序章-甲虫
「おーいミナコぉー。明日カブトムシ捕まえに行くけど、お前も行くー?」
夕暮れ。私が夏休みの宿題をこなしていると何故かタカジの声がした。私は面倒なのだけれど、仕方なく二階の部屋の窓から顔を出して返事した。
「なーにー?」
「だからぁー、カ・ブ・ト・ム・シぃぃー! 来んなら俺んちの前な。早朝だかんなー。早く来ないと置いてくぞー。じゃーなー!」
なんだかんだで私の返事も聞かずに自転車に乗って行ってしまった。
呆れ果ててしまっても、クラスメート全員口をそろえて言うのだ「いつものことだ。言っても治らん」と。
彼の名は桑原高治。くわはらにたかはるでなんだか呼びにくいから、「タカジ」と愛称が付けられたそうだ。愛称が付けられるくらいなのだから、決して悪い奴でもない。転校生である私ですら、今ではあいつに振り回されながらもタカジと呼ぶほど仲も良くなり、一緒に遊ぶようになったのは不思議なくらいだ。強引で一方的な彼のペースに皆困り果てても、それほど嫌じゃないのがタカジの魅力なのだろうか。
日が落ちてもお父さんは帰ってこない。台所からは母が夕飯の支度をしている音が響いてくる。その音を聞きながら私は一階の居間でウトウトしていた。ニュース番組はとっくに終わってTVには難問クイズに頭を抱える芸能人が映し出されていた。
父の仕事の都合で都会から田舎に引っ越して来ることになった時は物凄く不安だった。生活だって変わるだろうし、何より仲良しの友達と離れ離れになることが悲しかった。こっちの小学校に転校して来てイジメられるかも知れないし、それはなくとも、友達を作ることは諦めていたのだ。
私はまどろんだ頭の中で、明日早く起きれたらカブトムシを採りに行こうとそう決めた。
「ねぇタカジ。私、網とか持ってないけどいいの?」
「ああ。俺が持っているから問題ない。……お前、カブトムシ捕まえたら家に持って帰る?」
「しないしない。ただ眺めて、捕まえて、逃がしてそんで終わり」
「んじゃ大丈夫だな。よーしみんな行くぞ。おいヤマム、寝ぼけてないでシャキッとしろよな」
「まだ眠いよぉ。ねぇタカジ、ラジオ体操までには帰れるよね? 穴開けると母ちゃんに怒られちゃうんだけど……」
タカジに強制召集された者たちは一様にまだ眠たそうだ。男子はタカジを除けば三人で、女子は私一人。聞けば他の女子たちにも誘いをかけたが、予想していた通り来たのは私だけという事だった。私もまさかぱちりと目が覚めるとは思っていなかったが、まあ特にする事もないので来てやることにしたのだ。
「ところでタカジ、カブトムシってその辺の木を探せば簡単に見つかるわけ?」
「そんな楽して捕まられるわけないだろ? クヌギとか決まった木があるところじゃなきゃダメだし、カブトムシをおびきだす仕掛けも本当はもっと凝ったやつにしたかったけど、今回は砂糖水のにした。成功率低い方だけど、これしか用意出来なかったから仕方ない。俺たちよりもっと早い時間に、兄貴が仕掛けを仕込んでくれてるから、その林まで向かうぞ」
「この辺りだよねタカジ?」
目的地に向かうタカジにみんな黙々とついて歩いていた中、森谷君が突然言葉を発した。どうやら、去年の夏休みもこうしてタカジたちは虫採りに来ていたようだ。男の子たちはどうしてこういう遊びが好きなのか、私には理解できないが。
「そうだな。おっ、あったあった」
タカジが近寄った木には白い綿のようなものが幹にくくりつけられていた。
「あー、カブトムシいるいる」
「今年は運がいいな。ミナコ乗り気そうじゃなかったのに、お前が一番嬉しそうな」
思わず声を上げてしまっただけなのだが、指摘されると恥ずかしい。
「ほんと。結構いんじゃん。オス二匹に、メス一か。去年はハエとか小虫が止まってただけだもんな」
「見てみろよ。すんげー砂糖水すすってるぜ」
みんな脇の方からカブトムシを覗きだした。私も横から見てみると、カブトムシの頭と綿の間に触角とはまた違う何かが僅かに伸びていた。
「これって口なのかな?」
「ん、そうそう。これが口」
私の問いに井口君が答えてくれた。
「ミナコ、眺めんのはもういいから、どれか一匹素手で捕まえてみ」とタカジが言い出した。
「えぇ!? 食事中に悪いよ?」
「お前虫に気ぃ遣うなよ。腹いっぱいになったら飛んで逃げられんぞ」
「わかったよ。どれでもいいんだよね」
私は手前のオスに狙いを定め、そうっと胴の辺りを掴んだ。
「こんな感じ?」
「そうそう。そのままゆっくり幹からひっぺがせ」
「ん~。取れないよー」
カブトムシのギザギザした足先が幹肌の隙間にがっちり引っ掛かっていて剥がれない。
「もうちょっと力入れていいから引っ張れ」
言われた通りにすると木からカブトムシを離すことができた。カブトムシのお腹を見ると不安定になった手足をしばらくワシャワシャとばたつかせていた。頭にある立派な角を目でなぞるように見ていると、さっきの口だかよくわからない物が裏側からだとよく観察できた。ひょこひょこ動く小さな触角とつぶらな瞳の持ち主で、案外かわいい顔をしていたんだなと気付かされた。
「あー、すんげー面白かったなー」
最初はあんなに元気の無さそうだった山村君も、カブトムシを発見してからは一気にテンションが上がっていた。もちろん私たちも同じ気持ちだったから、帰り道は足取りも軽かった。
「それよりヤマム。ラジオ体操急がなくていいのか?」
タカジに言われ、山村君は一瞬にして我に帰った。カブトムシ遊びに夢中になっていた私たちは、長い間、時を忘れていた。早朝から動いていたにも関わらず、すでに結構な時間になっていた。
「ご、ごめん。タカジ、僕先に行くから。またね!」
「んじゃ、俺も」
「じゃあねタカジ。岩本さん」
そう言うと男子三人はあっという間に走って居なくなった。眠いとか言ってても、元気が有り余っている男の子たちにちょっと関心してしまった。私はというと、楽しかったカブトムシ遊びの余韻に浸っていたくてラジオ体操に行くなんて気にはなれなかった。
ふと気付くと、タカジはブラブラとした私の歩調に合わせている。タカジはハナからラジオ体操に行く気がなかったのだろうか? なんというかマイペースな奴だ。
「そういえばさぁ、タカジたちカブトムシ捕まえないで逃がしちゃってたね。なんで?」
「お前だってそうだろ? 変なこと聞くなぁ」
「私は女の子だし……。言い出しっぺのタカジが逃がすなんて意外だなって思って。虫カゴだって持って来てたし」
「これはお前が使うかもと思ったけど、いらなかったな。あいつら三人がどう考えてたか知らないけどさ、俺はカブトムシを虫カゴに入れるってのが本当は嫌なんだよね」
しばしの沈黙の後、何か思い出したのかタカジが口を開く。
「ミナコさぁ」
「うん?」
「百貨店のカブトムシ見たことあるだろ?」
「あぁ。七階とかに売ってるやつ?」
「七階かどうか知んないけどさ。クワガタとかカブトムシが夏の時期になると虫カゴに入れられて売場に並べられるだろう? あれってヒドくねぇ?」
「うん、まぁ虫カゴに閉じ込められて可哀想だよね。でも虫って小さいし、カゴに入れとかないと逃げちゃうからしょうがないかな。人間の都合だけど……」
「それもあるけど、そうじゃなくてさ。デパートの店員は中の虫の状態なんか見ちゃいないってことさ」
「エサのゼリーも入ってるし、大丈夫なんじゃない?」
「だからさ。ほっといても大丈夫と思っているから逐一見ない。人工的なカゴの中で日増しに元気が無くなっていたとしても誰も気付かないのさ」
「……本当に誰も気付かないの?」
「いや、気付くんだ。俺みたいな子供がさ。あれ、このカブトムシ動き鈍いなぁって。生きてるって実感もないまま一生を終えてしまうのなら、短い間でもいいから俺が買って自然に還してやろうかなんて思うわけよ。でもさ、ふと頭に浮かぶんだ。カブトムシが売れたらさ、デパートの店員が『じゃあ来年もまた仕入れるか』なんて考えてしまうだろうって。それはそれで残酷だよな」
私はなんだか次の言葉が出なかった。それを察したのか、タカジはいつもする下らない内容の話をとりとめもなくしてくれた。
やっと景色が見慣れた街のものになった所でタカジと別れた。
序章-甲虫 つづく
登場人物
桑原貴治 タカジは愛称であり、正しくはタカハルと読む。
岩本観奈子 ミナコ。父の仕事の影響による小学校転校に不安があったが、明るく活発な性格でタカジたちともすぐに打ち解ける。彼らとよく遊ぶため、男勝りと誤解されがち。両親と三人暮らしだが、仕事で父は不在がち。髪はセミロング。
ヤマム タカジの友達。山村君の愛称。すこしおっちょこちょい。
森谷 タカジの友達の一人。
井口 タカジの友達の一人。