第九話 杉野と北沢 土嚢とリヤカー
「と、言うことで三井君、海軍への応援へ行ってくれ」
「はぁ……依存があるわけではありませんが」
六月九日、三井は中隊長からの指令を受けていた。
内容は海軍部隊の陣地構築の応援として、同じ連隊の一個小隊と工兵一個分隊と共に、海軍部隊のあるガラパン地区の陣地構築作業へ行け、と言うことであった。
命令なら仕方ないが、ガラパンとチャランカノアの間のオレアイには、同じ第四三師団の第一三六連隊が配備されているのだから、そこから応援を回せばよいではないかと思うところはある。
「オレアイ地区にも部隊はいるんじゃないのですか? かな?」
中隊長はそんな三井の真意を言い当てた。
「い、いえ。命令とあらば」
三井が少し慌てたのを見て、中隊長は含み笑いをした。
「ふふ……顔に出とるぞ」
「申し訳ありません」
「別に責めてはいない。君の不満もわかる。うちの連隊も陣地構築がほぼ済んだとはいえ、まだ終わっていない場所もあるだろう」
中隊長は椅子を座り直して言う。
「だが、海軍の陸戦隊の一部と、オレアイの一三六連隊に配置変更が行われたそうでな、陣地をまた新たに構築せねばならんらしいのだ。それで、陣地構築のほぼ済んだうちの連隊へ海軍から要請があったということだ」
中隊長も心底迷惑だ、とでも言わんばかりに言った。
第一一八連隊はチャランカノアの防衛なのだが、その前に独歩第三一六大隊が展開
「はぁ……ならば、仕方ありません。うちの小隊を使ってください。幾人かは中国や南方での陣地構築経験がありますから」
三井はつい数日前、工兵にも言った謳い文句を中隊長にも言って頭を軽く下げた。
「すまんな。では、頼むぞ」
中隊長は椅子から立ち上がって敬礼をし、三井もそれに合わせて敬礼を返した。
「冗談かよ。海軍を手伝えってのかよ」
北沢が心底不満そうに言葉を漏らした。
もう一個の小隊とは北沢の所属する小隊だった。さらに応援部隊の決め手となったのは、北沢の分隊が予想以上の働きをしたからという、なかなか皮肉の利いたものだった。
「俺らががんばったからですよ」
さすがの大井も不満を隠せない様子で言った。
だが、北沢は急に椅子から立ち上がって意気込み始めた。
「けっ! まぁ、命令と言われちゃ、しゃあねぇか。そんだけ頼りにされてんだな!」
「さぁ? 上のいいように使われてるだけなんじゃ」
やけに前向きな髭軍曹は、大井の意見など聞く耳も持たず、一人で張り切りだした。一方の大井はジト目でその様を見つつ、深いため息をついた。
「で、私らが行けと言うことですか……あまり言いたくないですが、司令部は何を考えてるんでしょうな」
一方、三井小隊でも不満が噴出していた。
第一分隊長の西山軍曹がやれやれと言った感じで、三井と会話を交わしている。その隣には第三分隊長の飯田軍曹が無言で立っているが、彼もやはり不満そうな顔をしている。
「ま、まぁ命令ですから、仕方ありませんよ」
第四分隊長の酒田伍長が二人の分隊長を後ろからまぁまぁとなだめる。
「上からの命令だから、従うしかないだろう」
三井にそう言われてしまっては、二人の分隊長も無理にでも納得するしかなかった。
「すいません。陸軍にわざわざ出向くような真似をさせてしまって」
一行がガラパンに到着すると、構築現場の指揮官の海軍中尉が、深々と頭を下げた。
三井ともう一つの小隊長、工兵分隊長の三人も揃って頭を下げた。
「いえいえ、海軍陸軍の隔てがあるとはいえ同じサイパンの守備隊ですから」
三井は笑顔で謙遜した。
「助かります。それでは、これが陣地の指示書です。よろしくお願いします」
海軍中尉は胸元から陣地の指示書を三井、もう一人の小隊長、工兵分隊長の軍曹にそれぞれ数枚ずつ手渡した。
三井小隊の手配書には、対戦車豪の構築が指示されていた。
「あ……やっぱり外れだな。この任務」
手配書を見た三井は、誰にも聞こえないような小声でポツリとつぶやいた。
「あーあ。砲陣地の構築だって? こりゃ、外れ任務じゃないか?」
陣地構築の手配書を見た北沢がぼやく。先ほどのやる気は一体どこへ行ったのだろうか。
「軍曹殿。さっきかなり張り切ってませんでしたか?」
やはりジト目で大井が北沢を見る。その視線から逃げるように、北沢は視線を海に向けていった。
「あーあー。大井ー。やる気が溢れてきたー」
微塵もやる気を感じない言い方だった。
「北沢軍曹! 貴様がそれじゃ、下級兵士に身が入らんじゃないか。 しっかりしてくれ」
後ろから声がして振り返ると小隊長が立っていた。北沢は急に顔を真顔に変えて言った。
「はっ! 小隊長殿! 北沢、やる気を出します!!」
北沢は敬礼をして思ってもみないことをぬけぬけと言う。もちろんやる気などほとんど出るわけ無いのだが、小隊長は北沢の言葉を聞いて満足そうに立ち去って行った。
「やっぱ若いですね。あの小隊長は。あれぐらいのウソは見抜けないと」
黙ってやり取りを見ていた大井がニヤニヤしながら言った。
「仕方ない、まだ実戦を経験してないからな。兵士の扱いがまだまだだな」
北沢の小隊長は、士官学校を卒業してすぐに部隊配属されたホカホカの新品少尉だ。もちろん実戦経験などなく、本人もそのことを気にしていた。北沢は当初、これは扱いやすいと軽く見ていたが、小隊長は努力家だったようで、小隊を拙いながらも統率しようと苦心していた。それを感じ取って以来、北沢は小隊長に好意的に協力するようになっていた。どうやらこの髭軍曹は、なかなか情に厚い性格の様だ。
とはいえ、やる気をだしてやらないと進むものも進まない。北沢は自分の両頬をパンパンと二回叩いてから伸びをした。
「じゃあ、小隊長に免じてやる気を出してやるか! おら、行くぞ北沢分隊!」
「はい!!」
「おお!」
北沢の号令に分隊員の面々が元気よく応える。上が元気だと下は付いてくるものだと、髭軍曹は十分心得ていた。
「おい! そろそろ砂を運び出せ」
「はい!」
杉野とその分隊員はせっせと対戦車豪を掘る。掘るときに出る砂はある程度溜まったらスコップで豪から上の砂浜へ書き出す。
砂は袋に詰めて土嚢にして、砲陣地の構築や機関銃座の防御材に利用される。もちろん人の手によって袋に詰められる。これがまた、重労働なのである。
「ふぅ~。掘るのもきついですが詰めるのもきついですね」
砂浜で土嚢作りをしている笹川が、額の汗を手ぬぐいで拭いながら言った。彼の隣では河田が無言で砂を詰めているが、やはりその額にも玉のような汗がたくさん浮いている。
「おーし。じゃあそろそろ代わるか。木田、上に上がって袋詰めやるぞ」
杉野が、交代するよう指示する。
上で袋詰めの笹川と河田の二人が、杉野と木田に代わって塹壕掘りをする順番だ。
「はい。えぇっと……梯子ないですか?」
木田が砂浜に登るため、梯子を見渡して探す。見渡すと言っても壕内なのでそんなに遠くまで見えるわけはないが。
「あったあった。はいよ」
砂浜にいる笹川が、近くに置いてある梯子を持ってきて豪内へ立て掛けてやる。
「ありがとうございます」
木田が、梯子を登り切ってから笹川に礼を言う。同じ階級なのに敬語を使っているのは、軍隊経験が笹川の方が一年長いためである。笹川と河田が同期で、木田はその一年後の入隊である。
「こっちも、しんどいんだけどな」
木田に代わって豪内に降りてきた笹川が、ツルハシを構えながら独り言を言う。
「まぁ、さっさとしようよ」
杉野に代わって降りてきた河田が、笹川の独り言を拾って作業を促す。こちらはスコップを握っている。
二人の一等兵はせっせと塹壕を掘り始めた。
砂浜に上がった杉野と木田は土嚢作りを始める。塹壕を掘った時に出た砂が塹壕の右側に延々と積み上げられている。それを袋に入れていく。
土嚢用の袋の七割ほどまで、積み上がっている砂を詰めて袋口を縄で縛る。作業はこれだけと至って簡単な様なのだが、砂の重量がその作業を困難なものにしていた。
完成した土嚢の重さはおよそ三十キロ、物によっては五十キロ近くになるものもある。これを大の男二人がヒィヒィ言いながら大量に作るのである。
「土嚢、貰うぜー」
完成した土嚢は一か所に積み上げ、砲陣地などの構築の資材に使用される。今も、土嚢を貰いにリヤカーを引いた軍曹が来たところだ。土嚢は笹川と河田が作った分も合わせて十八袋できていた。
「どうぞ、構わず使ってください」
「おう」
杉野が軍曹に一瞥して、許可を出す。この軍曹殿、誰かに似ている人だなぁ……誰だっけ。杉野は脳の片隅で少し記憶をめぐらした。
目立つ口髭を生やした軍曹は、許可を出す前に土嚢をリヤカーに積み始めていた。実のところ、先ほどのやり取りは社交辞令のようなもので、本来はいちいち許可を求めるようなものでも与えるようなものでもないことである。
「おーし。じゃあ、要るようにまた来るぜ」
ひとつ残らず土嚢をリヤカーに積み終えると、軍曹はニカッと杉野に笑顔を向けた。
「はい。それまでにまた作っておきますよ」
杉野も少し手を止めて軍曹に行った。
それから、適当に軍曹が言葉を掛けて自分の作業場に戻ろうとリヤカーを引いた時だった。
バキッ!
「ありゃあ……壊れちまった」
軍曹が右手で頭をボリボリ掻きながらリヤカーを見て気怠そうに言った。
リヤカーは荷台の床板の一部が派手に割れていた。原因はおそらく過積載だった。
「大丈夫ですか? 軍曹殿」
杉野は作業を中断して、軍曹に駆け寄った。時間がかかるとみた木田は、杉野に一言断ってから豪内に降りて塹壕造りを手伝い始めた。
「うん? あぁ、すまんな。縄かなんか持ってないか? こんな穴じゃ土嚢はさすがに落ちたりしないが、他の奴が使うときに困るかもしれんから、応急措置ぐらいはしときたいんだ」
「土嚢用の縄で大丈夫ですか?」
杉野は軍曹に土嚢用の縄の束を手渡した。
「おぉ! 十分だ十分だ。感謝するぜ」
軍曹は礼を言いながら、手慣れた手つきで床の割れた部分に縄を張り巡らし、網を作るように縄を結び合って穴を防いだ。
「ふぅー。こんなんでいいだろ。助かったぜ伍長君」
「まぁ、同じ連隊ですし、お互い様です」
杉野は笑顔で謙遜する。
「そうか。俺は、北沢だ。階級は見ての通り、軍曹。よろしく頼むぜ」
「自分は、杉野と言います。伍長です。こちらこそお願いします」
二人は敬礼しあった。
「ん? 杉野? どっかで聞いたな? どこだっけ」
軍曹は右手で口髭をいじりながら記憶の棚を漁った。やがて思い出したのか手をポンと打った。
「おお! 貴様、上陸初日から憲兵にぶっ飛ばされた伍長殿だろ!?」
なぜか嬉しそうに北沢は聞く。
「うぅ……そうですが、結構な噂になってるんですか?」
軽く唸って質問に同意してから、杉野は恐る恐る質問を返した。
質問を聞いた北沢は盛大に笑い出した。
「わははははは。そりゃそうだ、初日からぶっ飛ばされる馬鹿な奴はいないからなぁ!」
北沢は、バンバンと痛いくらいに杉野の背中を叩いた。
「軍曹殿……恥ずかしいんですが」
杉野は右の目じりを右手の人差指で軽く掻いた。
「何言ってんだよ。憲兵に”びんた”を食らうなんてなかなかねぇぞ。もっと胸張れよ」
杉野は思う。あぁ……北沢軍曹殿は今野と同じ匂いがするぞ。この人の部下はなかなか大変そうだ、と。
「じゃあな、杉野。同じ連隊ならそのうちまた会えるだろ。会ったときは憲兵にぶっ飛ばされた話、面白く聞かせろよ」
北沢はニヤニヤ笑いながら修理したリヤカーをがたがた引いて戻って行った。
杉野が、北沢に似ている人物……夏目漱石を思い出したのは、それからしばらく経ってからである。