第二十三話 崩壊
北沢軍曹や片野上等兵、木田一等兵をはじめ、多くの戦友を失いながらも杉野伍長ら四人は新防衛線へ到着した。三井少尉や西山軍曹らの死も杉野は知らない。どこかで生きていると良いが、と杉野は思うも、ほとんどあきらめに近い感情も同時に持っていた。
杉野らは他の第一一八連隊の生き残りと共に、タナパクとタロホホのちょうど中間地点にある電信山に配置された。電信山には僅かな陣地が細々と構築されているだけだったが、新たに陣地を構築する必要はなかった。必死にタコツボを掘ったところで、山の形すら変えるような艦砲射撃によって一日と持たずに破壊されるだけだったからだ。むしろ、それによってできた砲弾痕の方が陣地に使えそうなほどだった。
「うあああ!」
早朝、砲弾痕に数名の兵士たちと固まっていた杉野は、近くに砲弾が着弾した衝撃と悲鳴で浅い眠りから叩き起こされた。条件反射で小銃を構えて周囲を警戒する。悲鳴を上げていたのは、河田一等兵だった。
「河田!」
河田は額に脂汗を浮かして唸っている。右腕にさっくりと手のひらほどの砲弾の破片が刺さっている。医薬品などはないので、杉野は素手で河田から破片を抜き取り、彼の足からゲートルを外して血の滴る腕に巻き付けて止血した。
「しっかりしろ。俺の肩に掴まれ」
あたりに次々と砲弾が着弾し始める。電信山に入って三日目、七月五日の始まりは砲弾から逃げることから始まった。杉野は河田の負傷していない左腕を、自らの首に回して支えた。
「すいません、伍長殿」
河田が申し訳なさそうに言うが、杉野は鉄兜をコンコンと軽く叩いてやって、気にするなと言ってやる。
艦砲は一度当たったところには当たらないというジンクスにすがって、杉野と河田、そして笹川一等兵と横井一等兵の四人は、数秒前にできた砲撃痕に飛び込んだ。他の兵士もそれぞれ小集団に分かれて新しめの砲撃痕に身を埋める。三時間ほど歯を食いしばって耐えると、艦砲射撃がぴたりとやんだ。しかし、それは安全の到来を告げるものではない。
杉野は大体の見当が付いていた、米軍が次にどのような攻撃を繰り出してくるか。艦砲射撃で敵部隊を荒削りし、続いて航空機による攻撃でさらに数を減らして、詰めに歩兵と戦車による掃討で制圧完了となる。よって、次に来るのは当然……。
「敵機が来たぞぉ!」
兵士の絶叫を、機関砲の重い発射音がかき消した。さらに対地ロケット弾が付近で爆発し、大量の土を巻き上げる。
「クソ野郎!」
振り落ちる土砂を被って笹川が悪態をつく。杉野は口に入った砂をぺっぺと吐き出した。
「おい! 何やってる!」
隣の砲弾痕で攻撃を耐えている兵士たちが何やら叫んでいる。杉野も顔を出して辺りを覗ってみる。すると、一人の人影が走っているのが見えた。
「何やってんだ!」
杉野も思わず叫ぶ。上に敵機がウヨウヨ飛んでいる中を移動するのは自殺行為に等しい。信じられない行動だった。
「こっちへ来い!」
他の兵士たちと一緒に合わせて声を張り上げる。走っている兵士はこちらに気づいたのか、一直線に走り込んできた。
「バカかお前は!」
走り込んできた兵士は一等兵の階級章を付けている。杉野は怒鳴ったが、その一等兵は気にすることなく所属と氏名を名乗った。
「第四三師団、通信隊の三戸部一等兵です。伝令で来ました。命令書です。明後日までに地獄谷へ集結してください」
そう言うと、三戸部は胸ポケットから丁寧に折られた紙片を取り出して杉野に渡した。杉野は笹川らに背を向けて紙片を開けた。書かれている内容を見て、杉野は目を見開いた。
一、米鬼の侵攻はいぜん熾烈なるも、諸隊本日までの敢闘努力は、よく真面目を発揮せり。
二、サイパン守備隊は、先に訓示せる所に随い、明後七日、米鬼を索めて攻勢に前進し、一人よく一〇人を斃し、以って全員玉砕せんとす。
三、諸隊は明後七日三三〇以降随時当面の敵を索めて攻撃に当たり、チャランカノアに向かい進撃し、米鬼を粉砕すべし。又、諸隊は明六日夜以降随時、特に選抜せる挺進部隊を敵陣内深く潜入せしめ、敵の司令部・幕営地・火砲・戦車・飛行機等を索めて徹底的にこれを粉砕すべし。
四、予は切に諸隊の奮戦敢闘を期待し、聖寿の万歳と皇国の繁栄を祈念しつつ、諸士と共に玉砕す。
この命令書を読み終えて杉野は悟った、負けたのだと。溢れる涙をこらえて杉野は笹川らに向き直った。
「これより地獄谷へ向かい、最後の総攻撃を米軍にかける。三人とも、空襲が収まったら移動だ」
杉野は命令書を三戸部に返した。三戸部は敬礼すると、隣の砲撃痕に走っていき、同じように命令書を渡して報告し始めた。
やがて、陽が高く上った頃に空襲は収まり、杉野らは地獄谷に向けて最後の行軍を始めた。彼ら四人の周りには、同じように地獄谷へ向かう兵士が何十人も歩いている。中には民間人の姿さえ見えた。
「敵だぁ!」
後ろから絶叫が聞こえて、兵士たちは蜘蛛の子を散らすように散った。その場に留まって迎え撃とうなどとする者は一人もいない。もうそんなことをしても無駄だということを誰もが知っていたからだ。
「振り切ったか」
しばらく走り続けたあと、杉野は振り返って後ろを確認する。遠くに銃声は聞こえるものの、米兵の姿や発砲炎などは見えない。ついでに、部下たちの姿を確かめる。笹川、河田は問題なく付いてきている。横井は、と横井の姿を見たとき、彼の身体が前のめりに倒れた。
「横井!」
横井は手を先に地面に付くことなく、顔から地面に突っ伏した。笹川が慌てて横井を引き起こすが、彼の手にぬるっとした嫌な感触が走った。横井の腹部は赤黒く、銃弾が突き抜けた後がある。
抱き起された横井の両目から、ボロボロと涙が流れ出した。そして、微かな声を絞り出した。
「三年兵殿、身体中が痛いんです。自分は死にたくありません。痛い、痛い。」
「ああ、死にはせん。頑張れ、死ぬんじゃないぞ」
笹川が血で赤くなった手で横井の手を握り、杉野を見た。杉野は眼を伏せて頭を横に振った。
「目を閉じろ。寝れば痛みは忘れる」
杉野は横井の隣にしゃがみ込んで、横井の顔に手を当てて瞼を閉じさせる。
「伍長殿! 自分の絵を見に来てくださりますよね? それから、似顔絵も……ぐぇっ!」
言いかけて、横井は血を吐いた。胃液が混じっているのだろう、血の色は茶色になっている。
「ああ、ちゃんと行ってやる。お前の描いた絵も見る! 似顔絵もしっかりと書いてもらうからな!」
杉野は横井の瞼を左手で抑えながら、右手で腰から拳銃を抜きとり、口で咥えて抑えながら安全装置を片手で解除した。
拳銃の銃口を横井の眉間に触れるギリギリまで近づけて、杉野は引き金を引いた。
パン!
銃声が響いた。横井の身体から力が抜ける。目をはカッと開いて動かない。胸の鼓動はもうしていない。眉間には穴が開いていて、紅い血がそこからドクドクと流れ出れて地面に血の池を作る。
「すまん」
杉野は横井の開いた目をそっと閉じてやる。笹川はまだ手を握ってやっていた。河田も目を伏せて小さな嗚咽を繰り返している。
杉野は両目の涙を袖で拭って、笹川の握っている手を解いてやる。
遠くに聞こえていたはずの銃声が、気づけばかなり近くに迫っているのを杉野は感じた。
「さぁ、行くぞ」
杉野は一言だけ静かに言うと、立ち上がって歩き出した。