第十三話 敵軍上陸前夜
十四日、この日も空襲から逃れるところから、一日が始まった。始まったといっても夜中ずっと砲撃されていたので、ほとんどの将兵は途切れ途切れの浅い眠りしかできず、一日が始まったという感覚が持てなかった。そじて、空襲が終わるや否や間髪入れずに艦砲射撃が開始された。
「アメ公は真面目だな。見ろよ、高射砲まで使ってやがるぜ」
北沢軍曹が双眼鏡で敵艦を眺めながら毒づいた。陣地にしている洞窟からは大胆にも何十歩も離れている。
隣の大井上等兵もどれどれ、と北沢から双眼鏡を借りて眺めてみる。
「そうですね。お! あのデカいの戦艦ですよ」
敵は戦艦、巡洋艦、駆逐艦から小型艦艇まで惜しみなく戦力を投入しており、砲撃も主砲や副砲のみならず、各所にちりばめられた高射砲や対空機関砲まで使用していた。
「まったく、ご勤勉ですな」
北沢が茶化し、大井の方も同調してワザとらしく関心、関心と頷いた。誰が見てもふざけているし、当の本人たちも、そう見られるのを承知で発言している。むしろ、どんな時でもこの様な態度であった。
「北沢軍曹! 大井上等兵! こんな時にふざけてないでもっと真面目にしたらどうだ」
二人を見かねて小隊長の少尉が声をあげ、洞窟から走ってくる。
真面目と言うのはどういうことだ? と突っ込みたいのを我慢して、真顔を作った北沢は敵艦の一隻に指さした。
「いえいえ、敵情偵察ですよ。ほら、あそこ、間もなく砲撃を始めますよ」
指した先には巡洋艦が一隻、航行している。やがて、巡洋艦は艦を90度回頭し、海岸と平行になる体勢で停船、砲撃を始めた。
「敵艦は昨日よりも倍近く増えています。敵兵の上陸はそう遠くはないと思われます」
隣で息をのむ少尉を尻目に、北沢は双眼鏡を再び覗き込んだ。
「大井。お前の言ってた戦艦から水上機が出たぞ。これはまずいな」
さすがに精密射撃されては敵わないので、北沢らはすごすごと洞窟へ引っ込んだ。今日も昼間は一歩も出れずか……。北沢は残念そうに肩を落とした。
「飛行場、穴だらけですね」
夜半、嫌がらせの砲撃の続く中、今野伍長は自慢の狙撃銃を整備しながらぼそっと喋った。
「だが、あれを敵に渡せばすぐに直されて使われちまう」
隣で同じく小銃を磨きながら彼の分隊長の軍曹が返答した。
アメリカの持つ工業力は恐るべきものだった。ガダルカナル島では、日本兵が徒歩で道なきジャングルを踏破しようとした一方で、アメリカ兵たちはブルドーザーで木々を押し倒し、ジャングルに道を切り開いていた。こんな穴ぼこの飛行場でさえ、1日もあれば応急措置程度には修復してしまうことが十二分に考えられた。敵に飛行場を奪取され、ましてや利用されることは何としても防がねばならなかった。
「なぁに、敵は海岸でほとんどやられるだろうから、実際俺たちが戦うのはそんなにないんじゃないか」
軍曹は根拠のない楽観論を語った。
「だといいんですがね」
今野は話半分という風に半ば流した。実戦はそんなに甘くないことを今野は身をもって知っていたからだ。
「そう流すなよ。元気が出ると思ったんだよ」
軍曹は笑いながら今野の背中を叩いた。どうやら元気づけようとワザと楽観論を口にしたらしい。
「お前みたいな問題児は根性を叩き直してやろうと最初の頃は思ってたんだがな」
軍曹は肩をすくめて語る。
「俺はお前の狙撃を見てから見直したぜ。頼りにしてるぞ、今野」
小銃の手入れが終わったのか、今度は軍刀を腰から抜いて刀身を手ぬぐいで拭き始めた。
「素直に嬉しいですね。分隊長殿、実戦になっても期待してください」
今野は整備の手を一旦止めて、自らの右腕をバシッと叩いて恰好を付けて見せた。褒められるとすぐに調子づく種類の人間なのである。
「おお! そうこなくっちゃな!」
軍曹も鼻息を荒くして、軍等を拭く手に力を込める。今野もよし! と気合を入れなおして狙撃銃の整備を再開した。敵には飛行場の砂粒一つくれてやるものか! と一人、今野は心の中で決意した。
敵艦隊から死角になった谷間の、少し開けた場所に数台の戦車とトラック、数十名の兵士が集まっていた。明かりは個人携帯の小型発電機を使用している者が数名いる程度で、決して明るいわけではなかったが、活気があるのが伝わってくる。
「やっぱ、補給車があると違うなー!」
宮中上等兵曹は額の汗を首にかけた手ぬぐいで拭きながら、戦車の燃料タンクの様子を見ている兵士言った。
宮中の戦車の燃料タンクからはホースが伸び、その先に燃料補給車が停まっている。
「ありがとうございます。そう言って頂けると精が出ます」
タンクを見ていた、海軍機関科、上等整備兵の階級章を付けた兵士は、嬉々として宮中に向き直った。
戦車の燃料補給に、燃料補給車が割り当てられることは少ない。補給車はもっぱら航空機の燃料補給に用いられていて、戦車の燃料は搭乗員が自らの手で、ドラム缶から直接ポンプで補給することが大半だった。此度は、空襲と艦砲射撃で航空機が一機残らず破壊されてしまい、飛行場もあの有様なので補給車の出番が無くなってしまい、特別に戦車の燃料補給に回されたのである。
「よし。満タンですよ」
一等整備兵が燃料タンクを確認して宮中に報告する。
「助かった。ありがとう」
燃料タンクからホースを抜き取った一等整備兵は軽く敬礼をして、別の車両の燃料補給へ走って行った。
「どうだ。状態は?」
燃料補給が終わった自分の戦車に宮中は駆け寄り、車両の下部へ声を掛けた。
「ふぅー。問題ありません。良好です」
車両下部から、操縦手の椎名上等兵が工具箱を抱えて這い出てきた。
「うむ」
宮中は満足そうに頷くと、今度は戦車によじ登って上部ハッチを覗き、中にいる兵士にも状態を聞いた。
「中は異常ないか?」
「はい。内部は異常ありません」
機銃手を務める石川一等兵が、車載機銃の状態を確かめながら顔をあげて応えた。
「よし。これで存分に戦えるなぁ」
宮中はわずかに見える海面を見つめ、ニヤリと笑って舌なめずりをした。
「炊けた! 炊けた! 飯ができましたー!」
笹川一等兵は嬉しそうに飯盒の蓋を開けた。白い湯気が炊きあがった白米の香りと共に広がる。
「三人ともご苦労さん」
杉野は分隊員全員の調理を担当していた、笹川一等兵、木田一等兵、横井一等兵の三人を労った。
白米は今日の夕方、数名の輜重兵が砲撃の続く中、飲料水や乾パンなどと共に一食分だけでもと、補給に届けてくれたものだ。
「やっぱ白飯は温かいのに限りますね」
口いっぱいに白飯を頬張って片野上等兵が言う。
「おぉ。まったくだな」
杉野は同意しながら、背嚢から缶詰を一個、取り出した。『牛・大和煮』と書かれている。
杉野は支給品のポケットナイフを背嚢の横ポケットから取り出し、尾部に付属している缶切りでキコキコと缶詰を開けた。
「そういえば、横井。お前さん大学で何習ってたんだ?」
杉野はふっと思い出したように向かいで白飯を掻き込んでいる横井一等兵に聞いた。
「俺ははずかしいんですが、芸術科で油絵を描いてました」
横井は気恥ずかしそうに顔を少し伏せた。
「へぇー、絵か。お前はどんなの書くんだ?」
「自分は風景画を描いていました」
「俺は絵はよくわからないんだが、山とか川とか書くんだよな」
「そうです。あの……本土に帰ったら、お暇があれば、大学へ絵を見に来てくださいませんか?」
杉野を誘うのに、横井は少し勇気を出した。戦争中なのにこんなことを誘うのは不謹慎だと思ったからだ。
「お前の絵か、いいぞ。女房と二人で行くから、何なら記念に一枚描いてくれよ」
杉野は横井の心配など意に介せず、さも当然と言う風に言い、さらには、似顔絵の依頼までしてきた。
「わかりました。ぜひお願いします!」
杉野の反応に横井はわずかな興奮を覚えて、目を輝かせて声を大きくした。
「さぁ、そろそろ飯も食い終わるから、片づけてくれ」
杉野は食べ終わった缶詰を横井に渡して処理させた。部下が上官の食事の後片付けをすることは、軍内では常識のことで別段特別なことではない。後片付けに上官を待たすわけにはいかないので、部下は上官よりも早く食事を終えねばならなかった。一等兵の横井も同様で、会話している間に手早く食事を済ませており、上官の杉野を待たせることなく空き缶を受け取り、ほかの隊員の空き缶やゴミの回収を始めた。
飯盒は水が貴重なため水洗いはせず、各自、外側のススを軽く手拭いで拭き取ってから、各々の背嚢に収めた。
ゴミを埋める穴を掘っている調理担当の三人を、木の根に座って眺めていた杉野は、少し暗い顔で誰にも聞こえないように一人、自問した。
「俺はお前らを故郷に帰してやれるだろうか?」
無意識に杉野は妻の写真を右手で握りしめていた。
六月十四日、米軍上陸前夜は兵士それぞれの想いや意気を乗せ、静かに更けていった。