砂糖水
私はふらふらとした足取りで窓辺に近づいた。ガラス越しに見えるのは確かにタカジだ。月明りが彼の左頬をかすかに照らしているだけなのだが、私が見間違えるはずもない。
自室にある古びた木枠の窓は建てつけが悪い。私は家族が起き出さないよう、音を立てずそっと開けた。
「死ぬかと思った……」
タカジはぼそりと呟くと土足のまま部屋に転がり込んだ。仰向けに倒れると、ようやく靴を脱ぎ捨てた。一応気を遣っているのか靴は裏返して置いてある。
「どうしたの!?」
私は他にも聞きたいことが山のようにあったが、それしか言葉が出てこなかった。
「これこれ」
タカジがウエストポーチから取り出したのはサイダーの瓶に見えた。暗がりの中で自信はない。けれど、シルエットからして他の物が想像できなかった。まさかあの約束を果たす為にこんな危険を冒したのだろうか? 驚きを通り越してあきれるしかない。
「バカじゃん……」
「でも、約束したろ。マコトさんからようやく砂糖水入荷したって連絡あって、待ちきれなくてさ。何度か石を投げて窓にぶつけたんだけど、お前起きてこないから仕方なくニ階までよじ昇ってみたはいいものの――」
「風邪で寝込んでるんだから気付くわけないよ」
「窓開かないし、戻るに戻れないし。死ぬかと思つた」
「アホだね。どうしようもないくらいの」
なんだかどっと疲れがでた。自分が病人なのを忘れて体を動かしたせいだろう。タカジのせいでもあるが。
誰かに促されるように朦朧とした私の体はゆっくりと横たえた。まぶたは重く、自然と閉じてしまう。まるで自分の意志ではないかの如く、体が動いた。
「疲れたのか? 俺が飲ませてやるよ」
私は拒否する理由もなかったので、こくりと頷いた。
シュポッという音で王冠の栓が抜かれたのがわかる。栓抜まで準備して用意がいいことで。
不意に口元にひんやりとした物が触れる。注がれていく砂糖水は上手く私の口の中に入っていかず、頬を伝ってわきへ流れた。私は自分で”飲む“という行為すらできないほど疲れきっていた。
タカジは諦めたのか、私の唇に触れていた物をそっと離した。しかし、しばらくすると再び口元に何かが触れた。今度はゆっくりと慎重に口内へ液体が注がれ、私の渇いたのどを潤していく。外で待っていた時間が長かったせいか、砂糖水はやけに生温かったがとても甘い味がした。気持ちが落ち着いたのか、私は自然と眠りについていた。
あのあと、タカジがどうやって帰っていったのかは知らない。ただ、朝起きると枕元には空の瓶が残っていた。晩の出来事が夢でなかったことだけは確かだった。
数日経ち、私の風邪はようやく治ったが、夏休みはもう残っていない。否応なしに二学期が始まり憂鬱だった。
「ミナコ」
とんとんと肩を叩かれ振り向くと、そこには私と同じように沢山の夏休みの課題を抱えたカナがいた。相変わらずの彼女の笑顔を久しぶりに見れて私もおもわずにんまりした。
「リコも来てるよ。ほーら早くー」
はるか後ろの方で必死に歩いているリコが見えた。体が小さいせいで、遠くからだと荷物が動いているようにしかみえない。私とカナは一緒になって笑った。もちろんそのあと二人でリコの元に駆け寄り、荷物を少し持ってあげたのは言うまでもない。
このとき私は思い違いをしていたことに気付いた。夏休みが終ってしまって人生の半分を損したような気分だった。でも、そうではない。二学期は夏休み以上に楽しいことが待っているのだと。リコやカナたちといると、そんな予感がしてならない。
ところでタカジはというと、二学期早々に風邪を引いていた。こっそりと耳打ちして『私のカゼ伝染ったんじゃない?』と言ったら、ぶんぶんと首を横に振って意思表示した。マスク越しなので表情までは覗い知れなかったが。
おわり。
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