていた。

「こっちはチョコレート!」

 河田は昼食パックに入っていた小包を開けて驚いた。中からチョコレートが茶色い顔をして出てきたからだ。

「甘いなぁ」

 少しかじって河田は満面の笑みを浮かべた。久しぶりに甘い物を食べたのだから、自然に顔が緩むのも仕方がない。

「こいつはコーヒーじゃないのか?」

 杉野は小袋を開いて、中に入っている粉末の匂いを嗅いで嬉しくなった。中身はコーヒーだった。

「よしよし、ローソクかなんか持ってないか?」

「二本だけなら、短いですが」

 河田が背嚢から使いかけの短いローソクを取り出して杉野に渡した。

 杉野は、散らばる石を適当にコの字に組んで小さなかまどを作ると、マッチを擦ってローソクに火を灯し、飯盒の蓋一杯分の水を飯盒本体に移して温めはじめた。

 十分くらい待って、水が沸騰しはじめた。杉野は飯盒から蓋にお湯を移して粉末コーヒーを溶かし、一口飲んだ。代用コーヒーでは出せない独特の苦みが口に広がる。笹川と河田にも蓋を回して三人でコーヒーを味わう。

 死出の旅に出る日の朝には十分な朝食だった。



 攻撃目標のタナパク地区を望む丘陵の稜線一帯に、三千人以上の兵士が集まり、身を屈めて息を潜めている。陽はまだ登っておらず、三人隣の顔も識別できないぐらい辺りは薄暗い。

 幾人かの兵士の頭、または鉄兜越しに日の丸の鉢巻が巻かれていている。鉢巻には、手書きのために少し歪んでいる日章を挟んで、『必勝』と書かれている。必ず勝つ……今はもう叶わない望みだ。

 突撃の第四波集団に組み込まれた杉野は、右腕にはめている腕時計を見て時刻を確認した。時刻は午前二時五十分。総攻撃まであと十分に迫っていた。右隣の笹川が小銃に弾を装填する。左隣りの河田は槍を握る手に力を込める。杉野も小銃に弾を装填し、胸ポケットの写真を握りながらその時を静かに待つ。

 杉野の持っている小銃は、先端の銃剣差込口あたりに灰色のおしぼりが巻かれている。これは、武器の確認を行っているときに気づいたのだが、着剣装置が壊れてしまっていたからだ。杉野はおしぼりの存在を思い出して、銃剣をおしぼりで銃口を塞がないようにして括り付けた。おしぼりは、駆潜艇に運ばれてサイパンに上陸した直後に少年から貰ったものだ。貰った時は綺麗な白色だったのだが、重油に塗れた顔を拭いたため灰色になってしまい、部下に洗わせても自分で洗っても元の白色には戻らなかった。

 返しそびれた物だったが、思わぬところで役にたったと嬉しく思う一方で、おしぼりをくれた少年の無事を静かに祈った。



 腕時計が、午前三時を指したときだ。突撃ラッパが鳴り響くと前方から、ウォーと虫が鳴くような小さな声が聞こえ始めた。ついに、最後の総攻撃が第一波集団から始まったのだ。数秒遅れて、銃声と砲声が雄叫びをかき消さんと響き始める。しかし、声の波はかき消されることなく、次第に大きくなり、こちらに迫ってきた。

「突撃ーっ! 突撃だーっ!」

 先頭で、杉野ら第四波集団を率いる大尉が立ち上がり、右手で握っている軍刀を高く掲げ、雄叫びを上げて走り出した。

「うおおおおーっ!」

「おおおおぉぉぉぉ!」

「わぁーっ!」

「うおぉーっ!」

 前後左右から、鼓膜を破らん限りの絶叫が湧き起こる。

「うおぉぉぉぉぉぉ!」

 杉野も雄叫びを上げ、小銃を撃ちながら走り出した。

 稜線を越えると、先に突撃を始めた兵士たちが何人も折り重なって息絶えていた。米兵の遺体も幾つか転がっている。

「ぐあ!」

 死体でできた絨毯の縁に、米兵の鉄兜が見え始めたかと思うと、先頭を走っていた大尉が銃弾を食らって前のめりに倒れた。他の兵士たちも銃弾に射抜かれて次々と倒されてゆく。迫撃砲も着弾し始める。だが、それでも誰一人として突撃を止めようとはしない。

「やぁーっ!」

 杉野は数人の米兵が詰めているタコツボに肉薄し、そのうちの一人を突き刺した。銃剣を刺したまま小銃の引き金を引く。弾を撃ち込まれた衝撃で米兵は吹き飛ばされて息絶えた。一連の動作の間に、笹川、河田を含む他の兵士もタコツボになだれ込み、中にいた米兵を手当たり次第に血祭りに上げる。

「続けぇ!」

 杉野はタコツボから躍り出ると、米兵のいる別のタコツボめがけて走り出す。後ろからは雄叫びと共に兵士たちが杉野に続く。

「わあああ!」

 喚き散らしながら杉野は米兵の脇腹を銃剣で突き刺したが、その瞬間に小銃の先端が折れてしまった。杉野は折れた小銃が刺さったまま呻いている米兵を蹴飛ばして、北沢の形見の軍刀を抜いた。

 軍刀は刃の部分数ミリを残して墨が塗ってあった。夜間、月明かりが刀身に当たって反射するのを防ぐためだ。

 河田は米兵の一人を槍で突き殺したが、自らも米兵の放った銃弾を頭部に受け、刺し違える形となって戦死した。

 笹川は、対戦車砲に取り付こうと装弾の隙を狙って数歩手前まで肉薄したが、間一髪間に合わず、至近距離で発射された対人散弾で身体を粉微塵に吹き飛ばされた。

 機関銃が火を噴き、肉薄しようと突進する日本兵はなすすべなく打ち倒される。対戦車砲に込められた対人散弾が押し寄せる日本兵の波を打ち砕き、迫撃砲の破片が身体をズタズタに引き裂く。何発の銃弾を受けても倒れない者は、引きつけられてライフル銃の一斉発射で撃ち殺された。

 杉野は胸ポケットから写真を取り出し、軍刀の柄に巻いて一緒に握った。心の底から力が湧いてくる。

「うおぉぁぁ!」

 一斉にライフル銃の銃口を向けている米兵の集団に、杉野は恐れることなく軍刀を振りかざして突っ込んでいった……。


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