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暮惑いの行商人

作者: 高梨いろは

 切欠はほんの些細なことだった。

 大人だったら、なあんだで済まして仕舞うような下らないこと。母だったら仕方なかったわねと苦笑いして、学校の帰り道にある塾の講師だったら、高校生は勉強が本分だろうと諭すような。


 たぶん、失恋とでも言うのだろう。

 私にとって、初めての出来事だったからこの気持ちを何と言ったら良いのか解らない。母も先生もこういう生活上で必要なことはなあんにも教えては呉れないのだ。


 電車のなかでぼんやりと外を眺める。まだ、日は高い。何せ、授業の途中でサボタージュして来たから、時刻は午後二時を過ぎたくらいなのだ。きっと今頃、先生たちは大騒ぎしている。家にも電話を掛けるだろう。

 携帯電話に視線を落とすと、メールが来ていた。親友からである。ただ一言、先生が心配してるよと可愛い顔文字と一緒に書かれていた。どうやら、親友は私を心配してはいないようだ。そもそも彼女を親友だと思っていたのも、私の方だけなのかも知れない。


 胸の奥が掴まれたように、きゅうと痛んだ。思い出したくない記憶をかき回されて、切なくなる。悲しいというより、馬鹿みたいだと思った。

 私の好きな人が、私の親友と口付けをしていたのを見た。ただ、それだけのことをこんなに苦しむなんて。


「具合でもお悪いのですか?」


 いつの間に、私の前にやってきたのだろう。

 顔を上げると、ぴっと三つ揃いのスーツを着た男の人が目の前に座っていた。顔は夕日の逆光でよく見ることが出来ない。

 彼の顔を隠す橙に違和感を覚え、窓の外に視線を移す。先ほどまでの明るさが嘘みたいに、夕日へと変わっていく様子が見える。

 午後二時といえば、季節が冬と雖もまだそれなりに日が照っている時間のはずなのに、窓の外を見れば既に日が沈もうとしている。明らかにおかしい。


「い、いえ……」


 辺りを見回すと、電車の中には誰もいなくなっていた。

 この電車は、たしかに普段から田舎の人気のない路線だ。しかしながら、都心の電車のように昼間からたくさんの人がとはいかないにしても、誰も乗っていないというのは違和感を感じる。それに、さっきまでは人が乗っていたのだ。


「あ、あのっ……この電車、次は何処に止まりますか」



 気づかぬうちに、乗り過ごして仕舞ったのかも知れないと、一縷の望みを掛けて問う。

 男の人は膝に乗せたトランクの上に置いてあるソフト帽を撫で、抑揚のない口調で答える。


「この電車は、止まりません」


「止まらない?」


 止まらない電車など、聞いたこともない。ふざけているのだろうか。

 苛々としながら返事すると、男の人はやはり感情の見えないテノールで答える。その声音は上手く言えないのだけれど、何処かぞっとするような、それでもずっと聞いていたいような蠱惑的な響きを孕んでいる。それは、夜中にみるオカルト映画に似ていた。 


「ええ」


「それは冗談ですか。だとしたら、面白くありませんよ」


「僕は冗談など申しません」


 がたんがたんと電車はいつもと変わらず、呑気な音を立てて走り続ける。

 こんなに私は切なくて悲しくて、大変な思いをしているのに、電車は何も変わらずにいつも通り進んでいくんだなと思うと、全部ぶちまけて泣き喚きたくなった。そうしたら、たぶんすごく気持ちがいいだろう。


 男の人は、ソフト帽を撫でていた手を止めて、指を組む。白くて細くて長い指だ。それは私の好きだった彼に似ていた。


「君はこの電車に乗ったとき、本当に目当ての駅に帰りたいと思いましたか」


「当たり前だわ。そうじゃなくっちゃ、電車なんか乗らないもの」


 鉄道が特別好きなわけでもない私に、必要以上に電車に乗る趣味などない。ましてや、今の私は必要以上に人と関わりたくなどないもの。早く、早く、何処かにーー。


「嘘を言いなさるな。逃げてしまいたいと思っていたのでしょう。帰りたいでも戻りたいでもなくって、逃げたい、と」


「逃げたいは帰りたいと同義だわ」


「違うだろう。帰りたいは目指す場所がある。けれど君の言う逃げたいは、目指す場所がない」


 違う、とは言えなかった。

 家に帰っても何処に帰っても、今の私の気持ちなど誰も解っては呉れないと思っていたのだ。

 こんな恋に溺れて親友に裏切られて、安い三流の恋愛小説の悲劇みたいな。そんな、下らないこと。馬鹿みたいなことで悩んでるなんて恥ずかしくて誰にも言えない。

 だから今の私は、帰りたいより逃げたい気持ちの方がずっと大きかった。


「その通りだね。私はいきたくない。何処にもいきたいところがない」


 親友は言ってた。私は味方だよ。大丈夫、協力してあげる。彼に上手く言っておいてあげる。

 彼は言ってた。君は一人でもやれるだろう。でもあの子は俺が付いていてあげないと。あの子は守ってあげないと。


 何処から掛け違えていたのだろう。どこから変わってしまったのだろう。そんなことも解らなかった。馬鹿なのは私だったのだろうか。

 こんな問題にぶつかると大人であるところの母や先生は知っていたのなら、意味不明の方程式やメソポタミア文明、夏目漱石なんかよりも、そういうことを先に教えてくれたら良かったのに。


「電車というものは、何処にもいきたくない人が乗ると道を見失うんですよ」


「いつまで?」


「延々と。貴方が道を見つけるまで」


 男の人が窓の外を向いたので、それ以上言葉を続けることが出来なかった。

 つられて窓の外を見てみるけれど、外の景色は先ほどから変わっているようには見えない。ずっと同じ駅と同じ駅の間を走っているみたい。時間も夕方からずっと変わらない。延々と同じところを止まることを知らずに走り続けている。


 そのとき、携帯が鳴った。メールである。時間は進まないのに、メールは来るらしい。

 送信者は母だった。電話が繋がらなくて心配です。迎えに行くから何処にいるか教えてください、とビックリマークをたくさん使った文章が書かれていた。着信も何十件と来ていた。


 私が携帯から顔を上げると、男の人が窓の外を見ながら呟いた。


「姿形は変わっても、案外変わらぬものもあるものです。どんなに着飾っても醜いものは醜いまま、なんて言うのは悪い例ですが、喩えば、この街なんかはビルジングがたくさん建つようになっても、夕日は昔となんら変わりはありません。僕が小さいときからずっと、橙色です」


 空から零れ落ちた夕日は、橙の絵の具となって街を染めてく。男の人が小さな頃から橙色の夕日は、やはり私が小さな頃から変わらず、見知った景色を見知った色で染めて行くのだ。

 この街も電車も、親友も彼も私もなんにも変わらないし、ずっと同じだったのだ。この電車がずっと同じ時刻を同じ駅の区間を走り続けていくみたいに、同じだったのだ。


 嗚呼、変わったのは私だった。

 この夕日だって昔は両親と手を繋いであぜ道を歩いて、綺麗ねって笑い合ったものなのに、今はそれが当たり前になっていた。

 私の目は曇ってなあんにも見えなくなっていたのね。でも。


「綺麗ね」


 ちゃんと、綺麗なものとそうでないものが、正しいことと間違えてるとが解るように、私は夕日を見上げる。

 失恋は苦しかったけど、それをちゃんと消化して次に向かえる。だって私は既に本当の味方が誰か解るし、夕日の綺麗さも解る。


「私、帰るわ。ちゃんと道を思い出したから」


「そのようですね」


 男の人は、ソフト帽を被り、右手には大きなトランクを持って席を立つ。


「では、ご機嫌よう」


 ソフト帽の縁を持って会釈をする男の人をぼんやりと見つめていると、いつのまにか電車が止まっていた。

 そして、しんと静まり返っていたのが嘘みたいにざわざわと声が聞こえて、驚いて辺りを見回すと幾人かの乗客の姿があった。再び男の人へと視線を戻しても、そこに人影はなかった。


 と或る、雪降る季節の出来事である。

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