第二十二話 潰走
他部隊の退却援護を続けて四日目、ついに陣地に伝令の一等兵が走り込んできた。
「退却開始してください!」
一等兵の右肩は血で赤黒くなっており、その他にも無数の擦り傷が見え、軍服もボロボロだ。いかに急いで戻って来たかを想像することは容易だった。
「伝令ご苦労。さぁ、お前ら早く下がるぞ!」
こちらもボロボロになった格好の北沢が応えて、部下たちにも声を掛ける。部下たちはそれぞれ、おお! と応えるが、その声は少ない。いつしか、部下の数は十三人を数えるまでにすり減っていた。彼らの顔はやつれ、身体には骨が浮き出ている。もはや気力だけで戦っていたのだ。
「第一三六連隊の大谷一等兵です。先導します」
伝令の兵士は軽く所属と氏名、階級を言って敬礼してから前を歩き出した。
「先導頼むぞ。杉野、お前が一番後ろで来い!」
北沢らも手早く装備をまとめて続く。北沢に次いで階級が高い杉野伍長を一番後ろに据えて、追撃に備えての警戒に当たらせる。北沢は杉野が指示通りに最後尾に就いたのを確認してから、大谷の隣へ行った。
「今の状況はわかるか?」
「はい。現在、軍民入り乱れて北部へ後退中です。司令部はタナパクからタロホホの間に、新たな防衛線を構築して再起を図るとのことです。一一八連隊もそこに加われと」
「そうか」
状況は、北沢の予想よりも悪かった。まさか民間人も巻き込まれていようとは思いもしなかった。
「連合艦隊はいつ来るんでしょうか?」
大谷が前を見たまま言った。
「じきに来てくれるぜ」
北沢も前を向いたまま毅然として答えた。
来てくれるぜとは言ったものの、北沢は連合艦隊どころか援軍はもう来ないのではないかと薄々感じ始めていた。何日か前は、海軍のゼロ戦が敵戦闘機と激しい空中戦を繰り広げるところを何度も見上げたし、夜には爆撃機が海上の敵輸送船を攻撃するところも目撃した。しかし、ここ最近はそのような光景はめっきり見なくなっていた。数を減らしていた敵艦隊も、いつしか元の数に戻って、砲撃をし続けている。
「左から敵襲!」
杉野の叫ぶ声が耳に響いて北沢は思わず身を低くした。
「う……!」
隣の大谷は身を屈めるのが、半瞬遅かった。銃弾が彼の首元を通り抜けて、大谷は鮮血をまき散らして倒れた。
「しっかりしろ!」
北沢は大谷の身体を揺するが、駄目だった。彼は即死していた。
「後ろからも来ます!」
さらに杉野から報告が入る。左方向からの銃撃と、後ろからの追撃。このままでは敵にとって理想的な十字砲火が完成し、その銃火に晒されること必至だ。
「前進だ! 急げ!」
北沢は大声で叫ぶと、身を低くしたまま走り出した。部下たちも後ろや左方に警戒しながら付いてくる。しかし、北沢の前進の判断は間違っていた。もっとも、この状況下に正解などなかったが……。
なんと、前方からも多数の銃弾に急襲されたのである。間一髪、北沢は付近の岩陰に飛び込んで銃弾をかわしたものの、すぐ後ろに付いていた三名の部下は反応しきれず、相次いで銃弾に倒された。
「なんてこったい」
北沢は歯ぎしりした。敵はすでに迂回していて、こちらを包囲しているではないか! このままでは……。
「軽機は生きてるか?」
「はい!」
「はい!」
北沢の叫びに、軽機関銃を守るように抱えた横井一等兵と上等兵の二人が同時に返事をした。軽機関銃が生きていれば十分だ、と北沢は包囲陣を突破できると踏んだ。
「軽機はその場で前の敵を抑えろ! 他は斬り込むぞぉ!」
北沢はサイパン戦での、二度目の突撃を決めた。これ以外の方法を考えている余裕は無かった。
「突撃ーっ!」
小銃に素早く銃剣を取り付けると、北沢は我先にと先陣を切って飛び出した。
「わぁーっ!」
「おおお!」
部下たちもそれぞれ雄叫びを上げて走り出す。軽機関銃を撃っていた二人も突撃を始め、杉野も銃剣を装着して雄叫びを上げて後に続く。
「えいやぁ!」
北沢は立ちはだかる米兵の一人を、柔道技の背負い投げを使って投げ飛ばした。投げられた米兵は頭から地面に叩きつけられ、軽く唸って失神した。
横井と共に軽機関銃を持つ上等兵が、頭を鉄兜ごと撃ち抜かれて崩れ落ちた。いきなり支えを失って倒れ込みそうになる横井を、後から来た杉野が寸手で受け止めた。杉野はそのまま、横井の背中を押して無理やり走らせた。
「こけるな! 走れ!」
杉野は軽機関銃の後部を持ち、横井と一緒には駆け抜ける。足元には銃弾がいくつも土を舞い上げて突き刺さる。
「抜けたぞぉ!」
北沢は、突破に成功した報告を声を張り上げて部下に伝えたが、その叫びに応えることができた者は、あまりにも少なすぎた。後退開始時に十三名いた部下、今は杉野、笹川、河田、横井の四人だけになっていた。さらに、北沢は衝撃を受ける。
「軍曹殿、腹が!」
笹川が悲鳴をあげて北沢の腹部を指差した。北沢は自らの腹をさする。生暖かい感触が走って、思わず触れた手を見た。手は真っ赤に染まっていた。
「あぇ……?」
間抜けな声が出たかと思うと、ガクンと両膝の力が抜け、その場に倒れそうになる。寸前に河田が肩を支えて、それを防ぐ。どうやら気づかない間に銃撃を受けてしまったらしい。
「軍曹殿!」
「かすり傷だ。気にするな」
北沢は心配する河田の手を払いのけ、一人で立とうとしたが叶わなかった。両足に思う様に力が入らず、持っていた小銃を落とし、体勢が崩れてまた倒れそうになった。今度は笹川と河田の二人で北沢の肩を支える。二人は北沢の腕に触れて、その体温の低いことに驚いた。
「すまんな。前進してくれ」
北沢は紫の唇から声を絞り出して指示を伝えた。北沢の小銃は誰も持てないので、仕方なくその場に置いていくことにした。横一列になった三人を先頭に、二番手は機関銃を一人で持つ横井、その後ろは変わらず杉野が後方を警戒しながら続く。
やがて、大きな砲弾痕にぶち当たった。周りの木々はなぎ倒され、見慣れたタコツボ陣地の様になっている。風に流された砲弾の一発が着弾したようだ。北沢は覚悟を決めた。
「もういい。ここに置いていけ」
「何を言い出すんですか?」
河田の声を無視して、北沢は横井に問うた。
「軽機の残弾はどれくらいだ?」
横井は少し戸惑ったが、取り直して残弾を報告した。残弾は、機関銃内に収まっている十数発と弾倉一個分の計四十数発だけだった。それでも北沢は十分だと言って、横井から機関銃を奪うようにして取った。
「早く行け。追撃が来るぞ」
機関銃を杖代わりにして、北沢は命令した。その顔は血の気が引き、肌は死人の様な青い色をしている。
「杉野、あとは頼むぞ。それと、サイパン土産だ」
そう言うと、北沢は震える手で腰の軍刀を抜き、杉野に手渡した。河田には背嚢、笹川には米兵から奪った水筒、横井には小銃の弾薬入れをそれぞれ身体から外させて持たせた。
「軍曹殿、お世話になりました」
杉野は涙を呑んで北沢にビシッと敬礼した。北沢も引きつった笑顔を作り、敬礼を返す。三人も杉野に続いて北沢に敬礼する。
「さぁ、行け!」
北沢の声に背中を押されるように、杉野らはそれぞれ再度軽く敬礼してから歩いて行った。
「ぐぅ……」
腹部に走る激痛に呻きながら、北沢はゆっくり砲撃痕の縁にうつぶせで寝ころんで機関銃を据え、米兵が通ってくるであろう場所に照準を合わせた。替えの弾倉は取りやすい様に身体のすぐそばに置いた。
「おー、早いな」
しばらくして遠目に数人の米兵の姿を認めた。方々を警戒しながら近づいてくる。北沢はニヤリと笑って機関銃の安全装置を解除した。
「お前らにもサイパン土産だ」
軽機関銃が火を噴き、運悪く射線上に居合わせた米兵を貫いた。ドッと血を吹きだして倒れる米兵、他の米兵はサッと辺りに散り、即座に反撃の銃火が瀕死の北沢に襲い掛かる。
「おらおら! もっと腰入れて撃ってこいやーっ!」
笑いながら、敵兵を煽りながら、北沢は引き金を引き続ける。極度の興奮状態のためか、さっきまでの激痛が嘘だったかの様に痛みは感じない。
弾切れを起こし、弾倉を取り替える一瞬の隙に手りゅう弾が二、三個投げ込まれて足元に転がった。それでも北沢は気にすることなく弾倉を取り替え、再び射撃を始めた。
「射撃始めぇ!」
シュタタ! シュタタタタタタタタ!
小気味よい発射音が耳に響く。
米兵らは、手りゅう弾を投げ込まれても逃げようとも隠れようともしない敵兵に不気味さを覚えた。あいつは死に恐怖しないのか? それとも不死身なのか? 彼らはわずかに恐怖にたじろいだが、それも杞憂に終わった。
銃身を真っ赤にして奮戦し続けた九六式軽機関銃が、最後の一発を撃ち終わったとき、髭面の射手の足元に転がっている手りゅう弾が一斉に炸裂し、射手をただの肉片に、機関銃をただの屑鉄へと変えた。
タナパクへの道なき道を行く杉野らの耳に、後ろから機関銃を撃つ音が聞こえ始めた。何十秒もそれは四人の鼓膜を叩き続けたが、爆発音がしてその余韻が消えると、もう機関銃の発射音が聞こえてくることはなくなった……。
杉野は一瞬だけ足を止めたが、後ろを振り向くことはなくすぐにまた歩き出した。彼の右手は無意識に、妻の写真を胸ポケットの上からぎゅっと握っていた。