蝶3
タカジの歩みが徐々にゆっくりとなると、立ち止まってうんと背伸びをしだした。私は話ながら彼についてきただけなので、どこをどう歩いたのか、あたりは見知らぬ民家ばかり立ち並ぶ光景になっていた。
「ミナコ、ちょっと待っててくれる?」
タカジはそう言い残すとずかずかと敷地の中へ入り込んでしまった。
私は呆然とするしかない。まあいつものことだが。
「やっぱりそこで待たせるのも悪いから中に入っててよーー!」
すでに建物の中まで入っているのか、こもらせながらも大きな声で私を呼んできた。私は言われるまま、恐る恐る人様のお家に上がり込む。
生垣で囲まれた外からは想像できなかったが、中はやや広い庭付きの平屋が建っていた。玄関に近づくと、家の表札が目にはいる――「桑原?」どうやらここはタカジの家らしい。しばし安堵。
きこきこ。
初めて訪れたタカジの家を私がしげしげと眺めていると、家の脇から三輪車に乗った五歳ほどの男の子がやってきて、突然声をかけてきた。
「兄ちゃんの友達?」
「あ、うん、そう。貴治君と同じクラスの岩本ミナコって言うの。よろしくね」
私は三輪車に乗った男の子の目線にあわせるため、ひざを抱えるようにしゃがみ話しかけた。
「高治君の弟君だよね? お名前教えてくれるかな?」
「くぁはら…桑原、タダカズ……です……」
今度は私が質問返しをすると、タカジの弟君はたどたどしい棒読みながらも丁寧に自己紹介をしてくれた。
「中まであがってくれてよかったのに」
振り向くと、タカジが玄関から顔を覗かせていた。
「弟君にごあいさつしてたから。ねっ!」
「うん」
ふんふん、ふんふん。
弟君は私の話にあわせ、こくこくと小さい首をうなずかせていた。赤べこ人形を連想しないでもない。
「あれー? カズうちにいたのか。母さんたちは?」
「かいごー」
「町内会かなんかかな? 俺また出かけるけど、おまえ一人で大丈夫?」
「うん。留守番でパトロール中だから大丈夫」
「あっそ。なんでもいいけどおまえ一日中それ乗っててよくぶっ倒れないな。汗だくだぞ。中入って少し休め」
「大丈夫だから。僕、まだパトロールの途中だったから行くよ。じゃーねー」
そういうと弟君はまたきこきこといわせながら、家の裏手のほうへ三輪車を漕いでいった。
「あ、逃げやがった。カズーーーー、危ないから家の外には出んなよーーーーーーっ!」
「んー」
わかったという意味なのか、姿が見えなくなった弟君の返事はかすかに聞こえ、間もなく風の中に消えていった。タカジはやれやれといった表情をしていたが、弟の扱いにはだいぶ慣れている雰囲気だった。
タカジの隠れた一面をまたも垣間見れた私は思わずにんまり。これはカナたちに報告して話のネタにしてやろうかなどと一考。ま、想像しただけで満足なので実際にやりはしないのだが。タカジギャップ萌に心中限定で意地悪してみた。
それはそうと、タカジが私になにやらおごってくれるということで私たちはまた歩き出していた。寄り道とはこのことだったらしい。
「悪いな。財布部屋に置き忘れたまんまだったから、遠まわりになって」
「構わないよ。それにしても弟君かわいかったね。あんましタカジに似てなかったけど」
「そうか? なんかいつもよりおとなしかったなあいつ。普段はお客さんが来ても人見知りしないやつなんだが……」
「私は苦手なタイプだったのかな」
「どうかな。女の子が家に来るのは珍しいから、照れてたんだろきっと」
「ふぅん。ところでなにおごってくれるの? 別におごられる理由もないけどさ」
「俺をかばってくれたお礼に、仲原商店で一杯おごらせてよ」
「だぁかぁらー、あの時はそんなつもりで言ったんじゃないんだってば。それにジュースぐらい自分のおこづかいで買うよー」
仲原商店とはこの町で言うところのコンビニみたいな店である。店内の半分はお米とお酒で占められ、残りは雑貨とわずかに並ぶ自家製の惣菜パンが一個一個御丁寧にラップに包んで売られている。自家製パンのレパートリーは少なく、あんぱんとか焼きそばパンとか定番のものしかない。例外として苺クリームサンドなるサンドウィッチが存在する。おそらくショートケーキをイメージしながらほおばり楽しむものだろう。雑誌もないわけではないが、大人が読むような週刊誌と新聞が二三あるだけだ。なので、私たちが読むような雑誌を買うには、面倒だが前もって注文しておかなければならない。
ほとんどは地元の大人たちがお得意さんの地味なお店なのだが、実は私たち小学生も結構利用している。文房具を切らしたときは鉛筆や消しゴムぐらいであれば、朝の通学途中にこの店へちょっと寄るだけで買い揃えられる。もしほかの店に買いに行くとなると、この辺には八百屋とか洋品店とか決まったものしかないので、わざわざ遠くの町まで足を運ばないといけない。
見た目はボロくて小さいところだが、この町になくてはならないライフラインなのだ。
「ちっちっち。年がら年中売られているそんじょそこらのジュースとはわけが違うぞ」
タカジが自慢げに切り出す。
「えっ、私のおこずかいじゃ買えないような高価なものなの? そんなジュースあのお店に売ってたっけ?」
「厳密にはジュースではない。値段も百二十円だ。しかも八月の間しか出回らないレアな飲み物だ」
「むぅ~、もったいぶらずに教えてよ!」
「砂糖水だ!」
「………………なにそれ?」
どうだ参ったかというタカジの満面の表情。それに反比例して曇りゆく私の顔。
「いや、だから……砂糖水」
私のリアクションが予想外だったのか、タカジの言葉尻がしぼんでいく。
「私、昆虫じゃないんだから、そんなん飲みませんよ。おごってくれるって言うから、相当いいものかなって期待してたのに……」
「違うよ、昔からそういう商品名なんだ。これでも地元じゃ有名な会社が作ってるサイダーなんだぞ」
タカジによると、『砂糖水』と瓶に銘打たれたこのサイダーは、名波酒造という会社が作っているもので、先々代の社長が当時落ち込んでいた夏場の売り上げを上げるためにと考え出した商品らしい。地元では社長の逸話とともに誰もが知っている。
味は普通のサイダーより砂糖が多いせいか少し甘め、口当たりはとろりとしている。しかし、使っている地元名水を損なうことなくさっぱりとした清涼感なのだそうだ。
まあ、全てタカジの話なので、私の『砂糖水』に対する不信感はいまだ拭えていない。
「飲んでみればわかるって」と、私の心内を察したのかタカジが言った。
ぼうっと生暖かい。夏の空気が目に映る向こうの地面をゆらゆらと歪ませる。その中を掻き分けるようにして私たちは仲原商店にたどり着いた。
蝶3 つづく
登場人物
桑原タダカズ タカジの弟。幼稚園児らしい。作中、明記しないが唯和と書く。
スポット
仲原商店 地元の人間しか利用しないようなひっそりとした佇まいの店。米・酒といった食料品から、洗剤などの日常品、ちょっとした文房具まで一通り揃っている。どうやらタカジのお気に入りの店らしい。